140、皇帝陛下のご機嫌次第
声に呼応してどこからともなく薔薇の花びらが舞い降り散っていた。ゆらりゆらりと不自然にゆっくり落ちていく赤色はまるで幻想的で、およそ人ではなし得ないであろう力が働いているのが見て取れる。
皇帝の誕生祭に参加したことのあるクロード・バダンテール氏は彼の誕生祭をこう評した。
「劇画だよ」と。
「皆よ。今日、この場に佇む人々よ。この佳き日に参列を許されたそなた達ほど幸運な者はいないだろう。そして慈愛溢れる臣民の愛を得た余は、まさに時代の寵児である」
行商人に扮していた際とは違い男は華美だった。上質な毛皮や添毛織をふんだんに使用した外套は足元まで覆っており、手首や胸元を飾る銀細工には細かな金剛石が埋まっている。表情は強者特有の自信と傲慢さに満ちあふれている。
どうやら若い女性が泣き出したようで、泣きじゃくりながら「陛下」と繰り返している。状況から察するに、驚くべきことに感極まって泣いてしまったのだ。
周囲がさっと静まりかえるのは、皇帝のスピーチを邪魔したことに対する恐れだろうか。周りは少女に視線を集中させているが、階段で跪いている女性達のうち、数名が緊張に口元を引き締めたのは見逃さなかった。
しかしながらオルレンドル皇帝陛下は寛大だった。ゆっくりとした動作で女性のもとへ歩み寄ると、親しげに肩を抱く。
「己を誇れ。余がそなたの参列を許したのだ。この場にいる事実そのものが、余がそなたの貢献を認めている証拠である」
皇帝に直に声をかけられた女性は口元に手を当てながら涙を零す。
「大地をあまねく照らす皇帝陛下に栄光あれ」
階段上部、皇妃が最初に口にしたのを皮切りに熱は伝染した。参列者、警邏、配膳係や侍女に至るまで全員が皇帝を称え声を大にする。
彼らに倣い私やモーリッツさん、少し離れた場所にいるニーカさんも声を出していた。クロードさんから聞いていた事前情報がなければ、わずかでも躊躇いが生じていたに違いない。
離れた場所からゆっくりとした、しかし皇帝の声を遮らない程度の演奏が流れ出し、参列者に葡萄酒が注がれたグラスが渡され始める。
「皆も知っての通り、近年は帝都にとってまこと悲しい報せがあった。長らく同盟を締結していたファルクラムが災禍に見舞われたのは残念であり、余も国王の崩御には涙したものだ。確かに彼の国は争った時期もあろうが、同時によき隣人でもあった。国が喪われるとは悲しいことだ。何故なら無辜の民が明日への道に迷うからであり、余はそのことにただただ胸を痛めている」
どこかのご婦人が「なんとお優しい」と震えた声を漏らした。
「だが涙するばかりではいられまい。卑怯にもラトリアの魔の手が伸びようとした彼の国の危機に余は憂いたが、その必要がなくなったのは知っての通りだ。よき隣人は優れた選択と共に善き民へと変じた。我が皇太子の手によってだ」
なるほど確かに劇だと表現したくもなる。一つの国の崩壊も、皇帝にとっては都合の良い劇の題材なのだ。
言葉は音節毎に自己陶酔的な毒が滴っている。
彼の言葉にファルクラム動乱の真実はない。けれど隣国の事情などまるで知らない聴衆もいて、その人達にとっては皇帝の言葉こそが真実だ。
事実を語るわけもないだろうが、何が喪われたかを知っている者としてはよくぞここまで、と感じずにはいられない。
突然の紹介を受けたライナルトは参加者に向き合うようにヴィルヘルミナ皇女と並び立っている。一部の礼服から違う衣装になっていたが、それも難なく着こなしていた。
皇太子は黙して語らず、ただ一礼をもって挨拶代わりとしたが、美貌の皇太子の姿にあちこちから恍惚の溜息が漏れ出ていた。
皇帝は子らには振り返らない。ただ観衆を前に片手を広げ微笑むのである。
「二人の素晴らしき後継者を得た我が帝国にもはや敵はない。さあ、そなた達も喜び称えよ」
ライナルトの隣に佇むヴィルヘルミナ皇女はうっすらと微笑を湛えるのみだ。
