322:実りはいつになるか知れず
やっと、やっとその言葉を引き出せた。
キヨ嬢の呟きが一瞬別の誰かと重なるも、幻覚に目を瞑る。
「……あなたの意思は聞き届けられるでしょう。これからライナルト様に伝えてくるけど、その前に、皇太后……様には会っていく?」
押し黙るのは罪悪感からだろうか。それも当然だろうし、ひとまずそっとしておいたほうがいいのかもしれない。彼女の選択を伝えるべく立ち上がると、袖を引っ張られた。
振り向くと俯きがちになったキヨ嬢に引き留められている。言うか言うまいか迷いに溢れる仕草にそっと問いかける。
「……同行しましょうか?」
私に頼らねばならないほど打ちひしがれているのだ。
幼子みたいに頷く彼女を連れ立って部屋を出ると、すでにアヒムやエレナさんが待ち構えていた。もしかしたら聞き耳くらいは立てていたのかもしれない。アヒムは複雑そうな面持ちでキヨ嬢を見ているが、何か言ってくる気配はなかった。
エレナさんによれば、すでに皇太后クラリッサは独房に移された。ライナルトは忙しくて会えないが、ニーカさんの取り計らいで、面接も許してもらえたのである。
クラリッサの扱いが貴人に対する扱いではないのは一目瞭然で、キヨ嬢は小さく「嘘」と呟く。
牢の中で項垂れていた皇太后クラリッサは、私が顔を見せた途端に烈火のごとく怒り出したものの、艶やかな髪や肌は台無しで、一気に何十才も老けたように感じられる。
「売女め、わらわの娘をどこにやった!」
「状況を理解されたのならもう少し静かに話ができるはずと思いましたが、まだそんなことを言っているのですか」
「ふざけるな、この、この、卑怯者めが! 正々堂々とわらわと対決せよ! 貴様のようなあばずれがこのオルレンドルに残るなどあり得ない、必ずや正義の鉄槌がくだされようぞ!!」
「あなたの正義はカール皇帝の死と共に敗れました。それすら正義と声高に叫ぶのはあなたくらいです」
クラリッサからは見えない位置にたたずんでいたキヨ嬢がおそるおそる足を運ぶと、彼女が勇気を振り絞ろうとしたところで激昂が飛ぶ。
「まさか、まさかわらわのキヨまでもお前は誑かしたと言うの!」
「ちが、ちがうの、おかあさ……」
ガチャガチャと激しく入り口を揺さぶるが、鉄の柵はびくともしない。やがてキヨ嬢の様子に気付いた皇太后は怪訝そうな顔つきになり、俯いて服を握りしめるキヨ嬢に問いかけていた。
「どうしたというの、キヨ。わらわ達の敵はそこに居る女です、何故貴女は黙ってそこに立っているのです。いま貴女の働きがあれば、わらわとお前の威光に兵達はひれ伏すでしょう。ライナルトとそこな売女を抹殺することも夢ではありません」
「……お義母さま」
「愛しいわらわの娘よ。さあ、ひと頑張りですよ、立ち上がりなさい!」
キヨ嬢はすでに泣き出しそうだし、私も苦々しさを隠せなかった。薄々予想はしていたが、皇太后から彼女を案ずる声は一言も出ない。
ヴィルヘルミナ皇女が皇太后と仲が悪かったのもこういうわけか。
ニーカさんの部下からキヨ嬢がライナルト預かりになると告げられると、クラリッサの顔に絶望の影が差し込む。
「陛下の御心に感謝されるとよろしいでしょう」
「お待ち、ふざけるでない、わらわの娘になにをした!!」
皇太后の叫びは、まさに耳をつんざく悲鳴だ。残る部下の人には申し訳ないが早々に牢を引き上げると廊下に背を預けたのだが、そこでようやくアヒムが口を開いた。
「あーあー……姿見せる必要なんてなかったのに、わざわざ悪者になっちゃってまあ」
「仕方ないわ。彼女の口から陛下に降るなんて言わせたら、どれだけ怒り狂うか、あの子に矛先が向くかわからないのだもの」
「貴女が出たところで、あの子に牙を剥かないわけはないでしょうに。そういうのはあの金髪に任せておけばいいんですよ」
「どうかしら、ライナルト様はもう皇太后とは顔を合わせるつもりがないかもしれない。思い込みの激しくて現実が見えない人なら、私になにかされたと思ってくれた方が、まだ彼女に優しくなるかもしれないじゃない。キヨ嬢が縋れる先はあの人だけなのだもの」
「希望を残してやるってやつ? アルノー様にヴィルヘルミナを残したみたいにですか?」
「うん。必要でしょ、そういうの」
「残酷だなあ。中途半端に示してやる方がずっとつらいでしょうに。人ってもんは助けなかった人間より、助けた人間を恨むもんだ」
「それでもどう立つかはあの子次第よ」
「カレンに恨まれる覚悟があるならいいですけど、いまさらですかね」
「いまさらよ。そうじゃなきゃこんなところに押しかけたりなんかしない」
