267、戻らないぬくもり
親不孝者と罵られたライナルトは面白がった。
「親不孝者と言われるほど親と子であった記憶はないな」
「貴様は余の情けがあったからこそ生き長らえたのだ。余なくば息すらも許されなかった分際で、さらには皇太子に取り立ててやった恩すら仇で返そうと言うか」
「なるほど。では私を生かそうとした亡きファルクラム国王やローデンヴァルト侯には感謝せねばなるまいな。理由はどうあれ彼らがいなくては私は今頃この場に立っていなかった」
「この痴れ者が! やはりお前は母の腹に宿った時に引き裂くべきだった!」
忌々しげに吐き捨てるも、飛びかかる真似をしないのは理性が働いている証拠だ。彼に何かを言い立てようとした皇帝カールだが、そこで私やシスの存在に気が付いた。
「コンラートの……薄汚れた移民めが、お前さえいなければ」
罵倒が飛んでくる覚悟をしていたら、隣のシスがヒュウ、と口笛を吹いた。音に気をとられたカール皇帝は、苦々しげに言い立てる。
「貴様はそんなところでなにをしている。疾くそこな無礼者共を殺せ!」
「えー。もうきみに従う理由なんてないしなぁ」
シスはどこ吹く風でにやにやと笑っている。彼が本当に皇族の命令を聞く必要がなくなったことが伝わったのだろう。手出ししたくともできない、そんなもどかしさを感じる皇帝に、不意にシスは表情を変えて私をみる。
もしかしてここまで連れてきてくれたのは……。
「殺される前に一度その顔を引き裂いてやろうと思ってたんだけどな。で、きみはどうする」
「……やめておく。どのみち結果は一緒だろうし、なんだか私も気が抜けてしまったから」
「だとさ。……憐れだねカール。きみって昔から頭がおかしかったけど、それでも自分の手で道を切り開こうとする努力はあったのに、いまはただただ怠け者で滑稽だ」
「貴様如きが余を語るな、人に利用されてこそ価値がある半精霊の分際で!」
「やめてくれよ。餓鬼みたいな癇癪でこれ以上惨めにさせないでくれないか」
溜飲は下がらないけれど、この姿を見られただけでも足を運んだ甲斐はあったのだろう。
シスはこれ以上皇帝を見たくないらしい。がっかりした様を隠せず、それが逆に皇帝の癇に障ったのか、顔を真っ赤にして足を鳴らす。けれど怒鳴れば怒鳴るほど憐れみを増すのか、くるりと背中を向けて手を振った。
「お前を見てると、こんな阿呆にいいように使われたのかと思うと虚しくなる」
「『箱』よ! 貴様は余の道具だ、余が神に与えられし力だというのに、その使命に逆らうとはなんたる不敬か‼」
「神に近付きたいなら実力で頑張りな。……と、これで通じる相手なら苦労なんてしなかったんだけどさ。じゃあカール、地獄で神に縋って泣き喚いてな」
長年の束縛と別れを告げると、今度こそ口を閉じ傍観者に撤した。この態度に皇帝は最後まで口汚く罵ったが、もはや裸の王様なのだと理解できない皇帝に臣下達は青ざめ、ライナルトの配下達は心なしか呆れている。
カールの怒りは再びライナルトに向かった。
「余が、余こそが神の信徒たる唯一無二の存在である。卑しいお前にはわからぬであろう、臣民を導き神の意を知るこの使命を、お前はすべて台無しにしようとしている」
「だとしたら光栄だ。私にはお前の語る神とやらの存在が感じられないからな。生まれてこの方、一度もだ」
「当たり前だ、貴様如きに余に課せられた任務がわかるはずなかろう」
「それは認めよう。私にはお前の神など理解したくもないし、するつもりもないが、お前が卑しいという私でもひとつだけ理解できうることはあった」
ライナルトは相手の怒りに流されず、毅然とした態度で言った。
「『箱』という力を得てなお、長く皇位に在りながら、いまだ導きとやらを追い続けさせるとはさぞ無能な神なのだろう。子供の使いでもそれほどかからぬと見えるが、神といい、お前といい、都合の良い幻想に浸るだけの働き者だ」
