256、疾くあの女を捕らえよ、と男は叫んだ
「被害があったのは人気の少ない墓地地区や工場地帯。市街地も火の手はあがったが、やはりここも大した被害はなかった。それより被害が深刻だったのは上流区画だ。こちらは遠慮なしに大きな火が放たれ、全焼こそ免れたが損害は大きい」
「市民の被害は避けたのでしょうか」
「避けてるね。反乱組織は面子のほとんどが市民のはずだし、彼らを敵に回すのは得策ではない。少なくともまだそういう理性と余裕は残っている」
いち早く情報を集めきったのはクロードさんではないだろうかと言いたくなるほど、報告は早かった。
「ただ……」
「どうされました?」
「個人的に不可解な点がある」
忙しいためか髭を剃っていない。いつもの上品な佇まいに無精髭が残っていて、本人も気にしているのかしきりに顎を撫でていた。
「どうも聞いた話だと、いくつかの現場には特に燃えるようなものは置いていなかった。大きな音が立って、いきなり燃えだしたと言ってるようでね。その上、火が昇ったと思われる場所の壁がバラバラになったりとしていたようだ」
そして私たちにつう、と視線を投げる。
「私の記憶の限りでは、だ。コンラートの壁の崩壊と似通っているのだが、この予想は合っているかね」
「……いえ、そこまでは聞いていませんでした。クロードさんこそモーリッツさんからなにか聞いていませんか。私よりも会っていたのですよね」
「私も直接会ったのは一回きり、あとは部下を通してしか会っていない。だからなにも聞いていないな」
驚きこそしなかったけれど、奇妙な納得がすとんと胸に落ち着いた。そうか、もしかしてモーリッツさんはあえて私たちに話さなかったのか。
こめかみに痛みが走ったけれど、漏れ出そうになる苦情も堪えた。
「……反乱組織にあれを渡したのね」
エルの発明した魔法火薬。開発の主導は魔法院であり、優先的に回されるのは軍のはずだが、いずれ流れるとしたらそちらの筋だろうとは思っていた。銃の件も含めどこまで出回っているのか不明だったが、おそらく一定数の量を確保できるまでには生産したのだろう。でなくてはいくらそれらを提供したのがライナルト達とはいえ、軍を差し置いて民間組織に回すのは難しい。
――これで火薬の存在が世界に拡散する。
魔法火薬のお陰で消えゆく魔法使い達は存続し得るだろう。けれど、今後は戦争の在り方が大きく変わってくる。
「カレン君」
「すみません。決めたはずなのにどうもこういった話を聞くと顔に出てしまう」
わたしの他にはマルティナが動揺を示しているくらいか。流石にゾフィーさんやウェイトリーさんは平然としている。あるいは平然と見せるのが上手だ。
……様子からして、まだ活動は本格化していない。帝都を混乱に陥れた彼らのただしい狙いは不明だが、少なくともコンラートに課せられた役目とは関わりのない話だと締めくくられた。
「マルティナ、家の者は……特にヴェンデルを家から出さないようにしてください。情勢が安定するまで外出させては駄目よ」
「かしこまりました。なにがあろうとも、この身に代えてもお守りいたします」
「……もしもの場合など想定したくもありませんが、この状況で仕方がないのでしょうな。ですが貴女自身も己を守ることを考えなくてはなりませんよ、マルティナ」
言い含めるようなウェイトリーさんに、マルティナははにかみながら頷いた。
うちで他に動けるのはヒルさんとゾフィーさん。ヒルさんは隻腕でも戦えると豪語しているし、ゾフィーさんは体に痺れが残るとはいえ自分の身は守れると言った。なお彼女のお子さんはエレナさんのご両親に預けられているので、しばらくうちに滞在だ。クロードさんには念のためハンフリーをお貸しした。
