193、外伝 地獄の釜よりなお赫く/Ⅲ
ニーカはまだ子供なのだ。仲間の危機に駆けつけ、祖父みたく尊敬される自分を夢想したことはあるけれど、理想と現実はあまりにもかけ離れすぎていた。育ち盛りには足りない食事、知らない場所、見知らぬ人々に命を狙われる恐怖。かろうじて支えているのは家族が育て上げた教えと、家に帰りたいと願う帰巣本能だ。いまぐらつきかけている心に手を添えてくれているのは、共にたき火を囲む彼らだった。
「ライナルトって一人だけ教官に進むのに反対してたよね。あんた、もしかしてこのことがわかってたの」
火にあぶられた枝が音を立てて割れた。話をしていないと心が恐怖に連れて行かれそうで、大声で泣き出しそうで怖かった。
「わかっていたわけじゃない。ただ、実地訓練の後に抜き打ちがくるんじゃないかって噂は聞いてたから、近辺で起こってる争い調べてた」
「……あんたそこまで知ってたの?」
「だから知ってたわけじゃないんだ。でも情勢を調べてもらったら、ここの地域は思った以上に後がない状態だった。原住民は一番強い大人が先の戦で亡くなったばかりで、今度の戦で本当に滅ぼされるだろうって。……その程度だったのだけど、大人はやけに楽観視してたから不思議ではあったよ」
「それだけで疑ってたって? そりゃ確かにそうかもしれないけどさ、戦の状況を軍人がわかってないわけないじゃないか」
「君は軍人だったら間違わないとでも思ってるのか?」
純粋な問いだった。大人を信じるニーカにライナルトは心底驚いており、返答に詰まってしまった。
「そ、そこまではいわないよ。……だけど、今回の戦は余裕だって言ってたから……」
「相手が死ぬって確信を持っているときほどなにがあるかはわからない。そういうものだよ」
妙に悟ったような台詞で言うから癪に触るが、彼に助けられたのも事実だ。言葉をぐっと呑み込んで目をそらした。
大体「調べた」なんて簡単に言うが、だれが少年に情報提供したというのだ。
その問いはライナルトがモーリッツを親指で指すことで示された。
「今回の派兵はバッヘムから資金提供が行われてる。モーリッツの実家だから調べてもらうのは簡単だった」
「バッヘムが実家?」
バッヘムといえば帝国で名を知らぬ者はいない大家だ。そんなお坊ちゃんがこうしてたき火を囲んでいるのも、ましてニーカ達のような訓練生に混じるのもまるで考えられない。
「でもあんた、アーベラインって名乗ってたじゃないか」
「……バッヘムは母方の名だ。僕には関係ない」
「いや、関係ないってそれ無理が……」
「うるさいな、関係ないって言ってるだろ」
この期に及んで無関係を装うのは無理があるだろうに、モーリッツは頑なに喋りたがらない。
ライナルトは押し黙ったモーリッツに軽く肩をすくめると、そういうわけだから、と言った。
「……それにしたってここまで読んでたのはおかしくないか」
「万が一を考えていただけだよ。私だってなにかあってほしいなんて思ってないさ」
「嘘つけ。だったらなんでわざわざ荷物を分けさせてたんだ」
「誰も迎えに来てなかっただろう?」
「おかしいのはわかるよ。だけどそれがどうして?」
「だからさ」
ライナルトの言葉は要領を得ない。直接的なやりとりを好むニーカにとって、いまのライナルトはまさしく「気取ったお坊ちゃん」に感じられてならなく、少女の苛立ちが爆発する前に少年は説明した。
「伝令が来てない時点で普通は怪しむべきだろ。もちろんそれだけじゃ判断材料は足りないけれど、あとはただの勘さ」
「勘んん?」
「そう怪しまれると傷つくな。でも他に言い様がない、合流地点に到着したときから妙な空気だったんだ。あたりがぴりぴりと刺すみたいに張り詰めてる、視線を感じるのに誰もいない。森に入りはじめてから胸騒ぎが収まらなかったから、モーリッツにはいつでも貴重品だけ持ち出せるよう伝えておいた」
平然とした調子で話すが、この状況にも関わらず口角をつり上げているように見えるのは気のせいか。少年はニーカの知る同年代とは違い、それがなんとも居心地が悪くて直視できなかった。
「いまさらだけどさ、誰か生き残ってたりしないのかな。もし捕虜になってるのなら、助けたら味方が増え……」
「行かないよ」
ライナルトの答えは簡潔で簡単だった。