「余の神を幻想と言い張るか、貴様こそ神どころか母にすら望まれなかった忌み子であろうが! 善き人々に逆らい、のうのうと生き長らえたクズめが。お前さえいなければ助かった命もいくらもあったであろうに……!」
「かもしれん。が、私を殺しきれなかった者が悪い。そういった点でもお前はあきれ果てるほど能がない」
わずかな吐息に失望が混じり始める。
「殿下。僭越ながら、もうこれ以上はよろしいのではないでしょうか」
いつまで続くのだろうか。そう思う最中、とうとう進言した人がいた。皇帝は彼の人の顔を見た途端、さっと青ざめる。
「マイゼンブークめ。もしや貴様、この痴れ者と手を組み余を謀ったのか! この裏切り者めが、これまで目をかけてやった恩すらも忘れたか!」
「わたくしは、いままでも、これからも、陛下を裏切ったつもりは一度もございませぬ。たとえ貴方さまに……」
眉間を押さえ懇願した。涙を拭ったように見えたのは気のせいだろうか。
「どうか、早く終わらせていただけませぬか。これ以上は見ていられぬのです」
懇願にライナルトは応えようとしたが、それよりも早く反応したのは皇帝だ。
懐から取り出したのは、手の平より少し大きいくらいの拳銃。長銃と一緒で改良を重ねたのか、小型化を果たした代物だ。
慌てる暇などない。唯一反応を示したのはニーカさんだったが、すでに皇帝は引き金を引いている。
長銃よりは随分軽い音。従来通りであれば標的であるライナルトは倒れるはずだったが、本人はぴんぴんしている。衣類には穴ひとつ空いていないし、かすり傷ひとつ負っていない。
代わりに小さな煌めきが袖口からさらさらと流れ落ちた。はじめは砂と勘違いしたが、目をこらせば以前彼に渡していた、私とお揃いだった腕飾りのパーツが落ちている。
御守り代わりにシスが「加護」を乗せた品物だ。
「何か仕掛けているとは予想していたが、魔力が使えなくとも利用できるようにしていたとは驚いた。なるほど、それなら油断を誘えるな」
無策でぼうっと立っていたわけではなかったのだ。
ライナルトが剣を振れば、ほとりと音を立てて皇帝の腕が落ちる。落とされた手首を押さえながら、カールは叫んだ。絶叫は建物中に響き渡り、皇帝を知る人らは痛ましげに目を瞑る。
絶叫にもなんら感慨を抱かないライナルトは、今度こそ父の命を断つ手前で剣を振りかぶる。
「お待ちください!」
女性は息切れを起こしながら扉に寄りかかっていた。必死の形相でライナルトを止めたのは、驚くべきことに四妃ナーディアだ。
なぜ彼女がここにいるのか、己を助けようとした手を振り払い、切羽詰まった様子でやってくる。重いドレスを引きずって、必死の形相でライナルトに懇願するのだ。
「殿下、殿下、後生でございますからお待ちください。貴方様は陛下のお命を奪ってはなりません」
ナーディア妃はライナルトに寄りかかり、そして皇帝カールとの間に立った。どういうことだろう。なぜ彼女が皇帝の命を懇願するのかわからず混乱していたが、皇帝は喜んだ。
「おお、おお、ナーディア。やはりそなただけは余を案じてくれるか」
「もちろんでございます。わたくしだけはずっと御身を想っておりました」
涙目でライナルトに懇願していたナーディア妃。そんなことでライナルトを止められるわけないだろうに……と、ライナルトを知る人なら誰もが思っただろう。彼女はぽろぽろと涙を流し、皇帝の元へ駆け寄っていく。
まるでドラマみたいだなと場違いな感想を抱いたが、これは愛情劇ではなくサスペンスだった。
四番目の妃を抱き留めようとした皇帝の体が揺らぐ。
「ナー……」
ナーディア妃の顔は見られないが、その背が怨嗟を背負っているのは伝わった。隠し持っていた短剣の切っ先を腹に刺し、押し倒す勢いで力を込めるのだ。
「知らないと思ったの」
かろうじて立っている彼女は告げた。
聞いたことのないおどろおどろしさだった。
「わたくしを謀り、母を生きながら焼いたこと、知らないと思ったの」
カールはしりもちをついた。
信じられないものを見る目つきだったが、それも一瞬だ。すぐに男は我を取り戻した。先ほど喚いていた人はどこへ行ったのだろう。ついに迫った死への恐怖に混乱する姿はどこにもない。