あとは隣家のエレナさんが力になってくれる。もしこの近辺から火の手が上がっても、安全圏まで逃がしてくれるだろう。
「いまごろ皇帝陛下と皇女の賛同者は焦っているでしょうね」
「彼らは負ける気がしない、と自信満々に宴会を開いていたからねぇ。勝ち確が狂わされたときほど人の真価が問われるのだが、はてさてまともに動ける者はいるのか」
「動揺していない人ほど注意しないといけませんね。ヘルムート侯あたりはやはり大敵でしょうか」
「で、あってほしいね。その中で言えばオルレンドル帝国騎士団第一隊は迅速に事態の収拾にあたったと聞く。今回の派兵にも近衛共々参加していないし、注意すべきだろう」
このときになって慌てだした者がいたのは、もうひとつ大きな理由がある。
それは先にもあった通り、本来ライナルトに対し静観を貫かねばならない領主の多くが彼に恭順していたことだ。エスタベルデ城塞都市があるニルニア領伯はもちろん、途中道なりにある領の家々の旗が軍勢に掲げられており、この時の数字は確かではないが、およそ一万は固いと噂されていた。これは広大湖の中央に位置し、高い塀と湖に守られた帝都攻略にはまったく足りない人数だ。
皇帝はこの湖がなくとも帝都内で動員できる兵、あるいはライナルトに恭順を示した以外の領へ救援を募ればこれらの数は軽く凌げ、正面衝突になればライナルトが負ける。『箱』以外に短期決戦で挑まねばならない理由はここにもあった。
ただこの短期間で集まった即席の軍にしては上出来だった。もしライナルトがこの場にいたら「烏合の衆だ」と感想を漏らしただろうが、和解の際に出発した人数から数倍になっている。この事実がヴィルヘルミナ皇女ではなくライナルトを選んだなにかあるのだと思わせる。
それに和解したとはいえ、まさか長年敵対していたヨー連合国と肩を並べるとは考えもしない。
現在皇女側は居もしないライナルトを激しく糾弾しているらしいが、それはヨー連合国のサゥ氏族首長キエムが放った一言がきっかけであるともされた。真偽は定かではないが、彼はなんと「現皇帝に義なし」と言い放ち、そして独自でライナルトへ協力を申し出たと囁かれているのだ。
サゥ氏族は義を重んじる部族であり、王者たる風格をもつ人物でなければ轡を共に並べははしないと……なぜかこれまで大してクローズアップされたことすらないキエムやサゥ氏族の噂がいまになって流れている、とクロードさんが白々しく語る。
「言った言ってないは関係ない。要は皇帝を疑わせれば良いのだよ。ここの国民は、悪く言ってしまえばカール皇帝の奇行に慣れすぎたからね。外側から現実を見せてやれば頭も冷えるだろう」
「そういえば、街中では皇女殿下が次期皇帝になれば税収が上げられるとも噂されてますね」
「初めから皇族であるヴィルヘルミナ皇女殿下より、地方に追いやられたライナルト殿下の方が平民の痛みを知っている、だろう?」
茶目っ気たっぷりに笑ってみせるではないか。
「まぁライナルト殿もおよそまともとは言い難いかもしれんが……いまは我らが勝つことを優先せねばならんしな。どうとでもなるだろう」
はっはっは、と明るい笑い声に、ウェイトリーさんが厳しく言った。
「もう少し言い方を考えろ」
「なに、ここに告げ口をする不届き者はおらんよ。……ふむ。こうして考えると気はあわなかったが、我が祖国の国王陛下はまともであらせられたな。もちろん私の功績を非難したのはいまでも恨んでいるが、カール皇帝に比べれば天と地ほども差がある」
「クロードさん、帝都が気に入って移住されたのではないのですか」
「移住に君主の好き嫌いは関係ないな、稼ぎやすいかどうかがすべてだ」
