272、ひとりは怖い、と呟いたのを知っている
ちょうど玄関先に迎えが現れたのもあって、エミールの肩を押して進み出す。迎えは兄さん本人であり、その足で歩み寄ってくるも、その様子には目を伏せた。
気を落としているだろうとは予想していたが、そのやつれようは想像を遙かに上回っている。
内心では敵愾心を向けられるのも覚悟していたのに、相変わらず優しい微笑を湛えたまま言った。
「言ってくれたら準備をしてたのに。よければ中に案内するが、お前が気にするなら外で話をしよう。どうする?」
「中で話しましょう。……あたたかいお茶とお菓子がいいな。あと、軽食があると嬉しい」
「わかった。用意させよう」
「少しジルを撫でてからいってもいい?」
さっきから落ち着きのない子供みたいに周囲を歩き回って、エミールが宥めるべく大変なのだ。兄さんはそんなジルを微笑ましく感じたのか、頷いてくれた。
「エミール、終わったらカレンを二階へ案内してもらえるかな」
「わかりました」
兄さんは踵を返したが、会話が聞こえない距離になってからエミールに訊いた。
「兄さんはちゃんとご飯食べてるの?」
「食べてません。それにここ数日はあんまり寝てないみたいで、それによく怒ってる。昨日も遅くまで誰かと話してたし怒鳴り声が聞こえたとか、そういう話を使用人が……。姉さん、兄さんに休むよう言ってくれませんか。お願いしても全然休んでくれないんです」
「アヒムはどうしたの、あんな状態で放置しているの?」
「あいつは……あ、いや、それは兄さんから直接聞いた方がいいです。……ジル、ジル落ち着けって、姉さんが久しぶりだからってはしゃぎすぎだ」
「ああそれ、この子そんなに私に懐いててくれたのね。ちょっと感動しちゃった」
「ジルは頭がいいんです、コンラートのみんなのことはいまだって忘れてませんよ」
「一番はあなただけどね」
「誰よりも世話してますから」
一番、の言葉に自慢げに胸を張る。いい相棒関係を築けていそうだ。
「ねえエミール、最近の情勢については耳にしているわよね」
「それは……はい」
わかっていないはずはない。ただ私や兄さんを前にして無邪気に振る舞うのは、兄妹間にある情勢関係をよく理解しているからなのだろう。
「いまから兄さんと話してくるけど、この先はあなたも無関係ではいられなくなる。だけどなにがあっても私や兄さんはあなたの味方だし、あなたの意思を尊重するから、どうか思い詰めすぎないでほしいの」
「……それ、どういう意味でしょうか」
「まだはっきりとはいえない。だけど兄さん達のこと間近で見てきたあなたなら、もしかしてって色々考えてるんじゃない?」
だんまりを決め込んだけれど、私の言葉は理解している。やっぱり聡い子だ。
「こんな言い方になってごめんね。でもいま言ったのは本心だから、それだけは忘れないでいてほしいの」
「……考えてるだけはしてみます。兄さんからはなにも言われてませんから」
「うん。……ごめんね」
「姉さんが悪いんじゃありません。そのくらいはわかります」
……いいえ。一概にはそうも言えない。
ありがとう、と弟を抱きしめて、自分もとごねるジルも目一杯撫でた。
顔を拭いたあとは二階へ案内してもらった。屋敷自体はファルクラムにある実家の雰囲気に寄せてあり、一歩進むごとに懐かしくなる。
室内ではすでに準備が整っていた。広めのテーブルにスコーンやクッキーにチョコレートを使ったケーキといった最新のお菓子類。サンドイッチは種類様々でスープまで用意されている。短時間で用意したにはかなり豪奢だ。
温かいお茶を淹れてもらったが、兄さんは手を付けようとしない。
「……兄さんも食べませんか」
「私はいいよ。食べられるだけ食べなさい」
「一人の食事は寂しいの。付き合ってください」
