317:いまだ遠く、しかし愛しさは増すばかり
コンラートが壊滅したときや、エルの時も動けなくなるときはあった。後を任されていた、おじさんおばさんの事があったから、落ち込んでいてもどうしようもないって、皆に甘えて立ち上がらせてもらった。
だから今度だってそうしたらいい。またやり直せば良い。
なのにこのザマだ。自分のミスがチェルシーの死に直結したとわかった途端、私は怯えだした。かつて殺人にだって手を染めているのに、また誰かを死なせたりしないかとビクビクしている。
優しくしてくれる人の回答はわかりきっている。ライナルトに聞いたって解決しない問いを投げて、慰めを得て安心しようとしていた。
そんな自分に卑怯者、の言葉が浮かんで奥歯を噛んだ。
「……貴方が己に投げている問いは、おそらく昨日今日で解決する問題ではない」
「です、ね。失礼し……」
「だからしばらく宮廷に留まると良い。幸いにも事実を把握している者は少ないから、心穏やかに過ごせるはずだ。落ち着ける環境も私が用意しよう。見舞いとも会えるよう手配しておく」
「そこまでしてもらうには及ばないです。それに私の不在が長くなるのはいけません、このことだってどこまで知られているか」
「クラリッサが私に明確な敵意を向けた事は知られているが、誘拐の件は内々に処理している。シュトック城にカレンがいた事実は残らず、不名誉な噂に悩まされる心配もない。いまのコンラート家当主代理は国外に逗留していると、そちらの家令の希望により、すでに話を示し合わせている」
若い女が誘拐されていたなんて世間に知られたら、どんな妙な噂がついて回るかわからない。ウェイトリーさんはそこまで考えて話をしてくれたんだ。
頬に手が添えられた。その瞳に浮かぶ感情は慈しみにも似ているけど、他はうまく伝わらない。優しくて泣きたいくらいに穏やかだからこそ、利害の秤が傾かなければ私は必要とされなくなるのかと悲しくなった。
「だから安心して私の元で休んでいればいい」
この豪邁な気性こそが皇帝たる証なのだ。勝手に決めて、と思う反面、彼の言うとおりにした方が休める事実も受け入れなくてはならなかった。
「私……私はいつもあなたにもらってばっかりです」
「何度でも言うが、充分助けてもらっている。いまはチェルシーの件でうまく考えられないだけだ。自らの功績まで貶める必要はない」
「あれはお互いの理念のために出した交換条件で、達成することは当然だから……」
「考えるなと言ったろう」
「そうじゃなくて、こんな風に助けてもらったり、大丈夫だって言ってくれたりするのが……。私はもらってばかりです。腕輪とか、髪飾りとかもそうでしょう?」
彼が未来へ突き進むほど、私が入り込む余地が消えて行く。焦りが言葉を引き出した。
「私ではあなたの夢は叶えられません。でも、もうちょっと小さな、足元を照らすくらいのささやかな望みはありませんか。欲しいものとか、そういうの……」
「欲しいものか」
「皇帝陛下ともなればなんでも手に入るでしょう。でもなにか一つくらいは私でも差し上げられるものがあるかもしれない」
目下、私のとぼしい才では物以外であげられるものなんてなかった。
ライナルトは笑おうとしたのだろうが、やや要領を得ない感じで黙り込む。
「……難しいでしょうか」
「いや、違う。不快に感じたのではない。ただ悩んでいただけだから、そう不安にならなくていい」
「ならあるんですね?」
「ありなしで答えるならばある、と断言できる。だがそれをなんと答えるべきか、いまは難しい」
「そうですか……」
「いまは、と言った。カレンの容体がもう少し落ち着いたら教えよう」
「私の容体は関係ありません」
「あるとも。いまそれを答えてしまっては、貴方は私の答えに囚われ自分を疎かにするだろう。それよりもまずは風邪を治し傷を癒やすことに専念してほしい」
膝裏に腕を差し入れられると寝台に寝かしつけられる。額に手の平が乗った。
「眠るのが怖いのであれば私が傍に居よう。この天幕の火は絶やさずにおくとも約束する、カレンが暗がりに置かれることはないだろう」
「ライナルト様はどこで休むのですか」
「私はどこでも休める。それに一時的に戻ってきただけだから、また発たねばならない」
「……行っちゃうんですね」
「やることが残っている。目が覚める頃には幌馬車が到着しているはずだから、カレンは一足先に休んでいると良い。私も遅くないうちに顔を見せに戻る」
ライナルトの手の平には精神を休めてくれる不思議な作用がある。
深く息を吐き瞼を閉じれば、ゆるやかな微睡みが身体の奥深くから浸透し始めた。
「ライナルト様」
「ん?」
「そんな風に寝かしつけたって、私、子供ではありませんよ」
低い笑い声が空気を静かに震わせる。
「許せ。なにせ看病などまともにやれたことがないから勝手がわからない」
「ご自分がやってもらったみたいに返したら良いだけですよ」
口にして、すぐ失言を悟った。
ライナルトの幼少期に詳しくはないが、良い環境じゃなかったのはなんとなく伝わっている。
反射的に付け足した。