「君だって本当はわかってるだろう。彼らは私たちが若者だからと生かしてくれる人ではないし、先の戦で男を大勢やられている。その前では別の集落を焼き討ちして女子供も命を落とした。次に殺されるのは自分たちで、だからこそ死に物狂いだ」
集落の焼き討ちはニーカの知らない話だが、このあたりは無理もない。帝国民に伝えられるのは帝国に抗う部族を下した勝利報告だけであり、わざわざ戦の詳細を語り、反感を買う理由はないためだ。
「友達が生きていると考えるのは勝手だけど、行ったところでどうにもなりはしないよ。半人前三人だけで挑んでも負けるだけだし、本当に彼らを助けたいと思うのなら森を抜けて味方を呼ぶべきだ」
「……そう、なんだけど」
拳を握った。ライナルトは訓練直前に入ったから同級生を知らないが、ニーカは違う。彼らとは長い間顔を突き合わせ、苦楽を共にした学友なのだ。仕方ないとわかっていても、逃げる直前に誰かの手を握れなかったことを後悔している。
「それに君を助けたのはあの中で一番腕が立つからだ。訓練中も皆の中で群を抜いて強かったし、冷静だった。いまだって怒鳴らず状況を把握しようと努めてる。まわりを見れるだけ教官よりも優秀だ」
「……それじゃ腕が立たなかったら助けてくれなかったって?」
「そうだよ。君は君の才能に助けられたと思っていい」
淀みなく答えるから、気付いたときにはライナルトの胸ぐらを掴んでいた。すぐにモーリッツが割り込んだから事なきを得たが、ニーカは苦々しさを隠せない。
「なんで皆に忠告しなかった、なんて言わないだけ君は賢明だ」
「ライナルト様、少し口を抑えてください」
言ってやりたかったに決まっているだろう。
しかしライナルトは一度ながら教官に申告している。仮に意見を聞いたとしても、その理由が訓練生が「勘」では教官が聞き入れないのはわかっている。
ライナルトに命を救われたのだ。だからそれらすべてをぐっとこらえて彼らに背を向けた。一人分小さくなって寝転がれそうなスペースを作ると、小さな鞄を枕に横になったのである。
「いまは寝る。交代になったら起こしてくれ、明日の方針は明るくなる前に話し合おう」
胸の裡に渦巻くやるせなさは誤魔化せない。出来るのは彼らを見ずに、頭と体力を回復させて明日に挑むことに専念するだけだ。
雨音は段々と強くなってきて、うるさいくらいになっている。大木の壁と火のおかげでそれなりに暖かいけれど、果たしてこんな所で眠れるのだろうか。そう思って目を閉じると、意識が落ちるのは一瞬だった。
パチンと目を覚ましたとき、背後では少年達が小声で話し合っていた。
「ライナルト様、これは陛下の御心でしょうか」
「考えすぎだ。あの男は私に興味ないし、わざわざ手出ししてもこない。最近は新しい女に目が向いているようだし、私などあってないようなものだ」
「……ライナルト様を無視するなどあり得ない話です」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、注目されていたらいまごろ命はなかったさ。路傍の石扱いだからこそ生きていられる」
突っ込み所満載のやりとりだったが、いまのニーカはそれどころではない。ゆっくり身体を起こした少女に二人は口を噤み、驚く二人に身振り手振りで指示をした。「喋り続けろ」と伝えた彼女は、無言で外を示す。
誰かが、いる。
ライナルトたちが外側に背を向け会話を再開する間に、ニーカは大木に背を預けて剣を抜く。外側からは見えない木のくぼみに中腰で立ちながら、荒くなる息を押さえ込んだ。
火元はなるべく隠したけれど、外側からでもたき火がついているのは見えてしまう。火を炊いたままにするデメリットと、こうして押し寄せた危険に後悔が押し寄せてくるも、それでも暗闇と寒さに三人は消火を決断できなかった。
モーリッツの表情がこわばっているが、たき火の揺らめきで誤魔化せるはずだ。あとは自分のタイミングだと深呼吸を繰り返し、外に意識を集中する。
雨音にまぎれて不規則な足音が近づいてくる。人数はわからないけれど多くはない。震えそうになる拳を意気だけで押し殺した。
――果たして自分は人を殺せるのだろうか。
ライナルトは彼女を強いと評価したけれど、どう足掻いたって少女は見習いだ。
