288、女公爵の主張
叫びそうになる衝動を堪えた。いまのリリーの発音は違っていたけれど、間違いなく彼女はニホンコクといった。正式名称はとにかく「日本」がつく国なんてこの大陸にありはしない。海の向こうの国、クレナイも広大な大陸だけど、産地名を聞く限りそんな国はないはずだ!
本来、ライナルトとリリーの会話に割り込むのは大変な勇気を必要とするけれど、興味の前には吹き飛んだ。
「聞かない地名ですね。ど……どんな方だったんですか」
「んー……なに、興味がおありなの?」
「は、はい。皇太后さまが紹介したいなんて、よほどの方かしらと」
「十代くらいの若い子よ。育ちは悪くないけど、お行儀はよくなかったわね。おば様が教育しているからいずれ形になるでしょうけど、それならしっかり覚えさせた上で引き合わせて欲しかったわ」
他にも聞き出した限り、身体的特徴は日本人とかけ離れており言葉も不自由してないから転生者かと思うのだけど、それにしては「ニホン」が気にかかる。転生者がそんな迂闊なことを口にするだろうか。
リリーは詳しく語らなかったが、どうやら心象はよろしくなかったらしい。
「そのご様子ですとお顔立ちはリリーのお眼鏡に適ったのですね」
「一応はね。でないとおば様もあたくしに会わせようとはしないでしょう」
「は、あ……他にはなにか覚えていないのでしょうか」
「わかっていないわね。あたくしが名前や素性を覚えて差し上げるとしたら、それはあたくしにとって価値がある人間になれる素養があるかが大事よ」
「でしたら私は運が良かったのですね。なら可哀想な話ですが、その方はリリーが惹かれるものは持ち得ていなかったのでしょうか」
「そうねえ……」
と、なぜか腕を組んで不思議そうに首を捻る。
「どうでも良さそうな子に見えたのだけど……少し放ってはおけないような雰囲気はしたかしら。だからあたくしも最後まで話を聞いてあげたのだけど」
「リリー?」
「……目の離せない子よ。不思議な魅力はあった、かしら」
おかしなことに、その人の事を語るリリーには自分自身に対する困惑があった。たったいま「名前を覚える価値がない」と言った割には態度がちぐはぐ。相手を何と形容して良いのかわからない様子なのだ。彼女はそんな自分自身を不甲斐ないと感じたのか、すぐに頭を振った。
「ともあれその子はどうでもいいの、厄介なのはおば様よ」
これ以上は語りたくないのか口を閉ざしてしまったし、聞き出すのは難しそうだから諦めよう。どのみち彼女を呼びだした相手が皇太后ならば知るチャンスはある。
「さっきから素知らぬふりをしてる皇帝陛下。面倒ごとの中心になるのは御身だとわかっているのかしら。おば様ったら性懲りもなく皇帝にあてがう女を捜しているのよ」
「そうか。ではバルドゥルは見つかったか」
「いたらとっくにお伝えしていてよ。少しは裏切り者を探すために努力しているあたくしにも気を使ってくださらないかしらね」
そう、バルドゥルだ。
オルレンドル帝国元第一隊隊長バルドゥル。彼が血を分けた息子と心の知れた部下数名と共に姿を消したのは、私たちにとって記憶に新しい出来事になる。
男はいまもオルレンドルに隠れ、前皇帝を弑逆したライナルトを狙っていると噂されているが、それを匿っていると目を付けられていたのが皇太后だ。
これは当時の目撃情報と、彼女にライナルトを恨むだけの理由があるため容疑者位置に入ったのだけど、ここ数ヶ月は完全に首謀者として目を付けられている。理由としては国外に張っている検問にバルドゥル一行がまったく引っかからず、それにしては国内での行方が一向に掴めないから。複数人で行動していれば必ず目撃情報が出るはずなのに、ここまで透明人間じみているとなれば、相当な有力者に匿われていないと難しいとされたからだ。
「いい加減おば様を追い出したらどうなの。もし宮廷にバルドゥルが残っている話が事実だとしたら寝首を掻いてくださいといってるようなものよ」
「ねずみは下手につついて散らすよりも一気に叩き潰すに限る」
で、皇太后はいまも宮廷の一画に住み続けている。
新皇帝即位の折、世間では『突如夫を亡くした不遇の女性』とされているお人は大勢の前で泣いた。
「国のために身を捧げると決め家を出た。いまさら帰る場所などない、帰すくらいなら夫共々埋めてくれ」とさめざめと泣き周囲の同情を誘ったのだ。
この裏では各関係者に圧力をかけていたみたいで……とモーリッツさんにそれとなく聞いている。
なぜ皇太后が宮廷に残りたがっているのかだけれど、権力を手放すつもりがないためだ。皇后となる前は国内有数の名家出身で、いま現在でさえも各家に繋がりをもつ。カールの側室達は宮廷を追い出されたと述べたけれど、義理の母たる彼女だけは別格だ。
ただでさえカール皇帝を廃し、ヴィルヘルミナ皇女を追い出して国内が乱れた。国内への投資を惜しまず、孤児院等の慈善活動で名高い皇太后を追い出すのは得策ではないとライナルトは願いを許諾した。
「……リリー、本当に皇太后様はライナルト様のお命を狙っているのでしょうか」
「狙うというよりそれしかないの。おば様の矜持は遙か北の峰より高くていらっしゃるから、ご自身の権威が揺らぐことが大嫌い。ヴィルヘルミナが追い出された恨みよりも、そちらの方が大きいでしょうね」
「ご自分の娘よりもですか……」
「自分が大好きな御方なの。性格は格別悪くていらっしゃるから、もし遭遇したらお逃げなさいね」
トゥーナに帰りたがっている彼女がいまだに国内に留まり続けているのも、堂々と皇太后の懐を探れる存在だからだ。
「……ライナルト様、リリーのお話を聞いてました?」
リリーは真剣な話をしているのに、肝心のライナルトはバルドゥルにしか反応を示さない。はなから義理の母など眼中になく、髪で遊び続ける指もせわしなく動き続けていた。
「嗚呼、あたくしはこんなにも陛下のために働いているのに、まったく仕え甲斐がない主君だこと!」
「ふむ」
「聞いてないわね」
呆れていたら正面を向かされた。髪留め無しで髪が纏まっているのが不思議なんだけど、相手は私の顔を観察しながら黙り込んでいる。
髪と顔のバランスを見ているのだろうけど、普段より距離が近すぎてつらい。また汗が吹き出てきそうで落ち着いていられなかった。
文官が戻ったのはこの頃だけれど、持って来られた髪留めを前に問われた。
「どれがいい」と。
髪飾りはどれがいいか、の問いだった。私的にはそんなことよりもっと話し合うべきことがあるはずなのだけど、こうなったライナルトには何を言っても無理。
「とりあえずどれも適当に合わせてみたらいいじゃない」
しまいには諦めたリリーまで口を出す。
幾多もの髪留めはどれも彩り鮮やかだった。地味なものもあったけれど、観察すれば小さくカットした金剛石が無数に配置されているのがわかる。私もそれなりに目が肥えたから断言するけど、たった一個で中古の一軒家を買える代物を選ぶ勇気はない。
だって身につけて帰る以上、あとで「お返しします」となるはずないからだ。
日本円換算数千万の髪留めを気軽に選ぶのは無理……!
