230、忘れられぬ夜
落ち込むのはあとにして、いまは拒絶されなかっただけ良しとしよう。彼にとっては野良猫が懐に入り込んだくらいの感覚なのだろうし、嫌がられないだけましなのだ。
「子供の頃にヴィルヘルミナ皇女とお会いになっていたんですか」
「軍学校に行く前だったかな。しばらく宮廷に滞在した時があって、向こうから飛び出してきた。……ああ、そうだ。勉強がつまらないから抜け出してきたと言っていた」
ライナルトからこんな話を聞けるのは珍しい。耳を傾ければ、落ち着ける声がしんしんと響いてくる。
「それがどうして一緒に温め合うことに?」
「抜け出してきたくせに、帰り道がわからないと言い出した。冬だというのに薄着だったから上着を貸そうとすれば、私が風邪を引くからと断った。だが寒いので懐に入れろと駄々を捏ねてきた。適当な部屋もあったというのに、なぜあんな要求になったのか未だに謎だ」
「でも要求を呑まれたと」
「滞在の折、周囲にはくれぐれも逆らうな、余計な口を開くなと言われていたのでね。その頃はヴィルヘルミナだとは知らなかったが、生意気な物言いと服装で良家の娘であることは一目でわかっていたから、無用な争いは避けたかった」
「あら、生意気なんて可哀想に」
「あんな小娘は誰が見ても鼻につく」
「……でもその割には見放さなかったのですね」
「放置しようとすれば泣きそうになるから、仕方なく傍にいた。それに実を言えば出歩ける範囲を制限されていたから、どこかにいくなら付添を名目にあちこち見てやろうと考えましてね」
ライナルトとヴィルヘルミナ皇女は敵対している。だというのに、妹を語る際のライナルトの声音はほんのり穏やかだ。
「……でも会ったのがライナルト様でよかったですね」
本心から告げていたが、帰ってきたのは苦笑の気配だった。何事かと思っていたら、実はそうでもなかったという。
「見つかった後、私はすぐに宮廷を追い出された」
「へ」
「彼女に触れたところを誰かに見られていたらしい。あのときからヴィルヘルミナは次期皇帝が決まっていたし、私如きが近寄っていい相手ではないと咎められた。押さえつけられ、皇妃相手に額を床に擦りつけながら謝罪させられたな」
「それをヴィルヘルミナ皇女は……」
「当然、知らない。はじめての冒険だったそうだから抜け出したことは覚えているかもしれないが、偶然会っただけの私を覚えているかは……」
「はじめて?」
「授業をさぼったのは初めてだったそうだ。家庭教師が厳しい人だからあとが怖いと言っていた」
ライナルトの言葉は懐かしさこそあるが、そこに恨みつらみは一切含まれていない。むしろ当時の妹のささやかな冒険を喜んでいるようで、カラッと笑っている。
「随分楽しそうですが、お恨みにはなってないのですね」
「屈辱……にあたる行為だったのかもしれないな。だがヴィルヘルミナを責めるのは違う。かといって私が悪さをしたわけではないし、問題があったとすれば過保護だった皇妃か、あるいは互いの立場だろう」
……その言葉を聞いて、私は首を傾げた。
「いつだったかライナルト様は家族を恨んでいないといった私に驚いたとおっしゃいましたけど」
「ああ、覚えている」
「あなただって大概ではありません?」
「……そうだろうか」
「そうですよ」
人のことを言えた試しではない。
大分前の話をよく覚えているなと言われるかもしれないけれど、彼との会話は私にとって興味深いものが多いから、大抵は記憶している。
「ライナルト様は皇帝陛下と組まれた皇女殿下をどうなさるおつもりですか」
「どう、とは」
「やはりお命を奪うおつもりなのかしらと思って」
「抵抗すれば止むなしだと、カレンは知っているのではないだろうか」
「そうかもしれません。でも、いまのライナルト様からはそれだけじゃない感じがしました」
ほとんど感覚程度のものだけど、間違っていないように感じる。ライナルトはしばらく沈黙したが、やがて教えてくれた。
「争いはするが……だが本音を言えば、降伏するのであれば命まで奪う気はない」
