326:突き詰めてはならない
「……カレン、いま、私はかつてないほど嫌な予感がしている」
「あら、だとしたら気のせいですよ」
不調のライナルトを見舞ってからしばらく。
順調に回復をみせ彼は、いまやすっかり椅子に背を預けられるまでに回復している。昨日は公務もきちんと顔を出せたみたいだ。会うのは数日ぶりになるが、すっかり顔色も良くなっている。
しかし血色の良い肌とは正反対に、その声音は苦々しい。机の上では黒鳥がゴロ……ゴロ……とのったりした動きで転がっている。
「好きに遊んで良い、とおっしゃったのはライナルト様です。どんな風に遊ぶかを選ぶのは私なんですから、いまさら文句を言われてもしりません」
「たしかに言った。言ったが……」
「きっとライナルト様が想定してたのは駒を動かす類の遊びなんでしょうけど、私はつまらないです。だってどうやったって勝てないんですもの。これまでの勝負、十五戦中私が勝てたのは何回ですか?」
「……一回だな」
「そ、連敗の私を見るに見かねてわざと負けてくれた一回だけです」
テーブルの上にはチェスに似た盤上ゲームや、カードの類が置いてある。これは私がお見舞いに行く度に元気になっていくライナルトと遊んで……遊ばれていった数々の証拠だ。相変わらず療養中の部屋に入れる人が限定されているから参加者が二人しかいない。
で、あまりに私の負けが続くから音を上げてしまい、見かねたライナルトが「やりたいことがあるなら付き合う」と言ってきたので提案したのだ。
「赤もお似合いになりますねー」
ライナルトの表情はわからないが、きっと怖い顔のはずだ。
まさか自分が遊ばれる日が来るとは思わなかったに違いない。
こうやって髪を弄らせてもらうのは数度目になるが、今回はただただ純粋に楽しんでいる。
さっきまでは三つ編みにしていたが、これは前回もやったしあまりにつまらない。いまは両サイドに髪を持ち上げ結う、所謂ツインテール。さらさらの髪質なので難しいが、下手くそなりにリボンで可愛らしく飾っている。いまは残り半分を手がけているが、さっきからライナルトは両手と足を組んで態度が悪かった。
部屋は暖炉に火が入っている。少し暑いくらいだが、窓の隙間から入り込む風が気持ち良い。
「そう気を悪くしないでください。もうそろそろ日常業務に戻られるんですから、私とこうしてお部屋で顔を合わせるのも終わりです。陛下の髪で遊んだ思い出くらいいいじゃないですか」
「別にそんなことはない。滞在してもらっている以上は顔を見に行く」
「無理されなくていいですー」
赤もいいけど、宝石の留め金がついた飾り止めもいいなあ。問題は私がうまく扱えるかの話なんだけど……。
髪留めを選んでいると、入室許可を求めるノックが鳴った。ライナルトの返事はなかったが、あらかじめ来る予定だった人たちだ。彼の体調が回復したのを見計らってニーカさんが段取りを付けていた。
入室したのはニーカさん、ヨルン君に、一番最後に顔を出したのがヴェンデルだ。
「こんにち……」
物珍しげに皇帝陛下の私室を見渡していたヴェンデルは、ライナルトと目が合うなり黙り込んだ。
反対に不自然な咳払いを零すニーカさんはくるりと後ろを向く。ヒッ、と小さくも甲高い悲鳴を漏らし、うるさいくらいに咳をして肩をふるわせていた。
……よし、ニーカさんの反応は期待通り。ヴェンデルはやや期待薄かな。
リボンを結び終えたライナルトのツインテールは私も満足行く結果をもたらしてくれたが、この中で一番憐れな被害者がいたとしたら、それはライナルトではなくヨルン君かもしれない。
笑っていいのか、困っているのか、複雑な表情をしている。ニーカさんみたく顔を背けたかったかもしれないが、彼は皇帝陛下付きの世話係だ。客人の茶器類を用意するため逃げるわけにはいかない。
憮然としたライナルトが不満を漏らした。
「なんだ」
ぐほっとニーカさんからあり得ない声が出た。
「ひ、ふ、ふー…………げほっ……ひ……ちょ、ちょっ……外し…………」
おぼつかない足取りで部屋を出て行ってしまう。もうちょっとしっかり見て欲しかったのに残念だ。
その間にヴェンデルは早々に向かいの席に着いている。礼儀作法はひととおり覚えているはずだけど、今日は堅苦しい場じゃないから注意はしない。ライナルトも、まるで家の如く振る舞うヴェンデルを止めなかった。
「カレン、楽しい?」
「とっても」
「そっか。でも左右の位置が悪いし結び目も変だよ、もうちょっと器用さを上げなよ」
「えー、そんなはず…………ほんとうだ」
その上もう髪が解けてきてるし、ツインテールって難しい。
