187、外伝 地獄の釜よりなお赫く/Ⅱ
「ねえライナルト、私たちが逃げ出したのはバレてるかな」
「ここは彼らの土地だ。途中で背嚢を捨てたし、調べられたらすぐに気付かれると思うよ。彼らが私たちを生かす理由もないし、目撃者は消したいはずだ」
ライナルトはモーリッツに手を貸し周囲を見渡す。
「隠れて進めそうな場所はあるだろうか。できれば川を渡って向こう側に移動したい」
「……水を確保して隠れるだけじゃだめなのか」
「駄目だ。逃げる途中、微かにだけど犬の鳴き声が混じってた」
犬と聞いた途端、ニーカの背筋がピンと伸びた。訓練生として、なにより犬の訓練士を身内に持つ身として動物の優秀さは知っているつもりだ。母にたたき込まれた教えが脳裏を過ると顔を真っ青にしたのだが、このときモーリッツが鞄を落とし、目線は彼の手元を追った。
背嚢以外の荷物などなかったはずだが、いつの間に携帯していたのだろう。疑問はともかく、鞄からこぼれでたのは小さな鍋や葉に包まれた携行食である。
「おま、おまえ、ちょっとそれ貸せ!」
我を忘れて飛びつくと、少年の悲鳴などおかまいなしに鞄をひっくり返す。鞄の中は几帳面に詰め込まれていたのが台無しで、モーリッツがニーカを叱りつけた。
「何をするんだ、大事な食料なんだぞ!」
「脂肉、干し肉、燃料、火打ち石……よし、よし……これなら……」
葉に包まれた携行食は溶解した動物の脂肪に干し肉、乾燥果物に粉砕した木の実、保存性を高くするための薬草を加え固めた脂肉だ。味は非常に不味く、食べればみな一様に顔を顰めるが、カロリーが高く野戦では欠かせない食料になる。演習では配給されていないから、モーリッツの私物だった。
目を皿のようにしてあたりを観察すると、木の根元に生えている草を引き抜いた。
「ニーカ?」
「風上はどっちだ」
「北だ。さっき煙が流れた方向を見てたから間違いない。ちょうど川の上流方向だ」
ライナルトが答えるより早く、モーリッツが反応していた。いまだニーカの手にある携行食を恨みがましく見つめているが、行動に意味がないとは考えていない。
ただのお坊ちゃんだと思っていたがモーリッツも存外頭が回る。ニーカは頷くと、手早く荷物をまとめさせ、河原を抜けるべく歩き出した。
「ニーカ、急ぐのはわかるが慎重に行かないとだめだ」
「そんなことわかってるよ、でもこっちの方がもっと重要だ」
「お前、ライナルト様に失礼な口を叩くんじゃない」
「モーリッツ、私のことは気にしなくていい」
モーリッツは地団駄踏みそうな勢いだったが、ニーカに続いてライナルトも動き出すと続かないわけにはいかなかった。
「誰かいるように見えるか? 私には特に問題なさそうに見えるけど――」
「いないはずだ。後ろもまだ大丈夫、誰も来ていない」
先頭と殿をつとめる短いやりとりにすべてが詰まっていた。河原の周辺は虫の音と風のざわめきが響くだけで、雄叫びも、空を切る矢羽根の音もしない。川の流れもゆるやかで、足首程度の深さの水流を見つけると向こう岸に向かって渡りはじめた。水筒の口を開けたライナルトが早口で二人に伝えた。
「川魚も生きてるから毒は流れてない。水筒の水を入れ替えて、手早く向こうに渡ってしまおう。早く身体を休めるところを見つけないと、日が暮れたら身動きが取れなくなる」
「ライナルト様、山の向こう側に雲がかかっています。そう遠くないうちに雨が降るのではないでしょうか」
雨が降れば土がぬかるみ、三人分の足跡を消してくれる。川も増水するだろうから、上手くいけば追っ手も減るかもしれない。ここにきて運が向いてきたと希望に表情は明るくなったが、ライナルトの表情は険しいままで、彼の懸念はニーカにも伝わった。
「そいつは好都合だね。二人とも、私は渡りきる前に風上側に行ってくるよ」
