305、知らぬ合間の包囲網
その日は朝から大変だった。
「チェルシー、頑張ってお出かけしましょう。お兄ちゃんも一緒だから大丈夫ですよ、ね!」
マルティナが必死になって呼びかけているのは、玄関先でしゃがみ込んでしまったチェルシーだ。彼女は涙目になり、ジェフの腕にしがみ付いて首を横に振っている。出かけたくない、と言っているのは明らかで、せっかく着替えさせた服は皺だらけで、帽子もとっくに外れてしまった。
「早めに出ようってマルティナが言ってくれて正解ね。約束の時間に間に合うかしら」
「問題ありませんよ、最悪私がチェルシーを抱えていきます」
そう答えてくれるゾフィーさんだが、彼女だって後遺症が残っている。チェルシーには自主的に出てきてほしいのであった。
騒ぎを聞きつけて出てきたのはお隣のエレナさんだが、彼女はのほほんとチェルシーとマルティナを眺めている。専業主婦になって以来、我が家に顔を出す機会が増えたのだ。
「でも元気になってよかった。この間までずうっと寝込んだままでしたもん」
「お前も面倒を見てくれたしね」
「看病なら旦那で慣れちゃったからね。もっと褒めてくれていいんですよゾフィー」
「はいはい、すごいすごい」
肝心のチェルシーは、以前よりは正気を取り戻す時間が増えたものの、いまは幼子の時間みたい。あんな風に振る舞っているが、本来の彼女に戻るときはうっすらと子供の自分を覚えている。実際に顔を合わせて話をしてみたところ、彼女は長い微睡みの狭間で漂っていたにも関わらず聡明さを失っていなかった。
「まるで夢の中にいたみたいだけど、あなたたちがつたない私を助けてくれていたことは知ってる。助けてくれてありがとう」
こんなことを言って一同を泣かせたのは記憶に新しい。ジェフなんて「ベンさんに見せたかった」と兜を外し壁に向かって号泣だ。
医者は「奇跡だ」と驚いていたけれど、ともあれこれでジェフの決心が固まった。
「チェルシー、今日のお出かけは私も一緒だ。だから問題ない、一緒に行こう」
顔の治療だ。前主への罪の意識もあって首を縦に振れなかったが、いまのままではチェルシーに心配をかけると説得を受け入れた。
しかしただ元に戻しただけでは祖国の人に見つかってしまう。我が家もただごとではすまないとの判断で、人相を変える形で話が纏まった。
そしてチェルシーも類を見ない回復を見せたし、『祝福』の影響を重く見たシャハナ老が彼女を診察したいと連絡してきたのだ。
「魔法院なら魔法使いと医師が提携しているし、チェルシーの不安定な状態も快方に向かうでしょう。彼女の空白期間はうちで埋めればいいし、早く良くなってもらいたいわね」
「ほんとは心の病にも強いお医者様に看てもらえたらいいんですけどねー」
「シャハナ老に相談したことはあるのだけど、珍しいお医者様だからなかなか捕まらなくって」
「あらぁ。シャハナ老から言ってもらっても駄目だったんです? だったらいっそ陛下も使っちゃいましょうよ」
「あはは、それ、ジェフに止められちゃって……。先方は重要なお客様も多いから、無理を通したら反感を買うし、体の方を看てくれるお医者様だけでも十分だって」
陛下、の単語にぎくりとしたが、笑って誤魔化した。あれからライナルトのことは考えないようにしている。向こうから会いに来る理由も、私から行く理由もないから、やたらと笑顔を零すウェイトリーさんを除けば家の中は平和だ。
この大陸では心の病に対する理解はいまいち薄い。各々資料を取り寄せた感じでは、真摯に向き合っていると判断できる診療所はオルレンドルでもひとつしかなく、珍しいがゆえに顧客は絶えず、抱えきれない患者を持っている状況だ。診療代の高さから並の人では手が出ないし、貴族といえどおいそれ予約は取れず、だいぶ前から予約待ちとなっている。かなり時間が経っているからそろそろ看てもらえるはずなのだけど、その前にチェルシーの方が回復するかもしれなかった。
ジェフの説得にチェルシーが渋々従いだした頃、隣家の扉が開いた。ヘリングさんと一緒にいる立派な風体の人物は、憲兵隊隊長のゼーバッハ氏だ。
「久方ぶりでございます、コンラート夫人」
「お元気そうでなによりです、ゼーバッハ憲兵隊長。遅れてしまいましたが、この度は憲兵隊の長への昇進おめでとうございます」
「ありがとうございます。今後はいっそう陛下への恩に報いるため励む次第にございます」
以前顔を合わせた時はもう少し気安い方かと思っていたのだけど、なんだか堅苦しい雰囲気だ。ゼーバッハ氏との間に割り込むようにヘリングさんが言った。