賢い子だからライナルトには言及しない。私が髪を弄り終わり、ヨルン君が退室すると入れ替わりでニーカさんが戻ってくるが、その表情はいつになく奇怪だ。
テーブルに置かれていたクッキーを一口食むヴェンデル。
「あ、美味しいや。なんだろう、これ、どこの店のだろ」
「ねー。それ美味しいわよね。どこで売ってますかって聞いたんだけど、お店じゃないみたいよ」
「店ではないというより、取り扱ってない、が正解ですね。皇室向けに特別に卸してもらっているものになります。滞在中お飲みになっている茶類も同様のはずですよ」
「そういえばウェイトリーが茶葉がいい、って褒めてた」
解説役に回るニーカさん。彼女は頑なにライナルトの方を見ようとしないが、一方でツインテールライナルトは諦めの境地に達したらしい。
「気に入ったなら用意させる」
「え、いいんですか」
「私はあまりこういった類の物を食べないから向こうも困っているはずだ。好きにすればいい」
「みんなのお土産にしてもいいですか」
どうぞと頷かれ、ヴェンデルの目が輝いた。
「……どうしたのさ、カレン」
「なんかヴェンデル、ライナルト様相手でも緊張してないなあと思って」
「お茶自体は初めてじゃないじゃん」
「そうだけど……」
「前から何度かお話ししてたし、宮廷に来てからも話してるよ。陛下も楽にしていいって言ってたし、今日だって遊ぶつもりで来ていいって言ったのはそっちじゃないか」
「うん、そうなんだけどね」
知らない所で義息子の人間関係が構築されてて、保護者としては複雑な心地。でもライナルトに会いたいって言ってきたのはヴェンデルだし、たしかにある程度仲良くなかったら「私室でもいい?」なんて問いに了承は出してこない。エミールなんて自分にはまだ早いなんて言って遠慮しちゃってたし、ツインテールをお披露目できなかったのは残念だ。
「それでね陛下」
とうとう口調までくだけだした。流石にお義母さんちょっと心配。
「僕とエミール、そろそろ家に帰りたいんだけどいいですか」
「……コンラートにか?」
「周りも色々落ち着いたみたいだし、そろそろ学校に戻りたいなーって。登下校にはちゃんと護衛を付けて……この際人数を増やしてもいいから、駄目ですか。こっちにお見舞いには来ます」
「カレンもそれで了解を?」
「うん、話は付けてます」
……宮廷にお世話になって結構経っている。ヴェンデルの申し出も当然だった。
「無理を言って招いたのはこちらだ。ゆえに家庭教師も付けさせてもらったが、それでは足りないか」
「足りない。だって全然遊べないし、周り大人ばっかりじゃないですか。ここはみんな親切で優しいけど、僕は家の方が好き」
などと言っているが、実際はクロとシャロが恋しくなってきたのだ。私もあの毛を堪能したいから気持ちがよくわかる。
コンラートの面々で一番宮廷生活を楽しんでいるのはマリーくらいだろう。
ライナルトはしばらく悩んだが、最終的には仕方ない、と判をくだした。
「ヘリングからも周囲の安全は確保していると言われている。帰りたいと言うなら留め置くのも本意ではない」
あっさり許可が下りたではないか。
これがツインテールじゃなかったらもっと……なんでもない。
ついでに私もそっと挙手してみせた。
「あの……ヴェンデルが帰るなら私も……」
ライナルトには何度か話をしているが、一向に許可が下りない状態だ。しかしヴェンデルが帰れるなら私にも望みがある。一縷の望みを賭けて口にしたら、こちらは二人口を揃えて言われた。
「カレンは駄目」
「何度言われようが了解できないと言った」
この通りだ。そのうえ情報規制がされているから鬱憤がたまる。私がライナルトで遊び出すのも仕方ないのだ。
「お気持ちはわかりますが、まだ医師の許可さえ下りていないではありませんか」
「でもニーカさん、私、ほんとのホントにもう大丈夫ですよ……?」
「こう申し上げるのはなんですが、それを判断するのは我々ではなくデニス医師になります」
デニス医師は帰っていいよーとは言ってくれない。あの人は宮廷医師とはまた違う立ち位置だし、扱う分野が特殊なせいか患者にはまったく遠慮が無いというか、なんというか。
…………うーん。
「カレン、今日は先生に診てもらう予定じゃなかったっけ」
「……それで許可が下りたら帰ってもいいです?」
ツインテライナルト、沈黙を維持。きっと許可は下りないと思ってるからこの表情なんだ。
ヴェンデルが帰れるなら私だって帰りたい。クロとシャロに会いたい。すかさず手の平の中に飛び込んでくる黒鳥をにぎにぎしていると、ニーカさんに苦笑された。
