307、霧、雨、そして少人数の護衛。条件は整った。
他にもキヨ嬢は様々まくしたて、ついには侍女衆に引きずられるように去って行ったけど、残された私はもう心が瀕死。
「あ……っと、自分はこれにて……」
この通り、ハンネスさんもそそくさと去ってしまう始末。通行人の視線を受け止めきれず、チェルシーの診察が終わるまでが地獄だった。
彼女達が戻ってくるなり早々に馬車に駆け込む私。ごめんね、マルティナを待っているだけの余裕がない。
不思議がるゾフィーさんに事情を話すと、なんとも言えない表情で目を瞑った。
チェルシーは相次ぐ診察に疲れたのか、すっかり眠ってしまっている。
「その、事故と思っておくのがよろしいかと……実際なにもなかったわけですし……」
「その口ぶりだとなにがあったか知ってるんですね」
「私もコンラートの補佐ですので……」
ウェイトリーさん、こっそり話しちゃってたらしい。なんて話したのは詳細は聞きたくない。
「ああ、もしかしたらそれで侍医長や侍女頭が姿を見せていたのでしょうか」
「……侍医長や侍女頭って暇人なんです?」
「暇人……。いえ、侍医長はともかく、侍女を総括するひとりである方が理由もなく足を運ぶのは珍しい。私もちらっと見かけただけですが……」
「キヨ様がいたからですよ……。思いたい、思わせて」
「わかりました。この話題はやめましょう。そもそもあの二人がカレン様を見に来たとは限りませんし、キヨ様と関連があるとも断言できませんしね。……たぶん」
私の憔悴ぶりを気の毒に思ったのか、あえて話題を逸らした。
「ニルニア領伯のご子息でしたか。ニルニア領に関わらず、早くも陛下の御代では地方から子息や娘を送る者が多いようですね」
「……そうなの?」
「前帝陛下の御代ではまず陛下か陛下の息のかかった者に気に入られるのが大前提でしたが、ライナルト陛下は実力さえ備われば身分や性差関係なく登用されています。実際そうしてニルニア領伯は領地を広げたのですから、一旗あげようと考えるのでしょう」
上部に備わっている棚から毛布を取り出し、チェルシーと私に渡してくれる。
「それ以外にも前の戦で力を貸せなかった分、忠誠を証立てようとする意図もありますか。軍にいたときは後ろ暗い話をよく聞きました」
「やっぱりそういう事情に明るいのね」
「そういった貴族本人が愚痴りながら酒をあおってましたからね。平民で良かったとつくづく思いながら付き合ってました。……雨が降りだしましたね。冷えてきますから公園は諦めましょう」
「……あ、本当ね。霧も出てきてるけど、馬は大丈夫かしら」
「心配ないでしょう。ただ飛び出してくる者がいるかもしれないから、注意してもらいましょうか。オルレンドルでは霧が珍しいから子供がはしゃぐんです」
「わかる気がする。やっぱりレオとヴィリもはしゃぐの?」
「いくら注意しても直りませんね。ファルクラムほど濃くはないから安心していますが、それでも他人様にぶつかって尻餅をつくのも珍しくないんです。去年は卵を割って帰ってきました」
「あらまあ」
「あのやんちゃはどちらに似たのか……」
ゾフィーさんといると、こうして時々お子さんトークが聞けるのが楽しい。
窓から覗ける外では、いつの間にか曇り空で太陽は陰り、激しい雨が降り注いでいる。
祖国の名と、冷えた日に霧と雨のワードにしかめっ面になってしまうが、ふと連想したのは兄の乳兄弟だ。兄さん達はとっくに北に到着したけど、そんな彼らを送りとどけ、きっと様々な生活の知恵を教えた彼はいまごろどうしているだろう。
「……なんだ?」
御者席に続く小窓を開け御者に話しかけていたゾフィーさんだが、表情が曇っていた。
「どうかしました?」
「いえ、御者が……」
深刻な表情で考え込む。だがそれもわずかな間で、すぐに顔を上げて口を開いた――ときだった。
世界が傾いた。
違う、傾いたのは世界じゃなくて私の視界だ。
何かを叫んだゾフィーさんが叫んで覆い被さり、一瞬にして視界が奪われた。
滅多に聞かない音がする。例えば派手に家具が倒れたとき……だろうか。経験したことのない響きに全身に衝撃が走って、
――自分の呻き声で目が覚めた。
頬がぬかるんだ地面にめり込んでいる。口内に泥水と細かな砂利の感触、そして絶え間なく全身を打ち付ける雨で目覚めたのだ。
……寒い。
「……ゾフィー」
本来天を向いているはずの馬車の屋根が近くにあった。車体が横転し、横になった馬の頭になにかが突き刺さっている。