「……何に使うんだ?」
「もしものための保険。風向きを考慮して川を越えて……おまけに雨が降るなら大丈夫だと思うけど、やっぱり地の利は向こうにあるから、念には念を入れておきたい」
喉を潤した後は二人に向こう岸に渡るよう伝え、特にライナルトには休める場所を探してもらうよう頼んだ。モーリッツは物陰に隠れ、ニーカを待つ役目である。
風上に向かう少女には二人に置いて行かれる不安があったが、弱気に負けている場合ではない。
「大丈夫、大丈夫――。私は強い、私はやれる」
自分を奮い立たせる呪文を唱えて、風上の方へ足を運ぶ。その手には燃料と火打ち石といった道具が詰まった袋があった。
きっとライナルト達は自分たちだけで逃げられたのに、あえてニーカを助けたのだからここで見捨てはしまい。弱音の虫はあとで吐く、いまは逃げ切るのだ。
「あんまり離れすぎても駄目だよな」
できればもっと上流で火を焚きたいけれど仕方がなかった。河原にはあちこち乾いた枝が落ちており、それらを集めると手早く並列型に組んでいく。燃料を振りかけるとわずかな火種で簡単に火を点けられるが、もくもくと煙が上がり出すと手元が震え出した。鍋に脂肉と水、摘んでおいた草を放り込み、炎の上に乗せ、素早くその場を後にしたのだ。
もし後ろから追っ手が来たらどうしよう、モーリッツが待っててくれなかったらどうしよう。そう思いながら川を渡った少女を出迎えたのは、苦々しい表情で川向こうを見つめるモーリッツだ。
「貴重な鍋と携行食だったんだぞ。それにわざと煙まで立てて……。僕たちはお前を殺すために助けたんじゃないんだ」
「わかってるよ。でも、あの鍋はあそこで必要だったんだ」
ライナルトと合流できればだが……。不安になるニーカに、モーリッツは不満げに鼻を鳴らす。
「まるで見くびられてるな。確かに僕はお前みたいに腕は立たないが、あの演習について行けるだけの実力はあるんだからな」
「ライナルトに荷物持ちを助けてもらってたのに?」
「な、なんでそれを……いや、なんでもない、うるさい!」
見られていたとは気付かなかったらしい。
いささか間が抜けているし体力は心許ないが、訓練に文句も言わず付いてきた根性や天気の移り変わりを察した頭の良さは評価している。
「ライナルト様ならこの先にいるはずだ。目印に紐を括っておくといったから、回収しながらいけば合流できる」
「紐ぉ?」
「全員持たされてただろう。正直切りたくはなかったが、他に印になるものもない」
「そうだけど、あれ背嚢に入れてただろ。あんたらわざわざ取り出してひっさげてたの?」
「ああそうだ。ついでにお前が返してくれないその袋や、河原に置いてきた鍋もライナルト様のご命令で分けて持っていたんだよ」
準備の良すぎる彼らに疑問を感じつつも歩を進めていると、ほどなくしてライナルトと合流を果たせた。
「すまない。屋根代わりになりそうなところはまだみつかってない」
「こんな短時間で見つかるわけないからね。三人で探そう」
「代わりに食べられそうなものを摘んでおいた」
「……それ、食べられるの?」
「心配いらない。食べられるものしか摘んでないから」
少年の手にあるスカーフには黒すぐりや野草が包まれているが、ニーカには食用とそうでないものの見分けがつかない。それでもライナルトは食料は豊富だと呟いていたから、少年にはこの草木まみれの山が食料庫に見えているに違いなかった。
逃げる方角なんて考えずに駆けたから、所在地は滅茶苦茶だ。視界の届く限り深い森だし、どこに行ったらいいのかわからない。途方に暮れそうになったけれど、食料の心配はしなくていいと、ニーカは無理矢理自分を納得させた。
足が棒になりそうなほど歩いた。