二人は相容れない。
だから争うし、互いの命を奪う気満々かと思っていたけれど、いざ尋ねたらこれだ。
「やっぱり血縁だからでしょうか」
「いや。ヴィルヘルミナには使い道がある」
「……そっちですか」
「カレン、貴方は私という人間がどんなものか知っているはずだ。落ち込むなどらしくない」
「私は何も言っておりません」
「少し声音が変わった。……たとえヴィルヘルミナに何かあったとしても、それは貴方の咎ではない。背負い込みすぎないことだ」
「……肝に銘じておきます」
楽しかった話が一気に重くなるが、いまさら止められない。
「それで、どういう理由があって皇女殿下を生かしたいのでしょう」
強い風が吹く。髪が顔に強く叩きつけられるのを、ライナルトの手が防いでくれた。
「単純な話だ。私は私の後のことなどどうでもいい」
心底つまらなさそうに言うではないか。
「大事なのは私がどう生き、何を成すかだ。だというのに周りは私が皇位を得た後の話をどうしてもしたいらしい。皇太子になったからには早く世継ぎを作れと言う」
「……皆さんもうそんなところまで見据えてるんですか」
「先の話など早いと言うのだが、どうにも考えすぎるきらいがあるな。いつか私が命果てた後は、皇位など好きに奪え合えばいいと思っているのだが、そんなのは容認できないと言われてしまった」
「……臣下だったらそのくらいは気にするの、当然じゃないですか、ね」
「カレンまでそんなことを言うか」
「あ、当たり前です。次は誰でもいい、欲しかったら奪えなんて言われたら争いの元です」
「だがそうなると妻を立てねばならない。カレンなら知っているだろうが、私は世継ぎも妃も求めていない」
皇帝のみならず、国を治める者には必ず求められる後継者。それを不要だと語り、周囲はそれを容認できないと言っている。
「私やヴィルヘルミナの年齢で子の一人も成していないのは異常らしい。いまは皇位争いが優先だから周りも黙っているが、この争いが終われば周りは黙っていられなくなるだろう」
「……まさかと思いますが、ヴィルヘルミナ皇女にその任を負わせようと思ってます?」
「そうなるな。問題だろうか」
無垢な声で聞かないでほしい。
ヴィルヘルミナ皇女の人柄を思えば、屈辱的かつ酷な内容ではないだろうか。考えようによっては死よりはマシかもしれないが、自然に子を成すことと、強制されるのとでは大きく差がある。
ライナルトなりにヴィルヘルミナ皇女を生かす理由なのかもしれないが、確執を生むのは想像に容易くない。
「私がまともな親になれる道理はないが……」
そんなことはない、と言おうとして言い淀んでしまった。
くすりと笑う気配だけが伝わってくる。
「いまのヴィルヘルミナとアルノー卿なら親として立派に教育も施せるだろう。なにより皇族の血筋が残ると言えば周囲は黙らざるを得ない。なにより、そういう名目ならヴィルヘルミナを生かしてやってもいいと考えるだろう」
「はっ!? に、兄さんですか?」
思わず振り返った。想像よりずっと高い位置に頭があったから、目を合わせるのも一苦労だ。
ライナルトは私が驚いたことこそ意外だったらしい。
「二人の関係を踏まえれば当然の運びだ」
「え、でも子供が目的だったら、他の人に嫁がせるとか……そういうのは、しないんですね」
「利用価値があるなら考えるが、嫁ぎ先で反旗を翻す可能性が高い」
「ああ……」
妙に納得できてしまった。
「半分でも血を引いていれば説得に足る証明がここにいるのだ。子さえ成してくれれば、相手を問うつもりはない」
「でもお子様を必ず皇帝にするという言葉を皇女殿下が信じるならともかく、周りの人がそれ信じるとは限りません」
「かもしれない。それにヴィルヘルミナのことだ。もし私が道半ばで絶えれば、そうでなくとも隙が生じれば皇位を奪うべく立ち上がるかもしれないな」
「呑気に言わないでください!」
命を奪わないなら継承権を剥奪すると思っていた。
だがライナルトがやろうとしているのは帝国内に亀裂を生み、特大の火種を抱えておく行為だ。