目の前に覚えのある女性が倒れていた。体はあちこち擦り傷だらけで、中でも一番酷いのが肩に刺さった太い木片だ。黒光りする素材の一部から馬車の素材だと知れた。
「ゾフィー、起きて、起き……」
どうして自分が無事なのか不思議だったが、彼女が運び出したのだ、となんとなく理解した。
流れる雨で視界が塞がる。打ち身くらいはかまわないが、それにしたって寒すぎた。
「父上、周囲の連中は始末してございます」
「漏れはなかったろうな」
「は! どうやら対象には知らせていなかったようで、隠れて馬車をつけておりました。我々でもつつがなく処理できてございます」
「憲兵隊か」
「ご明察の通りでございます」
「ゼーバッハの真面目さが仇となったな」
「護衛には悪くない人数でしたが、街中は想定してなかったでしょうね。それに父上の手腕を侮りすぎです」
最悪なことに、そして幸運なことに背後から迫る声には聞き覚えがあり、そのせいか私は相手の殺意に気付いてしまった。
だけど振り向いたり、確認する余裕はない。朦朧とする頭で体を動かすが、体は亀のように遅い。特に腕なんて上手く動かないしと視線をずらしたら、腕の真ん中を深い傷が走っている。どうりで痛いはずだった。
ほとんど這いながら彼女に覆い被さる。
まだ呼吸はあるけど、血を流し雨に打たれ続ければその限りではない。
どうしよう、と思った。
できるのは二つ。
即ち殺すか、生かすか。
しかし襲撃者に反抗することは可能だけど人数がわからない。それまで私の意識が持つかも不明だ。それに連中を相手取れたって、救助が来るまで彼女が持たない。
「カ……」
「ゾフィー、よかった。意識が……」
呼びかけが届いたのだ。薄く目を開いたが、彼女の瞳は険しい。その証拠に私に向けた言葉は安否を確認するものではなかった。
「逃げ……」
弱った体で腕を持ち上げ、私を押し退けようとする仕草は「行け」と語っている。
そんな選択できるわけないだろうに、酷いことを告げてくる。
「私は、いいから……はやく」
「父上、いました。コンラート夫人です。護衛が隠そうとしていたみたいです」
冷たい雨が体温を奪っていく。迷っている暇はなく、手のひらに丸っこい鳥を呼びだすとゾフィーさんの影に埋め込んだ。黒鳥は私の意に反し抵抗したが有無は言わせない。
こうするしかないのだ。
「早く連れて行け」
「護衛はどうしますか、使います?」
「いらん。殺せ」
私は近寄ってきた誰かに首元を掴まれ引きずられ、厚底の靴がゾフィーさんの頭を蹴った。ボールみたいに跳ねる彼女の頭に我知らず悲鳴が漏れる。
「これは手間いらずだったな。……父上ご安心を、とっくに死んでるみたいでーす」
無造作に引きずられるせいであちこち軋みをあげるが、段々と遠くなっていくゾフィーさんの姿が胸が痛い。動く片手でどうにか手を伸ばしても、爪先は虚しく宙を霞む。
咄嗟にできることはしたものの、まったく意味がわからないのだ。どうしてこんな状況になっていて、なぜ私が連れて行かれようとしている。
バルドゥルに襲撃される理由がどこにあった。
「っと」
誰かが叫んだ。
この聞き覚えのある声は誰のものだった。数度聞いたきりの穏やかな声を警戒一色に染め、男を妨害しようと我が身を呈して飛び出してくる。
……だれ?
思考が行き着くより先にブラウスから手が離れ、私の体は背中から落ちた。ほとんど霞む視界の中で、男の振り上げる刃の光が目に飛び込む。
そこで見た。
鋭い切っ先が、見覚えのある人の服を、肌を貫く。
むき出しの殺意を前に無抵抗な体はばたりと崩れ落ちる。
どうして彼女が、いま、目覚めてしまったのだ。
「チェ……」
「おいコラ、全員殺せって父上が言ったろーが! 自慢の服が汚れたらどうしてくれる! ……あ? 雨水はいいんだよ、水も滴るいい男だろーが!」
だめ、だめだ。いま何もしないのは絶対にだめだ! 彼女を放置してはいけない、手を打たなければならない、何度も懇願するのに彼女達から離れていく。行きたくないのに連れて行かれる。なけなしの力で腕を引っ掻いても止まってくれない。
猛烈に頭が重くて、自分の行動の理由も説明できなかった。
「だめ、チェルシー、チェルシー……! おねがい返事を……!」
若い男性の顔が視界に飛び込む。
「女は黙ってた方が可愛いぜ?」
拳が視界いっぱいに飛び込んで真っ暗になった。