お願いしたからだろうか、近くにあったスコーンに手を伸ばしたのを確認して、私も食事に入る。一緒に食べる名目なら兄さんも食事を摂るだろうと思いついたのは正解だった。
食事時に無駄口は叩かなかった。会話はなく黙々と食べ進めていたが、やがてその時間も終えると、私たちの話題はお互いの近況になった。曰く皇帝の崩御までは諸侯ものんびりしていただとか、いまはあちこち走り回っているだろうとか。
「昨日も知り合いがひとり皇女方から去ったよ。情勢はとうにライナルト殿下に傾いているね」
内容自体は国内の状況に耳を澄ませているのならば、誰もが知っている内容だ。けれどそれを語るのにこの穏やかさは異様すぎて、常であればその優しさに恐れおののいただろう。この時の兄さんには諦観と疲れが見え隠れしていて、すでにキルステンはどうにも立ち行かないことを示していた。
「アヒムの姿が見えませんが、彼はどこに行ったのですか」
「ミーナに付かせた。外部から来たばかりの私では戦場には付いていけないからね、せめて彼女を守ってくれるようにと頼んだら了承してくれたよ」
……姿が見えないと思ったら、皇女の護衛を任せたみたいだ。エミールが兄さんに聞けといったのはこのことだろう。兄さんは一番信頼できる人に大事な人の護衛を頼んだのだ。
「兄さん、ライナルト殿下からの要求を断ったのは本当ですか」
「どうしてそれを知っているかは問わないよ。すべて事実だ」
「何故ですか。殿下がいま行っているのは降伏勧告です。命を生かすんです。兄さんなら皇女殿下のお心を動かせるかもしれないのですよ」
不気味なくらいに反応がなかった。状況を理解していないはずはないのに、兄さんは淡々と語る。
「それはトレンメル伯に任せている。あの方もお家のために成さねばならないから、きっとやり遂げてくれるだろう。だから私は彼女が帰ってきたときのために、せめて苦労が少ないように皆の説得を続けているが……誰も彼も、彼女を見捨てるばかりだ」
エミールが言っていた怒号と関係があるのかもしれない。
兄さんは愚痴っぽくなったと恥ずかしそうに誤魔化したが、すぐに力のない笑みに変化した。
「ねえ、本気で言ってるんですか。兄さんはヴィルヘルミナ皇女を愛してるんですよね。いまさっきもミーナって愛称で呼んでた。それが許されるくらい大事な人なんじゃないんですか」
「……もちろん愛しているよ。私の生涯は彼女に捧げると決めている」
「だったら!」
どうしてライナルトの話を蹴った。静観するだけで彼女の元に行こうとしない。指をくわえるだけで待っているのだ。
「兄さんは、このままだと皇女がどうなるかわからない人ではないはずです。理解していますよね」
「処刑されるだろうね」
「納得したうえでこんなところでじっとしてるんですか!」
「……そんなことくらい知っている!!」
放たれた怒号は意図的ではなく、自制が利かないが故の悲鳴だった。
驚いた私に、兄さんは「すまない」と額に手を当てた。表情を隠すための指は震えていた。
「それは、わかっている。断る意味も、彼女が説得に応じなかった場合も、すべて……」
「ごめんなさい。私こそきつい言い方をした」
すっかり諦めているのだと思ったのは私の勘違いだった。この姿を見ればわかる。兄さんはまだなにかに縛られ、我慢して苦しんでいた。
「教えてください。どうして殿下の要請に応えなかったの。応えなかったらキルステンがどうなるかは理解しているはず。それでも考えを改めないのは、なにか理由があるんでしょう」
真実を聞きだすのは時間がかかった。
やがて絞りだされた言葉は、小さく、苦悩に満ちている。
「約束をしたんだ」
「約束?」
「もしも自分が負けるようなことがあれば、決して命を救おうなどと考えないでくれと……一生の約束だと……頼まれた」
「……なんで?」