キヨ嬢にはまだ魅了の真実が残っている。もしかしたら将来恨まれるかもしれないが、かも、ばかりを気にしていても何にもならない。
気が抜けてしまい、場も忘れてずるずるとしゃがみ込んだ。
頭の上に手の平が乗っかるが、撫でるというより無遠慮に体重をかけられている。
「帰ったら綺麗なもんをみなさい、花でも物語でもなんでもいい」
「重い」
「音楽でもいいならエミール坊ちゃんあたりに演奏家を紹介してもらうといい。いい音を奏でる楽士を色々知ってます」
「あの子、そんな知り合いがいたの?」
「エミール坊ちゃんはね、交友の広さだったらアルノー様を上回りますよ」
キヨ嬢はいまごろどんな話をしているのだろう。せめて彼女にとって一筋の光になってくれたらいいのだけどと願いながら、こんなことを口にしていた。
「ねーアヒム」
「へいへい」
「私、兄さんと話し合いが足りなくてすれ違ったじゃない」
「ですね。お陰でおれは職無しだ」
「お仕事紹介する?」
「いらね。いまは流浪が気持ちいいんでほっといてください」
「あっそ。でね、エルには言葉が届かなかったのよ」
「ほー。例えばどんな」
「色々よ。色々。そのせいであんな結果だったんだけど」
「全部が貴方の責任ってわけじゃないでしょ」
「わざわざ言われなくてもわかってますー、そういうのもあるってことを言いたいだけよばかー」
「言いたいことはわかってますよ。あとバカはあんたの方ですバカ」
エレナさんは黙って耳を傾けている。アヒムは話半分程度に、いっそ鼻でもほじりながら聞いているのではないかと思うくらい適当な相槌。不真面目極まりないが、いまの私がほしいのは重苦しい空気でも、同情や悲しみでもない。
「……今度は間に合ったかしら」
「彼女、アルノー様でもエルの嬢ちゃんでもありませんよ」
「知ってるわよ。ばか」
ただ、ただちょっと言ってみたかっただけだ。彼が言わんとする通り、こんなの過去の清算にもなりはしない。胸にしこりは残ったままで、私に何か残ったかと問われたら小さな自己満足だ。やはり彼女はエルの代わりにはならないし、私は失ったままだ。
……それでも、これで私は誰かに奪われるだけじゃなく、取り残すこともできたと思えたのだから、収穫くらいはあったのだろう。
「まぁ、それでも、いつかどこかで生きる意味を見出してくれたらいいわね」
彼女にどんな過去があって、どんな経緯でこの世界に流れ着いたかは知らないけれど、見知らぬ世界でよすがもなく、ひとりぼっちになるのはあまりに寂しい。
時間を置いて戻ってきたキヨ嬢の目元は真っ赤に腫れ上がっていた。
ぐしゃぐしゃに泣く彼女を取り囲む誰もが慰める資格を持たない。その身はシャハナ老預かりになるためバネッサさんが迎えに来たが、気になったのはバネッサさんの顔の擦り傷だ。
何か言う前に「問題ありません」とピシャリと断られた。
「顧問には後日報告いたしますが、我が師シャハナより脱獄犯、魔法院元長老アルワリア師を捕縛したと言伝を預かりました」
「……そうですか、シャハナ老に怪我はありませんでしたか」
「我が師はあのような恥知らずに遅れをとることなどありませんので大事はございません。それよりも、顧問には後日お力添えいただかなくてはならない点がございます。その時はどうぞご協力くださいませ」
「優先して事にあたるとお伝えください。お二人とも、また向こうでお会いしましょう」
あの首輪を付けてきたのは、やはり資格を剥奪されていた元長老で間違いなかったらしい。
バネッサさんの報告は事務的だったが、去り際にお腹をつつかれた。
「怪我人はさっさと帰りなさいよね!」
バネッサさんと、そしてキヨ嬢と別れたら、今度は私たちの番だ。一同から離脱していたマルティナが待っていてくれたが、そこで予想外の人物と合流した。
「ライナルト様も帰るんですか?」
ヘリングさんに連れられた彼は、憮然として不機嫌だ。代わりにヘリングさんが苦笑しながら言った。
「我々の目的は完了しました。残りは陛下がいなくても問題ないくらいですから、ついでに連れて帰ってやってください……と、ニーカ・サガノフからの伝言です」
連れて帰ってもらうのはこちらになるのではないだろうか……。しかしどう見たってライナルトは現場に未練たらたらで、嫌々従う様子だ。他にも従者や近衛の方がいたけど、ライナルトの帰還にはおおむね賛成の様子だった。
「まだ見たいものがあるのだがな」
「陛下のご気性は存じておりますが、もはや陛下が立ち合われるほどのものでもございません。早く宮廷に戻り、アーベラインを安心してやってください」
……ヘリングさんが怒ってる?