「無論、簡単には抗えぬよう対策は施す。ヘルムート侯含め、私に従わないのであれば息の根を止めさせてもらう」
「そのお言葉も怖いのですが、けどそれだって万全ではないですよね!」
「なぜそう思われる?」
「だってヘルムート侯らが下ったとしても、これからライナルト様に敵意を持つ相手が生まれないとも限らない。皇女殿下やその子を主と仰ぎ、反旗を翻す可能性だって充分あるじゃないですか」
「だがそれが一番確実だ。なにより将来の楽しみになるかもしれない」
……あ。
「……いまの、それが本音ですね?」
「ばれたか」
「ばれたか、ではありません。大体シスはどうするんですか、皇帝の血筋を恨んでいるのです。協力者のライナルト様に手出しをしなくても、ヴィルヘルミナ皇女に牙を剥かないとは限りません」
「解放に手を貸す代わりに私のやることには口出しをしない、が条件だ。今後どうなるにせよ、これはあくまで一例だ。この通りになるとは思っていない」
悪びれもなく笑うから質が悪い。つまりこの人は、爆弾でも構わないから手元に敵を置きたいのだ。そんなの命がいくつあっても足りないと言おうとしたけれど――。
そっか、と急に至った。
ずっと頭を持ち上げているのは億劫だったから、姿勢を戻す。
「よぉくわかりました。私はライナルト様を知ったつもりでいましたが、まだまだだったようです」
「うん?」
「いまのでまたひとつはっきりしました。……あなたは帝国の外に侵略すべき相手を見出しているというのに、まだ敵が欲しいのですね」
「心外だ。あり得るかも、という程度で怯える必要はないと言っているだけですよ」
「もう口ぶりがうそっぽいです、ファルクラム時代を思わせます」
最近は口調が皇太子らしいものに変わってきたけど、時々こうやってローデンヴァルトの頃のように敬語が顔を覗かせる。
普通、外敵を見据えているのなら国内の平定を目指すべきだ。
だというのにヴィルヘルミナ皇女を生かす道を考えているライナルト。人として、そして兄としては温かみのある判断だが、為政者としては危険極まりない判断となる。彼の言っていることは色々と矛盾しているが、これまでの経緯や彼の人となりを踏まえれば難しくない。
「……ほんと、難儀な人ですね」
外套の中は温かいのに、心がひんやりする。
私たちの会話はいつもこんな感じだ。色気なんてまるでないし、そもそも彼は色恋に興味がない。
残念な気持ちがないとはいわない。
だけど、私もまたこんなやりとりが嫌いじゃないのも確かだ。何故ならここまで話してくれるのも、ライナルトの信頼を得ている証なのだから。
ただ、尋ねたのはこちらにせよ、兄が妹の利用価値を語る話をきくのはきつい。隠れて拳を握りしめていたら、何故か目敏く反応された。嘘発見器でも内蔵しているのだろうか。
「……ときどき思うのだが、カレンは私を情に厚い親切な人間と勘違いしていないだろうか」
「ライナルト様は私に優しいですから、思うくらいあって当然です。……少しは知ってますけど、わかっていても時々忘れそうになります」
「そうか、ならよかった」
「よかったって?」
「親切にできていると知ることができたのなら僥倖だ」
頭を持ち上げると、逆さの視界に柔らかな微笑が飛び込んだ。腹黒い会話をした直後なのに、そういう顔はずるいと思う。
あ、いまになって自分の行動が照れくさくなってきた。いまさらこの暖房から離れる気はないけど、外套からほのかに香る匂いを意識したのだ。
「……手を出してもらえます? 今度は両手を前に出して、水を掬うみたいに……」
「こうだろうか」
「はい、そのままで」
ライナルトにこんな誘導ができるのも私くらいだろうか。
外套から体を出すと、目の前にできあがった両手の平にゆっくり手を重ねた。少しだけ意識を集中すると、ライナルトの手の平には光の粒子が渦巻いている。
「これは?」
「ここに抜け出してきた理由です。体の中の魔力が安定しそうにないときは、こうやって形にして発散すると気分が晴れるって教わりました」