「ひとまずデニス医師と話をしてみてください。経過を看て問題なければ陛下とて検討されるでしょう」
こう言われ、午後にさっそくデニス医師の診察を受けた。診察といってもこのお医者様の診療は会話がメインになる。
……いらないといったのに、ライナルトは心の病を専門とするデニス診療所の看板医師を私に充てたのだ。
予約が取れにくいと評判の医者は私と同性だった。なんと三十代にして自らの医院を開き、それから数十年間ずっとオルレンドルで心の病に向き合っている。
各種聞き取りを行ったあと、家に帰っても良いか、と投げた問いに対する答えは否だった。
「貴女はいまだ暗がりを恐れていらっしゃる。その調子でどうやって家に帰られますか。お宅を拝見しましたが、コンラートの自室のみならず、夜は暗いところばかりです」
「灯りをつければ問題ありません。硝子灯なら用意できます」
「そうかもしれませんね。ですが悪夢の頻度は増えてしまいました。夜中に起きることが増えたと、たったいまおっしゃったばかりです」
「それは……」
「それにひとりきりですと食も進まないとか。先ほど伺った限りでは、大好きだった本もめっきり読まれておりません」
「ちょっと……気が進まなくて。開くくらいはしたんですけど」
「はい。進まなくても良いのですよ。お手にとってみただけでも、十日前に比べれば格段に心持ちが違っているのがわかります。貴女の具合は確実に良くなっていますよ」
デニス医師は続ける。
元気がないのも、本が読めないのも悪いことではない、と。
「見た目もよくなりました。傷をみて嫌な気持ちになることは……」
「以前も申し上げましたが、傷は体だけに残るとは限りません。心のとてもとても根深いところで血を流していて、それは他人が判断できる物ではないんです。大事なのは、貴女がどう感じているかを念頭に置いてください」
驚くべき事に、このデニス医師という人は私の予想を遙かに超え、考え方が近代的だ。まだまだ精神論が押し通されるこの世界では非常に珍しいといってもいい。だからこそ予約が取りにくくなるほど有名になるだろうし……デニス診療所ほどの心の専門医も増えないはずだ。
「やっと落ち着いたいまだからこそ安静にして、本当の意味でご自身を労ってあげるのが必要であり、それが貴女様自身やご家族の不安を取り除く鍵となります」
デニス医師の言うことはわかる。
しかし自身の容体を回復させる目的とは別に、私がいつまでも宮廷に滞在するのは良くないと思うのだ。
デニス医師はそれを思うように回復しない焦りと言うが、上手く説明できないけど、きっと焦りではない。
ライナルトはよく相手をしてくれるけど、ヴェンデルやエミールが帰るとなっては、私ひとりが宮廷に残るのは……なにかが違うのだ。
「本当はご子息を家に帰したくなかったのではありませんか」
……これは、その、ちょっと当たってる。今後はマリーも残るし、誰かひとりは一日に一回は顔見せに来てくれるはずだけど、嫌とは言えなかった。
「私の方からご子息と弟君にいましばらく残っていただくよう、相談してみましょうか?」
「……それは……いえ、結構です。あの子をいつまでも普通の生活から離すわけにはいきません。いい加減お家に戻してあげないと、クロやシャロも可哀想」
いつまでもあの子達を拘束しておきたくはない。
私も自分が少しずつ良くなっている自覚はあるし、ひとりの時間を増やさなきゃいけない。子供っぽく皆を振り回すのも終わりにしなくてはならないだろう。根気強く付き合ってくれた家族やライナルトには悪いと思っている……そんな旨をぽつぽつと話した
うん、うん、とデニス医師は相づちを打っているが、いままで家に帰ることはすべてやんわりと駄目と言っている。
表面上は柔らかいが厳しい人だった。
しかし私の話したことは、相手が誰であろうと決して誰にも他言しない。その言葉を信じたし、他人であり医者だからこそこうして話せることもある。
「傷は深い、と申しましても、痛みを塞ぐには家族の協力は必要不可欠です。これまでお話を伺ったところ、カレン様にとってご家族はとても大事な存在です。私としても家族が傍に居るのが一番と存じますから、どうしてもとおっしゃるなら家に戻れるよう陛下に進言はできます」
「ほんとですか」
「はい。ですがひとつお聞かせください」
人差し指を立て、デニス医師は言った。
「ジェフさんになんとお声がけするつもりか、それを私にお聞かせくださいませんか」
……結局、帰宅許可は下りなかった。
昨日の「過日になくした安らぎ」のなくしたは「亡くした」になります。
ライナルトにとって誰が該当するかを考えていただくと面白いかもしれません。