皇帝カールはヨー連合国に向けてサゥ氏族の過干渉に異議を訴えるだろう。 しかし向こうに報せが届く頃には決着がついている。否、ついていなければならないが、おそらくそう問題にはならない。というかライナルトがさせない。訴えは取り消すだろうし、キエムもその頃には目の上の瘤だったドゥクサスに下剋上を果たしているはずだ。
ライナルトはなにも知らない民衆の動揺を誘い、僅かなりとはいえ皇帝カールに対する不信感を植え付けるのを狙ったのであった。
「こうなってしまえば時期が来るまで私たちは待機ですね」
「作戦の要でもある。情報収集は私が抜かりなく行う。カレン君はしっかり休みたまえよ」
私が動くのはある報せが届いてからとなる。「万全を期す」といって出てこないルカの足手まといにならないよう、シャハナ老の教えどおり瞑想していたが、ある夜更けに状況が一変した。
「マスター、まずいわ。早く起きて!」
ルカの一声で起こされた。
「家に張った結界に誰かが触れた。これ、これは……あの根性なし!! あとちょっと頑張れるって言ったじゃない! それくらいも持ちこたえられないのかしら!?」
「ルカ? いまの、どういう――」
「『箱』がうちを覗いた。もしこれがあいつの落ちた証明だとしたら、芋蔓式に貴女のことが漏れるわよ!」
ルカの慌てようはこれまでとは違う違和感を孕んでいた。
「落ち着いて。シスが妙な真似をしでかすのはいつものことよ。それとどう違うの」
「ただ覗き見するだけならこれまでと一緒よ、ワタシだって黙ってる! でもこれは違う、泥棒がうちに盗みに入るために下調べするくらいの怪しさよ! 変ったら変なの!!」
彼女の叫びは即ち私たちの危機だ。頭を振って着替えると階下に降りたが、驚くべきことに、下にはすでにウェイトリーさんやジェフにゾフィーさん、そして何故か軍服に身を包むエレナさんまで揃っていた。カーテンが開いた窓からは、彼女がたったいまやってきたのだと報せている。
「わたくし共はルカ嬢に起こされたのです。いまは全員を起こし回っているようで……」
「皆さん起きられててびっくりしました」
「エレナさん、こんな時間にどうされたんですか」
普段とは違う雰囲気で彼女は告げた。
「先ほど地下水路から先発隊が到着しました。予定通り、他の水路出入り口も経由して帝都へ侵入を開始したとの由です。これより私たちは帝都内に留まる味方と合流します」
息を呑んだ。とうとうこの瞬間がやってきたのだ。
緊張はするけれど、覚悟は決めていた。
「コンラート夫人、あなたには『箱』の破壊に向かってもらう必要があります。私たちが護衛につくので、速やかに支度を……」
だから異論はないけれど、その前にルカがしていた話をしなければならない。口を開いたところで、いつの間にか戻っていたらしい少女の悲鳴があがった。
「嘘!?」
ドンドンドン。ドンドンドン、と。
玄関から音がしはじめた。誰かが乱暴に、力任せに玄関を叩いている。開けろ、とここまで響く大声に全員が戦慄し、意味を理解した。
「ルカ!」
「妨害よ、こんなに接近されたのにワタシが気付けなかった! あの馬鹿ここまで――無理、止められない!」
ゾフィーさんがウェイトリーさんを背後に庇い、エレナさんは流れるような手さばきで抜刀していた。
「ゾフィー」
「早く行け。いまの私では壁にしかなれない」
玄関の方角から轟音が響いた。壊れるなんて易しい音じゃない、重いなにかが衝突して、メキメキとなにかが壊れて吹っ飛んだ音だ。
エレナさんに腕を掴まれ向かった先は庭。隣家に向かうための穴を潜り、後ろにジェフが続いた。肩越しに振り返ればウェイトリーさんが窓とカーテンを閉めており、視線が合った刹那、あの人は力強く頷いていた。
制限時間ありの一本勝負。私にとって本当の皇位争奪レースの開始だ。