「だからもしライナルト様が風邪を引いたときは、私が看病します。いっつも看てもらう側ですけど、慣れている分だけ、やってもらいたいことはわかるつもりです。ライナルト様もゆっくりお休みになれるはずですよ」
「……そうだな、もし熱でも出してしまったら頼もうか」
「はい、任せてください」
ゆっくり、ゆっくりと眠りに誘われて行く。
問題はなにも解決していない。欠落した自信も、コンラートへ戻る不安や、ジェフと顔を合わせる恐怖も全然去ってくれない。問題は先延ばしばかりで、ともすればいますぐにでも暴れ出してしまいそうだが、彼の存在が一時の揺りかごとなってくれる。
「ファルクラムにいた頃を思いだしました。まだ、伯やみんなが健在だったときです」
「あの時のことか」
何を思いだしたのか、顔は見えないけど声はゆるやかに弾んでいる。
「私、兄さんと間違えてライナルト様を捕まえてしまったんですよね」
「思えばあれが貴方を巻き込んだ一歩だった。その時はここまで身近な人になるとは考えもしていなかったな」
「変ですね。何年もたったわけじゃないのに、すごく前のことみたいに感じます」
「それだけの出来事があったが、こうして思えば無理をさせた」
「無理は承知の上だったんです。そうでもしないと、私はみんなに追いつけないから」
私はせいぜい生まれがよかっただけの、転生の意味や、新しい生の意義も特別見出せなかった持たざるものだ。ただひっそりと生きようとしていた者が滅びかけの家を盛り立て、主役やその周りの人々と同じだけ張り合い、せめて背中を見失わないようにしたいなら、そのくらい走り続けることが必要だった。
……眠い。
「少しだけ貴方の本音が垣間見えたな」
空いた手首が持ち上げられるも、逆らう意思は持てない。眠りの淵の間際で声を聞いていた。
「我が身の言動が貴方を追い詰めたか。ニーカやモーリッツの言う通り、もう少し注意を払っていれば変わっていたのかもしれん」
手首で思いだした。私たちはもう対の装飾品を持っていない。ライナルトの腕飾りは壊れてしまったから、ひっそりとお揃いだった喜びを噛みしめることもない。
でも、あれもいつか手放そうと思っていたから、かえってよかったのかもね……。
森中に響く爆音で目を覚ます。
飛び跳ねるように上体を起こすと同時に飛び込んできたのはエレナさん。彼女はまっすぐやってくると、挙動不審になっている私を抱きしめた。
「びっくりしちゃいましたよね。だぁいじょうぶですよ、あれは、えーと……近くで起こっているものじゃないんです。カレンちゃんには全然、まったく、これっぽっちも危険はありませんよ」
「エレナさ……」
「せっかく寝ていたのにねっ。でもこんな大きな音が続いてると、怖いですよね。うん、わかります。音と一緒に森中の鳥が飛んでいってしまいましたもの。エレナお姉さんもあそこまで規模が大きいとは思わずびっくりです」
余程焦っているのか早口で捲し立てられる。胸にぎゅうぎゅうと顔を押しつけられ、耳を塞ごうとして、よりいっそう明るく話す。
「旦那様は帰ったらお説教しておきますね。うん、うちの旦那様に責任があるわけじゃないですけど、とりあえず叱りましょう。まさか陛下には怒れませんからね、八つ当たりしてもこの新妻エレナさんが許します」
「すごいとばっちりのような気が……あの、そうじゃなくて……」
「でもこれからもうちょっと五月蠅くなるかもしれません。そうなったら怖いですよね。だからもしよかったらなんですけど、カレンちゃんが動けるならここから離れませんか。こんな道の悪い森ですけど、陛下が手配してくれた幌馬車が到着してるんです。かなり揺れますけど、横になってる間に宮廷に着きますから」
彼女は見かけによらず力が強い。
鼻や口が胸に埋もれ呼吸しづらくなっているとマルティナの悲鳴が轟き、慌ててエレナさんから引き剥がしてくれる。
この後も断続的に地面を揺るがすほどの音が響いており、エレナさんが慎重になりつつ私の顔色を窺っていた。
「眠りを邪魔してしまったのはともかく、わたくしもこの場に留まり続けるのは賛成いたしません。歩けないなら馬車までお運びしますから、ここから離れてしまいましょう」
「陛下からもそうしてほしいって言われてましたし。ねっ、しずかーなところに移りましょ。怖い人達のいないところです」
マルティナもエレナさんと同意見らしく、ひたすらここから離れる提案をしてくる。きっと錯乱する前に離れようと気遣ってくれていたのだ。
私は幼い子供みたいに不安がっていたのかもしれない。でも本当はちょっと違う。
爆音に反応したのは事実だけど、これはドアよりも、もっと違う種類の記憶を想起させていた。
コンラートにいた者なら誰だって忘れがたい爆発だ。聞き間違いようがない。
「エレナさん、これ、火薬を使ったんですね」
時間が経てば経つほど冷静になっていた。
嫌だ嫌だと駄々を捏ねる自分に蓋をする。このまま忘れていればよかったのに、よりによって思いだしてしまったのがいけない。
あの城には、まだキヨ嬢が残っている。