「ちょ……っと私には選びきれないです」
「私にも貴方に似合いそうなものが見当たらない」
「ライナルト様、こうやって髪留めがなくても纏められてますよね。まだ見てないけどとっても素敵だと思いますし、ここはいっそ終わらせてしまいませんか」
「飾り立てる宝石一つないのは無粋だろう。少し待っているといい」
「どちらへ?」
「所用を済ましてくる」
終わらなーい……。
ライナルトがいなくなるとリリーと二人っきりだけど、彼女と二人きりでも苦ではないのが幸いだ。これまで何回も食事を共にしているし、彼女の侍女となったエリーザに懐かれている経緯もあって会話も弾む。
しかしながら今日のリリーはやたらと意味深な視線を寄越してくる。横たわる姿は扇情的で、不慣れな男性なら唾を飲み込んだろうけど、その実気怠げに見える瞳は冷淡だった。
「コンラート夫人。貴女、皇后になるつもりはあって?」
反応が遅れたとかそういうレベルじゃない。
本当に何を言っているのか一ミリも理解できなくて、彼女が言い直すまで間抜け面を晒した。
「ライナルトを意識していないとは言わないでちょうだい。そんな馬鹿なこと言われてしまったら軽蔑してしまうから」
「あの、それ以前に何故皇后などと話が飛躍するのでしょうか」
「ライナルトの態度を見てたらわかりきってるじゃない」
「態度も何もいつも通りです」
「それがおかしいと……ああもう、貴女は知らないのでしょうけどね」
「特別ご縁がありましたから贔屓にしてもらっている自覚はあります。ですけど流石にその発想は突拍子がなさすぎます」
今日は予想外の出来事が現在進行形で起こっているけれど、それ以外はおおむねいつも通りだ。
「噂だけは聞いていたけど、ねえ」
「噂ってどんなのでしょう」
「……秘密。実物を見るまでは到底信じられなかったのだけど、彼、本当に貴女にだけは違うのね」
「リリー、誤解が生じています。話を聞いてください」
「なにが誤解なものですか。あたくしは真剣な話をしています」
「私も真剣です。現皇后候補として筆頭と名高い御方にそんなことを問われる身になってください」
「正気? あたくしにどれだけの醜聞があるとお思いなの」
「醜聞なんて思ってないのに試すのはずるいですよ!」
ふふん、と口元をつり上げられた。彼女も不意打ちで試してくるから人が悪い。
「オルレンドル内の繋がりを強固にするのであればあなたが有力です。噂を知ってなおあなたの名前があがっていると知らないとは言わせません」
「冗談ではないわ。あたくしが皇后なんてやる気が無いことはご存知でしょうに」
心底うんざりとした態度は周囲から圧力がかかっている証拠だ。皇太后があれこれ画策しつつも姪を呼びだした理由がこれ。独身の皇帝に皇后をあてがい、あわよくばその後ろ盾として立ちたいのだ。リリーなら皇后の条件を満たしているから取り入るのが手っ取り早いし、主目的はそちらだろう。「ライナルトに他の女性をあてがう」はいわば保険だ。
「いいこと? トゥーナの女公爵は与えられるより与える女なの。なにを好きこのんでお飾りで恵んでもらった地位に甘んじなければならないの、皇后なんて立場に行動を制限されるのは死んでもお断りです」
「ええ、そういう方と知っているから私はリリーを好ましいと感じています。きっとあなたの領民たちもその気高さを愛し、自らの公爵を自慢に思って……」
「大体ライナルトなんて好みじゃないわ。疲れたあたくしを慰めてくれるのはお尻のつややかな可愛い夫でなければ嫌よ、それ以外のどこに楽しみを見出せというの」
「リリー、場所! ご趣味を語るのは結構ですが場所を考えてください!」
「それ以外なら生真面目が売りの男ね。あなたのお父様でもよろしくてよ、ああいう殿方があたくしを前に蕩ける顔はいっそう胸がときめくの」
「何度でも言いますが父は絶対駄目ですからね!」