「まあまあまあ、それにしても朝からみんな元気ですね。朝もヴェンデルのいい声が聞こえてきましたよ」
「いつもお早いですし、てっきりもうお仕事に出られたのかと思いました」
「ははは。陛下からの信頼が厚すぎるせいですよ、ゼーバッハを朝飯に誘ったらこんな時間です」
「あっ、なるほど。朝からお仕事の話なんて大変ですね、お疲れさまです」
「いえいえ、これも僕にしかできない仕事なのでむしろ光栄ですよ。嬉しいくらいです」
憲兵隊の長自ら出向いてくるなんて、よっぽど大事な任務なのだ。わざわざ自宅でお話しするなんて、二人の絆は相当深いに違いない。
「エレナから聞きましたが、今日は魔法院と病院でしたっけ」
「ええ、シャハナ老に看てもらおうと思って」
「彼女の病がよくなることを祈ってます。お帰りは真っ直ぐですか?」
「うーん……チェルシーが久しぶりに外に出てくれたし、彼女の機嫌がいいようなら公園なんか寄ってもいいかしら」
いつも愛想が耐えないヘリングさんだけど、この時は妙に違和感が付き纏った。ただ、やっとその気になったチェルシーや皆を待たせてしまって、聞き返す時間がない。
「カレンちゃん、いってらっしゃーい」
エレナさんのかけ声と彼らの見送りを受け出発したが、三人で話し込む様子を見せたのはなんだったのだろう。
とはいえそんなことをずっと覚えているわけもなく、魔法院に到着する頃にはすっかり忘れてしまっていた。ジェフがいるとはいえ、女性陣が揃ってしまえば話題には事欠かなかったのだ。
ただ肝心の魔法院では意外な人物達と遭遇した。
サゥ氏族のキエムと、その妹シュアンだ。
思わぬ遭遇に二人は揃って喜んでくれたが、首を傾げたのは私だ。
「魔法院の見学でしたら、言ってくださればお付き合いしましたのに」
「私もライナルト殿に頼んだが、そなたも忙しいと言われてしまってな。まあ、それも身内の治療であれば仕方あるまいよ」
バネッサさんに連れて行かれるチェルシーを目で追うと豪快に笑っていた。
「時間があるときにでもまた改めて案内してもらおうではないか。それよりも私としては絵画に驚いた。噂には聞いていたが、なんだあの動く絵画は! なあシュアン!」
「はい、あんなものはヨーでも見たことがございません」
「我が国の呪術師共がみたらさぞ腰を抜かすだろうて。それに、あのもう一人の魔法使いときたらどうだ!」
「副院長ですね。生憎いまは国元におりませんが、いたのならキエム様に会わせたいと思っていました」
「いないのが本当に残念だ。カレン殿の師でオルレンドル魔法院の副院長ともなれば、さぞ高名な人物なのだろう。あの見た目で随分長生きだとも聞く。引退したが宮廷魔法使いでもあったようだし、是非話をしてみたかった」
「まあまあ、兄様。それはシュアンにお任せくださいませ。どのみち私はオルレンドルに残ることになるのです、兄様の代わりに色々お話しを伺っておきます」
「それは任せるが、彼の方には俺みずからお目にかかりたかったのだ」
「どうせ兄様はヨーへ勧誘することしか行き着かないのです。先方に失礼があってはいけませんから、大人しく私に任せてください」
シスと会ってみたかったと肩を落とす姿に偽りはないが、直に会っていたら幻滅は間違いない。シュアンくらいの気軽さの方が良いのかもしれないが、その彼女は気がかりな発言を落とした。
はにかみ気味の微笑は可愛らしいが、心はざわざわする。
「シュアン様、オルレンドルへの滞在が決まったのですか?」
「ええ、これまでの話し合いで、陛下にはオルレンドルに残ることを快諾いただきました」
「こうなれば側室入りも間近だろうよ。妹ほどの娘となれば、側室といわず皇妃でもよかったかもしれんが、側室制度が続くせいでシュアンがオルレンドルの華になる機を逃した」
「思ってもいないことなんて口にしないでください。それに側室の制度があるからこそ私がお役に立てるんです。兄様だってわかってるでしょ」
「まあ、そうかもしれん。こればかりは歴代のオルレンドル皇帝に感謝せねばならんな」
「調子のいいこと言って」
シュアンを受け入れやすい体制は整っていた、と語るキエム。
「カレン殿、これからもうちの妹のことをよろしく頼む。私としては貴女をサゥにお招きしたかったが、ライナルト殿にそれはできんと断られてしまった」
「ヨーの男の悪い癖が出てますよ。女をそう物扱いするのはお止しください、嫌われますよ」
豪毅に笑うキエムに、オルレンドルに残れることを喜ぶシュアン。
とうとう噂が現実になる日が間近らしい。無意識に握りしめていた拳を隠していた。