家族は訓練と実地は違うと口を酸っぱく忠告していて、そのときはどんなヤツだって倒してみせると息巻いていたけれど、いざこんな事態になれば、足音達にどうか来ないでくれと願わずにはいられない。ただ家に帰りたいだけなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
けれど願いも虚しく静謐は破られる。
なにかを喚きながら突入してきたのは数名の部族がいた。言葉が聞き取れないのは彼ら特有の言葉を喋っているからで、二人の男が激昂しているのだけは聞き取れる。
いますぐ飛び出すべきかと悩んでいる間に機を失してしまい、奥歯を噛みしめた。
彼らは二人に注目している。まだニーカは見つかっていないが、中に踏み入ればすぐに見つかるはずだ。
「槍が一、斧が二」
ライナルトが呟くと相手の語気が荒くなり、体が大きく揺れた。どうやら殴られたらしく、モーリッツが怒鳴り声を上げると、少年の喉元には槍の穂先が突きつけられた。
ライナルトは別の男に背後から髪をひっつかまれ、無理矢理顔を上げさせられるのだが、その行為がモーリッツの逆鱗に触れた。大陸共用語ではない言葉を喋ると場が静まりかえるも、直後激しい罵倒が吐かれ、穂先が喉元から離れた。
ここしかなかった。
モーリッツの喉に鉄が食い込む前に飛び出せば、暗闇に隠れていたニーカは意識外になる。
すでに剣を構えて突進したニーカと、意識が逸れていた者では大きな差がある。剣の切っ先が男の腹に埋もれる感触が柄越しに伝わり、全身がぷつぷつと鳥肌を立てていく。
男が倒れ、すぐに剣を引き抜――けなかった。
「あ」
仰向けに倒れ苦悶の表情を浮かべる男、いや男の子はニーカと同い年の少年だった。声音で気付けなかったのは極度の緊張によるものであり、刺した相手の顔を見て、はじめてニーカは誰を刺したか自覚した。
剣は脇腹に深々と突き刺さっている。隙を作ってしまった少女だが、残りの者が彼女のかんばせに斧を突き立てる前に、ギャア、と悲鳴があがっていた。
「ぼうっとするな!」
ライナルトだった。ニーカが敵を刺した隙を窺い、手に持っていた短剣で相手の手首を切りつけたのだ。悲鳴と共に斧が落ち、その足にモーリッツがしがみつくと、勢いづいて倒れた相手の顔面に蹴りを放った。鉄板入りの仕込み靴は顔を傷つけ、前歯や血飛沫をあたりに飛ばす。
しかし敵は二人だけではない。もう一人離れた位置に斧を持った人間が立っていたが、最後の一人は何故か及び腰であり、恐怖の色を顔に滲ませていた。
この場ではニーカが真っ先に気付いた。男勝りの顔立ちだけれど、その子はニーカと同性だ。
女の子だからと手加減する理由にはならないけれど、相手は明らかに怯えていて――そのため止めようとした。
けれどそんなことライナルトには関係なかった。逆手持ちに持った短剣で少女が構えるより早く斬りつけると、体勢を崩したところに跳びかかる。
「ライナルト、駄目だ!」
ニーカの叫びは少年を制止するには至れなかった。振り上げた腕は少女に埋もれ、やがて深い息をつきながら立ち上がる。その下にある肉体はピクリとも動かず、命を奪ってしまったのだと理解するのはすぐだった。
「二人とも目をつむっておけ」
呆然と佇むニーカの前を横切ると、転がっている二人にも止めをさした。片方は虫の息、片方は気絶していたからろくな抵抗はない。空を走り出した稲妻が都度都度明かり代わりとなり、彼の所業を鮮明に記憶に焼きつける。
「よし、片付いた。モーリッツ、後ろを向きながらでいい。連中なんと喋っていたか教えてくれ」
モーリッツは遺体に心奪われてしまい動けない。ライナルトの叱咤に肩を跳ねさせると、どもり気味に答えた。
「お、おおとなを呼びに行ったほうがって、言っていまし、た。あとは帝国が家族を殺したとか、お、怒ってるだけで、あまり意味のある言葉ではありません」
「ならもう他にはいないのかな。だとしたら助かった。みたところ同い年くらいだし、ニーカに気付かなかったから経験が浅かったのかもしれない」
そこに人を殺した動揺はなかった。ライナルトの注意はすでに死者になく、消えかけた火に薪をくべながら提案したのである。
「埋めてる時間はなさそうだから、使えるものを剥いて物陰に隠そう。雨が弱まったら出発だ」
彼は本当に同じ人間なのか。亡骸の懐を漁り出した少年はもはや奇妙な生き物にしか見えなくなっていたが、血に濡れた剣先が目に入ると、胃からせり上がってきた内容物を吐き出すべく後ろを向いた。