川を渡ったから靴やズボンは濡れて気持ち悪いのに行軍はやめられない。途中、突き当たりに行き着くと岩をくり抜いた洞窟を見つけたが、中を改めると諦めた。
「しばらく使ってないようだけど、人が入った形跡がある。もしかしたら安全かもしれないが、もし夜中に来られたら場所が悪いから逃げ場がない。他を当たろう」
満足いくような屋根代わりは見つからなくて、散々歩き回った結果、行き着いたのは大木の倒れた跡地だ。幹は三人が手を繋ぎ囲んでも足りないの太さで、かつて立派な樹木であったのは想像に難くない。
中は空洞になっていた。欠けた一角から入り込むと、落ちていた枝を集めて幹に引っかけ、丈夫で大きな葉をかけて隙間を埋めてやれば屋根代わりになった。簡素な隠れ家だが大木のおかげで周囲の視界は遮れるので悪くない。地面には太めの枝を等間隔に並べれば、三人並び座るだけのスペースは確保できる。
作業量が途方もなかっただけに、小さなたき火を作る頃にはすっかり夜更けだ。夜中にたき火をつける危険性は重々承知していたが、点けずにいられなかったのは理由がある。
「寒いし、虫は飛ぶし、煙たいし、ほんと最悪」
「文句を言う暇があったらちゃんと火を見ろ。焦がしたら後が無いんだからな」
「隣の奴はうるさいし、お尻は痛いし……」
煙が無いと蚊や虫が寄ってくる。平地なら薄手のシャツで過ごせる季節だけれど、山の中でその装いは自殺行為だ。外套を羽織っているけどそれでも足りないし、炎がなければ寒さで低体温症になる。靴も乾かさねばならないし、ズボンの裾も同様だ。三人身を寄せ合っていればいくらか暖かいからマシだけど、たぶん三人が三人ともそれぞれを「臭い」と思っているはずだった。
三人揃って両手ほどもない小さな鉄鍋を見つめていた。モーリッツの鍋は河原に置いてきてしまったが、これはライナルトのものだ。彼が持参していたわずかな脂肉に水を加えて、塩と、それに途中で摘んだ茸や野草を加えた食事を作った。
一つの鍋を回し食べだ。肉を噛みしめればいくらか味が出るが、煮詰まった野草は青臭いし、汁は脂っぽくて美味しいとは言えない。きっと保存用に加えている薬草が原因だ。
はっきりいって不味い。
不味いけれど、このときの三人にはこの小さな鍋のスープがなによりのご馳走で、不思議なことに味覚が麻痺を起こしていた。がっつきそうになる食欲を、しかし隣のヤツに食事を渡さねばならないと理性を持ってスプーンを手放させる作業は、少年少女にかつてない忍耐を強いている。
わずかだが腹も満ち、黒すぐりを一粒ずつ食べ始めると、雨粒が屋根の草木をノックしだした。
「ねえ、火は消えたりしないかな」
「屋根があるから大丈夫だろう。それより集めた枝が濡れないようにしてくれ、火が絶えるのは心臓に悪い」
雨が降り出すと地面が湿るのが心配だが、こればかりは天に祈るしかない。腕に這う蟻を落としながら、ようやくニーカは切り出した。
「モーリッツの鍋は、わざと煙を出して下流に匂いをばらまくようにしたんだ。そばにはあんたたちの持ち物も置いたし、あそこにいたっていうのはすぐばれちゃうんだけど……」
「君は何か草を摘んでたな。私は知らないものだったが、あれは?」
「水と油で煮てやると強烈な臭いがでる野草。連中が私の想像より早く到着して、火を消してなければ風に乗って散らばるはず。それで犬の鼻は誤魔化せると思う」
多分、と自信なさげに呟いた。直に嗅げば犬はしばらく鼻をやられるらしく、母親から絶対やるな、と忠告されたから覚えていただけで、試したことなど一度も無い。咄嗟に行動を起こしていたが失敗していたらどうしよう、なんていまになって不安が首をもたげてきた。
いまはニーカをはやり立てるものはなかった。奥底に隠れていた臆病がひょっこり顔を出すと、三角座りの膝に顔を埋めていた。