教えてくれたのはシャハナ老だ。あの人にはシスに教わったこと以外に、色々な話を聞けた。
「指を開いて。風に流れるままにしてください」
ライナルトの指の隙間からキラキラと輝きがこぼれていく。それは宙に舞って風と踊り、ゆるやかに溶けてきえていくのだ。
「風に舞ったら見応えがあると思ったんです。今夜はとても綺麗な月夜だから、お見せできて良かった」
「……ああ、たしかにこれは、美しい」
その言葉に偽りはない。感慨交じりの声には微かな驚愕も混じっている。
「綺麗なだけで実用性はないけど、こういうものなら魔法だって悪いものばかりじゃないでしょう?」
ライナルトは神秘嫌いだから、どう感じるかは不安だったけれど、この調子なら悪い感触ばかりでもないだろう。
もう数回繰り返して粒子が消えるのを見届けると、帰路につくべく外套から飛び出した。
「これ以上残っていると、ライナルト様の考え事をずっと邪魔してしまいそうです。私はこのあたりで帰りますね」
「……私も戻ろう」
「考え事があったのではありません?」
ライナルトがここにきてそう時間は経っていない。私は彼の思考を邪魔するばかりだったのだが、相手は眺望を一瞥するとゆるやかに首を振った。
「いいや。……どうやら杞憂だったようだ。カレンを見ていたらどうでもよくなってしまった」
「……それはやっぱり邪魔してしまったのでは」
「まさか。私が貴方を疎んじたことはない、不思議なことにな」
最後は独白にも似ていた。手を取られると「戻ろう」と言わんばかりに歩き出すが、二人分の魔法ってかけられるかな。
「こちらに来てからというもの、遅々として事態が進まず悪戯に時間を消費するばかりだったが、今宵は良いものが見られたと心底思う。カレン、貴方に感謝を」
「……ライナルト様でも悩むことがあったんですね」
「貴方は私を一体何だと思っているのかな」
「だって大抵は驚きもしないじゃありませんか。いつも自信満々になんでもやってのけてしまう」
「否定はしないが、そうあることを求められ、私が応えているだけでもある」
「なら……偶然でしたけれど、光栄です」
声は自然に弾み、帰り道は散歩するかの如くゆっくりだった。寒さと、そして深夜でさえなければもうちょっと歩いていたいと思ったくらいだ。行きは一人だったけれど、帰りにこうして手を繋いで戻るのも悪くない。
私よりやや前を歩く人は、ただ、と言った。
「カレン、私は少々不安になった」
「なにがですか?」
「貴方は異性に対し無防備すぎる。私こそ貴方におかしな気を起こさないからよかったものを、世の中にはもっと危ない男がいることを知った方がいい」
「……私、相手は選んでるつもりです。それにそのお言葉はちょっと、いえかなりあんまりではありません?」
「今回ばかりは間違っていないと自信をもって断言しよう。貴方はもう少し警戒心を抱くべきだ。その調子ではリューベック家の当主にもいいようにされないか心配になる」
「そこまで酷くありませんー。偏見はやめてくださーい。あとそこまでおっしゃるなら助けてください。私、あの方が苦手なんでーす」
きっとあなただから無防備になってしまうのだ、なんて言葉は呑み込んで、魔法をかけるのをやめようかしら、なんて意地悪心を押さえ込む。
「妙な男を引っかけぬよう注意した方がいい」
「まだ言いますかっ」
などとムキになって反論していたのだけど、これが笑えなくなってしまったのが翌日である。
エスタベルデ城塞都市のキエムからの書状を携えた使者が告げたのは、意外なものだった。
「……は? 私が同席? 何故?」
この後行われるライナルトと、ヨー連合国は西のサゥ氏族の首長キエムの間で設けられた会談に、私が名指しで同席を指定されたのである。
何故か溜息を吐くライナルトは、それみたことかと言いたげだけど、それこそ待ってほしい。
「なんの身の覚えもありませんから、その目はやめていただけません!?」
それこそ偏見であると叫んでも、一切信じてもらえなかったことこそ酷い話ではないだろうか。