ただただ、かつて国が壊滅に導いた亡国の王女を見上げている。片手は己を刺した小さな短剣を押さえながら、片手はナーディア妃に向けて伸ばしながら……。
けれどもやがて、そうか、と小さく呟いた。
「お前が私の死であれば、仕方ない」
生への執着が薄れていた。カクンと腕が落ち、男は大きく息を吸う。喘ぐように空気を肺に流し込んでいたが、それも長くは続かない。
実の息子により、心臓に刃が埋め込まれたからだ。
オルレンドル帝国皇帝カール・ノア・バルデラスの最期である。
……なんというか、随分あっけない終わり方だ。
私の妄想ではライナルトが皇帝を斬って、皆が歓喜して新皇帝を喜ぶ場面を想像していたのに、実際はまるで違う。
膝から崩れ落ちて泣きじゃくるナーディア妃に手を貸す人、皇帝の遺体を運び出そうとする人々、運良く生き長らえたものの命乞いを始める皇帝の直臣らを連行する者と……まるでそれどころではない。
モーリッツさんやニルニア領伯達はいち早くライナルトに祝辞を述べたが、彼自身がどこか冷めた様子だから熱狂に浸る雰囲気はない。それより軍を連れて出たヴィルヘルミナ皇女を押さえる必要があると言い出すので、彼らもまた身を引き締めて背筋を伸ばしたくらいだ。
ただ、その気を引き締めるのがちょっと遅かったみたい。
皇帝の亡骸を運ぶべく、すれ違った男性の一人が目に焼き付いた。
それは主を見る目としてはあまりに不適格。憎悪に満ち満ちた眼差しのまま、担架から手を離すとごとりと音がして、それに皆が振り向こうとする。
みんな警戒を緩めていたわけではなかった。護衛の人でもライナルトを守るのは間に合ったし、それだけの時間があった。
でも男が剣を抜いた瞬間を私はみていた。秒よりも早い単位で思った。
ライナルトってもう腕輪の加護はないのよね、って。
――そうしたら、男がぐしゃ、と遠くの壁に吹っ飛んでいた。
体には鋭い爪痕が走っていて、それがだらだらと血を流している理由ではあるのだけど、一番の原因は吹き飛ばされた衝撃で体が押しつぶされてしまったことだ。先ほどまで男がいた近くには黒くて大きく丸い、一見ふさふさした物体が立っている。
「しまった、ごめんなさい」
『目の塔』地下に置いてきたはずの黒鳥が、再び大きくなってそこにいた。この子はルカの目印になってなきゃいけないのに、私に呼応して出てきてしまったのだ。
早く地下に置いてこないといけない。それにせっかく可愛らしい姿に戻っていたのに、まるで台無しではないか。
まずいまずい。ただでさえ勝手に割り込んだのに、皆さんに敵意があると誤解されてはいけないから、ごめんなさいと馬鹿みたいに繰り返し謝った。もっと毅然としていればよかったのに、しどろもどろで男が剣を抜いていたからと説明してしまう。黒鳥を呼び寄せれば大人しく従ったから、下手な動きを見せなかったことだけが救いだ。
「ちょっと私が間違ってしまっただけで、皆さんには害はないです。本当に悪い意味はなくて、すぐ戻しますから待ってくださいね。ああどうやるんだっけ……」
「ほれ、黒鳥こっちこい」
「あ、ありがとシス」
こんなにコントロールができないとは思わなかったが、シスのおかげで戻すことができた。皆が奇異の目で見つめてくるから、早々に逃げようと退散を決める。
それを止めたのがライナルトだ。
先ほどまでこちらには目もくれなかったのに、このときはどこか怖い顔で手首を掴んでいる。
「殿下」
「問題ない、お前達は撤収しろ」
「しかし」
「すぐに追いつく」
何か言いたげなモーリッツさんだが、命令に逆らいはしなかった。皆が主を気にしながら出口に向かう中、ライナルトは真逆の方角に行った。振り返らないし、こちらの歩幅は気にも留めない。陰に隠れたと思えば、逃げ場のない柱に背中を押しつけられた。
「ラ……」
「いつからだ」
両肩を掴まれている。痛いくらいに力が込められていた。
怒っている?
