194、晴嵐前の静けさ
この日は朝から奇妙だった。
トラブルに見舞われる日だとでも言うのだろうか。第一の異常はウェイトリーさんの寝坊スタートだ。
たかが寝坊、されど寝坊。休養中とはいえ決まった時間に起床するのがウェイトリーさん、使用人仲間が起こしに来なかったのは、偶然にも各々が朝の買い出しに出ていたためだ。起こせる面々は出払っており、残っていた人たちは「たまには寝坊もいいだろう」とあえて起こさなかった。主人である私やヴェンデルはそれぞれ惰眠を貪っていたので責める権利はない。
もとよりそのつもりはないけど、朝からしゅんと沈んでいる姿は珍しい。お向かいの御友人がこのことを知ったらここぞとばかりに揶揄ってくるだろう。家令の名誉のため伏せておくつもりでいると、すっかり顔なじみになったクロードさんが頭を掻きながら登場した。
「おはよう諸君。いや、参った参った。今日はとんでもない日かもしれんぞ」
お向かいだけでは飽き足らず、助手や秘書を呼び出すのも面倒だからと近所のアパルトメントを一棟まるまる所有権を購入したので着々と囲いを作り始めている。コンラート関係者にも格安で貸してくれるので、早くも引っ越しを検討している人がいるようだ。此方の経営は趣味のようだが、趣味で不動産収入を確実にしていくのも凄い話である。
クロードさんは入室するなりウェイトリーさんの顔を見て口をへの字に曲げた。
「いつになくご機嫌斜めだが、もしや寝坊でもしたか」
「……馬鹿を言わないでもらいたい」
「はん、図星だな? 寝坊がどうした、二度寝は気持ちいいもんだぞ。年を取ればいやでも早起きしてしまうからな。若造の頃を思い出せば悪いものではない」
「違うと言っているだろうに」
ウェイトリーさんの機微を見抜けるのはこの人くらいだ。悠々と着席するとパンにここぞとばかりにバターとジャムを乗せる。これ以上ウェイトリーさんに話題を向かせてはならないと、ヴェンデルが声を張り上げた。
「それより! 朝からなにかあったみたいだけどどうしたの」
「聞いてくれたまえよ。今日は久しぶりに愛犬の散歩に出たのだがね」
クロードさんは大型犬を三匹飼っている。お散歩は基本的に使用人任せだが、運動も兼ねてお出かけした先でトラブルに見舞われた。
「困っていたご婦人を助けたら通りかかった馬車に泥水をかけられてね」
「あ、夜中がどしゃぶりだったもんね」
「幸いにご婦人は濡れずにすんだが、私と愛犬はびしょ濡れだ。それだけならご婦人の身を守れた名誉として鼻も高いが……」
家に帰ろうとした矢先で靴紐が切れ、その上どこかに財布を落とした。クロードさんほどの人になればお財布は付添に持たせそうだが、本人は気ままに動くのが好きなのでそんなものはいない。
おまけに帰宅したら、普段欠かしたことないはずのお気に入りの茶葉が切れていたようだ。
「いつもの茶がないと調子が出んな。今日はなにかあるかもしれんぞ」
「クロードさんが言うと洒落にならないです。今日は宮廷に上がるのですから、おどかさないでください」
「気をつけるに越した話はないさ。私はついていってあげられないが気をつけたまえよ」
「そちらこそお気をつけください。今日はトゥーナ公の元へ行かれるのでしょう?」
「なに、愉快な人物だと聞いているから、どちらかといえば楽しみでならない」
午前中にヴィルヘルミナ皇女に面会予約が取れたので会いに行くつもりだ。クロードさんは件の土地拝領について詳細を詰めるためメインであたってもらっている。
「マルティナにもよろしく伝えてください」
「伝えておこう。エミールの出発までには全員揃うといいのだがね」
エミールはとっくに朝食を済ませ、庭でチェルシーやジルと一緒に遊んでいる。もう数日したらキルステンに身を移すので、家の者とふれ合う機会を大事にしているのだ。ヴェンデルが夜更かし気味なのもエミールと過ごす時間を惜しんでいるためだ。
特にジルは一緒に連れて行ってしまうからチェルシーが寂しがるけど、クロードさんの飼い犬に甘えさせてもらうつもりだ。
開け放しの扉からチェルシーが笑い、エミールの「とってこい」と弾む声が聞こえてくる。きっとフリスビーみたく投げた棒をジルが取りに走っているのだ。その姿を庭師のベン老人やハンフリーも見守っているはずで、彼らに妹を任せたジェフはひっそりと端の椅子に身を寄せている。