「わからない。わからないよ、だが……」
「反対しなかったの?」
「した。もちろんした。けれど……自分の意志に殉じたいと、そうでなくてはいままで生きてきた価値も、ないと……」
説得には応じなかった。それどころか約束を違えたら一生許さないとまで言ってのけた。そのときは勝利ムードだったから兄さんも不承不承ながら頷いたが、いざ蓋を開けてみればこれだ。この様子では簡単に納得したわけではないと見て取れる。
だから待っている。
諸侯やトレンメル伯か、あるいは誰よりも信頼している乳兄弟が説得してくれるのではないかと。諦めと同時に『もしも』の幸運に賭けて生きて戻ってくれることを願っていた。そのために方々を引き留めているけれど、皆はやがて権威をなくすであろう皇女から離れるばかり。そんな状況にすっかり心は疲弊し擦り切れている。
「けれど、私は当主だから……キルステンを生かさねばならない。それも理解しているが、彼女の想いを知っているのもまた私だけだ」
「結果としてキルステンがなくなるかもしれなくても?」
「……許してくれ。皆には悪いことをしてしまう」
……不器用だ。
家を潰すかもしれない。いや、もうその未来はすでに迫りつつある。当主としての責務を担うなら馬鹿な選択だけど、それをみっともない、情けないなんて笑えない。
だっていままで家のために頑張ってきた人だ。それがヴィルヘルミナ皇女に出会ってから、家もなにもかもどうにかなってもいいと思えるくらいに愛した人との約束なら、私は安易に否定できない。二人にしかわかり得ない切望があった。
兄さんの気持ちを無駄だと切り捨ててしまうには、その行動や、想いはあまりにも覚えがありすぎる。
それにいまのひと言でわかってしまった。
「ヴィルヘルミナ皇女に殉じるつもりなのね?」
「…………すまない」
ヴィルヘルミナ皇女の死と共にこの人は命を絶つつもりなのだ。
無言で肩を震わせる兄さんに両手を重ねる。
許してくれもなにも、ヴィルヘルミナ皇女を追い込んだ一助を行った私にその決断を裁定する権限はない。それにどれだけ他人には情けなく見えようとも、血縁といえど敵方に味方し、恋人を追い込んだ相手を前に理性を保っているのは胆力を必要とすることを、せめて私は知っていなければならなかったのに。
これではヴィルヘルミナ皇女の説得に力添え願うのは難しいだろう。
……ごめんね。
「ねえ、いまこんなことを聞くのは酷だとわかっているけれど答えて欲しいの」
「……言ってみなさい」
「もし彼女が生きる選択をして帰ってくるのなら、兄さんは最後まで連れ添う覚悟がある?」
ある、と言われた。迷いのない返事だが、それだけでは足りない。
「簡単な話じゃないわ。キルステンの当主でいられなくなったらどうする? 二度と帝都には住めない可能性だってあるし、それどころかもうファルクラムには戻れないかもしれない。それでもヴィルヘルミナ様と一緒にいたい?」
「カレン」
「はい」
「私はたしかに皇女としての彼女も愛したけれど、決してそれだけではないんだ。彼女もまた私を一人の人間として愛してくれた。だから、それだけで……」
「……私たちともお別れになります。それでもいいのね?」
我ながら意地悪な質問だ。けれど兄さんは怒らず騒がず、私の言葉をじっくり吟味してゆっくり顔を上げる。どれほど疲れ果てていようとも、瞳の奥ある決意だけは揺らいでなかった。
その答えはもはや語るまでもない。
……先に兄さんに会いに行ってよかった。覚悟が決まっているのなら、私の心に立ちこめる迷いの霧も少しは晴れる。
皇女に会いに行こう。そして彼女を連れて帰ってこなくては。
書籍2巻は3月2日発売。
2巻はスウェンが倒れたところからスタートで加筆修正も多めです。
よろしくお願いします。