彼の恐ろしさを目の当たりにするのは初めてではない。けれど感情任せに怒りを露わにする彼を見るのは初めてだ。
「あの子があんな形になったのは地下からです。私が未熟で制御ができなかったのは謝ります」
「違う」
睨まれたが、まともに目を合わせられなくて、おのずと目をそらした。心の中を覗き込まれているようで嫌だったからだ。
しかしライナルトは甘えを許さない。
追及をやめようとしないのだ。ちらりと見上げると、なぜか彼の方が辛そうだった。
「らしくありませんが、一体……」
「顔を見せたときからおかしいとは思っていた。体はそこにあるのに心がどこにもなかった。なにが心を凍てつかせた」
それってどのとき?
とにかく彼の怒りを静めようと台詞を考えてみるのだが、どういうわけか何にも言葉が浮かばない。
「リューベックか」
どくん、と心臓が痛くなった。
「貴方はシスの代わりに塔での詳細を語ったが、リューベックの詳細は伏せた。クワイックの話がないのは当然かと思っていたが、それでも他のことは細かに報告したというのに、あの男だけが欠けていた」
「あれは……そういうつもりではない、はずですけど」
きちんとした報告が必要だから説明したつもりだった。エルのことは語るべきではないから伏せただけ。
……どうしよう、離してくれない。
かといって返事が難しかった。なにせ思い当たる節がなかったのだ。適当に「すみません」といっても、ライナルトだから見逃してくれない。
というか、思考が働かない。突然まともに考えられなくなった。
私がぼけっとしていたせいでライナルトは痺れを切らす。
「話せないのならば構わない。だが、いまのカレンは見過ごせない」
「少しぼうっとしてるのは認めます。でももう元気になりましたし、いまだっていつも通り。そんなにおかしいのですか」
「自身で気付いていないのであればなおさら異常だ」
断言するのはひどい。
「何が必要だ」
とんだ命令である。まだヴィルヘルミナ皇女が残っているだろうに、次期皇帝がほぼ確定した時点でこれか。前代に負けず横暴な王様だ。
これは断固抗議せねばなるまい。私だって立派な大人だ、この扱いは如何なものかと言ってやろうとしたが、出たのはまったく意味不明な言葉だ。
「わからない」
本当にわからないからこう言うしかない。予想外だったのは、思ったよりもずっと自分の声に力がなかったことだ。
「地下での話はシスから改めて聞いている、隠す必要はない」
あれ、じゃあ、私が彼を殺そうって思ったのも、全部ばれてる?
……なおさらいまの質問は意地悪ではないか。
だったらどうしようか。あれから少しおかしいのだ、と言っても自分の心さえ理路整然と纏まらないから説明できない。なおさら言葉に詰まってしまう。
だってエルの時だって愛おしくて感情が溢れかえっていたはずなのに、もう心から涙が出ないのだ。まるで錆びたゼンマイ仕掛けになっている。
あんな風にあっさり人を殺していいと思った自分がわからないし、考えようとすれば咀嚼されていった上半身の音が蘇る。リューベックの執着は異常だったけれど、いまにして思えばただ笑いかけてくれたときだってあったはずなのだ。簡単に人殺しなんかして後悔してない自分がまるで不明瞭だ。
ライナルトに目を覗き込まれたら、なおさら混乱する。
「なぜだか説明できるだろうか。なにを考えているのか、口にすることは?」
「すみません。本当に、わからないんです」
「……なら聞き方を変えよう。私にできることはあるか」
一生懸命考えるしかなかった。彼に出来ること、してくれること、私が望んでいいものを考える。
我が儘かな? と思ったけど、こうまで相手が真剣だと、思うように使っていいのかしらと声にしてしまう。
「ずっと、ずっと寒くて。だから、よかったら、抱きしめてもらえたら――」
要望通り、今度は抱きしめてもらえた。痛いくらいに力が強いけれど、あたたまるにはこのくらいがいいかもしれない。ただ、それでも以前彼が言った「感情の発散」ができなかった。試みてみたのだが、ちっとも泣けてこないのだ。
「泣けなくてすみません」
「かまわない」
よかった。ここのところ無理続きだったから、楽を許してもらえるのは嬉しい。
「貴方はあのままでいてくれ。壊れているのは私たちだけで十分だ」
嬉しいような、ぼんやりした気持ちで拳を握った。抱きしめ返すには不敬かしらねぇ、なんて遅まきながら実感していたから、ライナルトの服の端を手の平に巻き込む。
……足りないかもしれない。
でも、それで満足するべきだった。