私が宮廷に赴くから心を引き締めていて、こういうときはチェルシーがジェフの変化を敏感に感じ取るから、他の人が彼女の相手をしてくれている。
そして話に出てきたマルティナは、とうとう本人から連絡が入った。
「もう帝都に戻ってきているのですよね。お見舞いもいいと言っていたし、大丈夫かしら」
「本人が不要だと言ったのなら問題ないだろうさ。事情があるようだし、彼女の件は私に任せてくれたらいいさ」
「ウェイトリーさんも心配していますから、早く元気になって顔を出してくださいと伝えてください」
彼女は数日前に帝都へ戻ってきたが、なんと怪我を負い帰ってきていた。本人は隠しておきたかったらしいが、連絡を入れたところで判明した。コンラートに顔を見せる前にクロードさんにご指名が入ったので、所用が終わったあとに会ってもらうようお願いしている。
「……久しぶりに朝餉に相伴預かったが、スープがいつもと違うな」
「ふふふ、おわかりになりますか。実はバーレのイェルハルド様の好物を分けていただいたんです」
「バーレ家ご当主の好物を……。特異な御仁だから味覚もまた特殊なのかもしれないな。我々には理解できない味覚をお持ちになっている」
この様子ではお気に召していただけなかったらしい。リオさんはこの反応を予想していたのか、すかさず皿を取り替えた。
……駄目かなぁ味噌スープ。味噌は少量にしてもらったし、リオさんと私では最高の出来とはしゃいだけど、ベン老人以外は微妙な反応だった。少ししか作らなかったから二人で消費できるのだけど、こうも不人気だとちょっと寂しい。
ヴェンデルに至っては堂々と、
「不味くない?」
「ヴェンデル様、大人には堂々と趣味嗜好を口に出来ない時がございます」
こうなので推して知るべし。
日本食の普及は趣味の世界なので、こうして広げることで仕入れを増やしてもらいたいが、道のりはまだまだ遠そうである。
さて、私の隣には実はもう一席設けてある。特別に用意された椅子は脚が長めの特別製で、身長が足りない子供のための椅子だ。空席だったそこにはいつの間にか豪奢なドレス姿の女の子が座っており、焼きたてのパンを指さしていた。
「マスター、そこのパンをとってくださいな」
「ルカ嬢、こちらのジャムも美味だが如何かね」
「いただくわ。ねえクロード、ワタシそこのハムとチーズを挟んだのも食べたいの。作ってくださらない?」
「仰せのままに用意しよう」
皆は神出鬼没なルカの出現も慌てず騒がず対応していた。ウェイトリーさんはお茶を淹れ、クロードさんはハムを多めに挟んだサンドイッチを作ってくれる。彼女はエルの遺産、私の使い魔と話したが、深く聞いてこないのが流石だ。口外の心配がないとは言わないけれど、ルカが仕込みをしているからバレる心配もなく、こうして堂々と姿を現している。
魔法といえば大体の不思議現象が通るのもこの世界の特徴だ。
本来魔法生物であるルカに食事の必要性はない。こういった彼女の行為は無駄にも感じられるが、曰く食べ物にも多少の魔力は存在しているようなので意味のない行動ではないようだ。だがヴェンデルにしてみればあれやこれやと食を楽しむルカは趣味に没頭していると映るようで、今朝も呆れていた。
「ルカはカレンに似て食いしん坊だよね」
「マスターと一緒にしないでちょうだい。ワタシは様々なことを知りたいの。探究心が強いといってくださらないかしら」
「どっちでもいいよ。ところで学校の近くに安いけど美味しいお菓子屋があるんだけど、帰りに買ってこようか?」
「所謂駄菓子ってものかしら、興味あるからお願いするわ。お礼は今回も写本でいいかしら」
「母さんのは作り終わったから、次は竈の作り方を教えてほしいな。庭に設置したいんだ」
「いいわ。丈夫で熱効率の良いものの作り方を教えてあげる」
出現時間は少ないが、ルカなりに家人との交流を深めている。
私がやっていたからと皆の前でシャロの背中に顔を埋めたときは、ちょっと困ったけど……。
出発する頃には不安なんて吹っ飛んでいたけど、トラブルに見舞われたのは宮廷に到着してからだった。
「御髪が変わってしまわれたが、美しさに磨きがかかった。こうしてお目にかかれたことを嬉しく思います」
最近会っていないから遭遇はしないだろうと思っていたのに、思いっきり予測が外れた。久方ぶりに会うヴァルター・クルト・リューベック氏は穏やかな笑みを湛え私の手を取っていたのである。