別れていた間に何があったのか、笑顔で主君の背中に触れたのだが、普段ならしない行動だ。
ライナルトは憮然としたまま固まっている。よく観察してみれば、そのこめかみにうっすら汗が浮かんでいた。
「ヘリングさん、まさかライナルト様は……」
「少々手癖の悪い魔法使いがおりましたが、すでに捕縛済みです。陛下もこの通り火傷を負った程度、帰還には問題ございません」
「て、程度? すごく痛そうなんですけど、シャハナ老に看ていただいた方がよくありませんか」
「いま陛下に倒れられるのは我々も、そして陛下も望んでおりません。命に別状はありませんし、痛み止めは処方してもらっていますので心配いりませんよ」
「ヘリング、お前は私とニーカと、どちらの部下だ」
「陛下の無茶を止めてくださる方の味方です」
倒れ……あ、そうか、キヨ嬢の魅了を解くために魔力を抜いたせいで、治療に必要なだけの魔力が確保できない。だから近衛の方々も全面的にヘリングさんの味方をしている。
「か、帰りましょう。いますぐ帰りましょう!」
看病だってするつもりで急かしたら、ここで皆さんが大変困り果てることをライナルトは言った。
「此度は試作を兼ねた行軍だった。動けるというのに寝ながら帰るなど冗談ではない」
なんと馬車は嫌だといって愛馬を連れて来させた。怪我をしている上、痛み止めが満足に効いていないのは傍目にも明らかなのだが、頑なに横になろうとしない。
動けるにも関わらず、横たわっている間に人任せで移動しているのが気に食わないのだ。
「お前達の願いを聞いて宮廷に引き返すのだ。そのくらいは私の勝手にさせてもらおう」
こうなると誰にも止められない。唯一可能性があるとしたらニーカさんだが、彼女はここにいないし、ヘリングさんもライナルトの気性を理解して、はなから諦めモードだ。
近衛の方々は、ライナルトが昏倒したときのため、荷馬車を付けて移動する羽目になった。もっともライナルトが馬を飛ばしたので、それもかなり後方に置いていかれてしまうのだが……。
問題はここからになる。
戻りは馬を休ませる必要があったので都度休憩を取っていたのだが、最後の休息を終え出発しようとしたときだ。後ろから身体を持ち上げられた。
片手で全身すくい上げられていた。
気付くと私はライナルトの馬に同乗している。二人乗りの鞍ではないから、つまり膝の上に乗せられたのだ。
「は、え、は?」
馬に乗りながら人ひとりを持ち上げる腕力や馬の力も尋常ではないが、そもそも状況が理解し難い。混乱している間にも馬は歩き始め、後続が揃うにつれスピードアップしていく。後ろで「陛下」と誰かが咎めるも、ライナルトは一切振り向こうとしない。
「え、なんで?」
ライナルトの馬に同乗するのは初めてじゃない。相変わらず安定感は抜群だし彼も気を使ってくれていたが、ふと目線を上げると肌には汗が滲んでいる。傷の範囲は背中らしいが、相当痛むはずなのに何故こうも我慢し続けるのだろう。
「ライナルト様、つらいのでしたら一旦横になりましょう。と、申しますかその状態で私を乗せるのは自殺行為ですよ……!」
「落とせないと思う方が気を保てる」
割れ物扱いらしい。
しかし荷物は荷物なりにライナルトの負担にはなりたくない。必死の思いで幾度も頼みこんだが、彼は絶対に降ろしてくれないのだ。
終いにはこちらが折れたのだが、流石に宮廷手前ではもう一度止めた。
「ライナルト様、私はオルレンドルにいないことになってるんですよね。そうですよね、向こうではともかく、流石にライナルト様と一緒に戻るのは問題がある気がします……!」
「裏から入れば問題あるまい」
「止めて、馬止めてください!!」
「断る」
誰とはわからぬよう外套を被っているも、皇帝陛下の帰還となれば悪目立ちは必定ではないか。
けれど馬は止まらないし、あっという間にオルレンドルに到着してしまう。関係者しか通れない道とはいえ当然見回りなんかはいるわけだ。どうかばれませんようにと必死に外套を重ね合わせていると、憎たらしいくらい淡々とした声が頭上から降ってくる。
「カレン、人の噂程度、我々の手にかかればどうとでもなる」
「そういう問題じゃないと思うんです……! ねえ、あなたや馬だって大変なのにこんなことで体力を使わないでください!」
「貴方が騒がなければ体力は温存できるな」
「お身体を大事にしなきゃいけないのはライナルト様の方! 私は荷馬車に行きますから……!」
「もう走り抜けた方が早い」
こうなったらエレナさんに助けを求めるしかない。
そう思っていたのに、今度は到着した途端、横抱きに持ち上げられた。別の意味で顔から血の気が引くし、もはや声も上げられない。
ここはファルクラムのサブロヴァ邸じゃない。私も彼も立場が違うし、なによりあの時と違って運ばれる理由がないではないか。いっそ気を失ったら楽かもしれないと過ったが、そう都合良く意識は落ちてくれない。
あちこちから聞こえてくる「陛下」の声には、情けなくもすっかり萎縮しきっていた。声の中にモーリッツさんが交じっていた気がするけど、確認する勇気すら干上がっていたのである。
運ばれたのはとある一室だったが、そこが当面の私の部屋だと告げられて耳を疑った。