給仕の素早く洗練された行動により、参列者全員にグラスが行き渡っていた。皇帝が恭しく差し出された盆から杯を受け取り、頭上に掲げてみせる。
「オルレンドル帝国万歳」
カール皇帝万歳、と斉唱して葡萄酒を飲み干した。
一気に場は騒がしくなり、前列にいた人々が我先にと皇帝へと群がっていく。
「モーリッツさん」
「わかっている」
思わず声をかけたのは、隣の人の眉が寄っていないか気になったためだ。私が言うまでもなくモーリッツさんはいつもと変わらない様子だが、内心不愉快なのは間違いない。
このことに気付いているのは何人いるだろう。熱に浮かれた人も多いけれど、皇帝の発言を精査している人はきっと少なくないだろう。
皇帝カールは公衆の面前でライナルトを皇太子と呼んだ。もちろん彼が次の皇位継承者と告げたのは間違いないが、その後すぐに「二人の後継者」なんて発言をしているのだから質が悪い。疑いすぎかと思われそうだが、皇帝カールは気まぐれで有名であり、冗談ではすまない域も平気で踏み越えてくるから笑い過ごすのは無理がある。
モーリッツさんの返事を鑑みるに私の懸念はあながち間違いではなさそうだ。
ご年配の方々が挨拶を済ませ、人々が談笑に花を咲かせる頃合いを待って私も一歩踏み出した。向かう先はもちろん皇帝カール、内心の緊張押さえつけて挨拶に向かうのはそれこそ死地に赴く気分だったのだが、ここで予想外の反応にあう。
私の名乗りもそこそこに皇帝は「ああ」と雑に頷いたのだ。
「バッヘムはよく働いてくれているな。二人ともゆるりと楽しんでいけ」
これだけである。
口上を謳う暇さえ与えられなかった。もういい、とばかりに皇帝は片手を振ると他の参列者の挨拶に耳を傾けるので、私の出番はこれで終わりなのだった。
「どういうことだ」
「私に聞かれましても」
離れた場所でモーリッツさんと首を捻り合うのだが、こればっかりはわからないとしか答えようがない。皇帝は私に見向きしたのは一瞬、話題にすらしないのである。
「……怒りを顔に出さないのは結構なことだ」
「なにがでしょう」
「普通であれば屈辱に会場を去ってもおかしくない出来事だ」
「まあ、そうでしょうねえ」
なにせ私は皇帝陛下のお名前で招待を受けたはずなので、だというのにお声の一つもかからない、それどころかまともな挨拶すら許されないというのは普通に耐え難い仕打ちだろう。事実あざ笑うような視線を浴びていたし、ここまでの経験は滅多にない。まるで勝手に浮かれやってきた見世物パンダのような心地だし、既に帰りたいなあという気持ちもあるのだが……。
「いささか引っかかったことがありまして、それどころではないと言うべきでしょうか。……あ、嘘です。ちょっと辛いので他のことを考えて気を逸らしてます」
皇帝の対応に嘲笑したのは参加客達だけど、皇帝の愛妾数名がまったく違う表情を見せたのが気にかかる。幾らかわかりにくかったが、皇女やライナルトは表情を引き締めていた。
わかりやすかった反応を示した愛妾ははっきりと私に対して同情の視線を寄越していた。挨拶されなかったことに対してではない、もっと違う……そうだ、思いだした。あれはいつだったか、コンラートでみたものだ。
恐怖という名の怯えが女性の瞳に浮かんでいた。
彼女についてモーリッツさんに尋ねてみると、その人は四番目の愛妾で皇帝の妾の中では入れ替わりをしていない古株のようである。彼女が近くにいたのは、もし皇帝が酒や食事に手を伸ばす際の毒味役とのことだった。
妾に毒味役を兼任させるのは適任とは言えないが、それが愛妾の定められた務めなのだと言われてしまえばそれまでだ。
しかし皇帝陛下にそっぽを向かれた、と見なされそうな私相手にまともに取り合ってくれる人はいるのだろうか。皇帝は「二人とも」と言ったから帰れと言われたわけではないけれど……。
「話は聞いた。災難だったわね」
「エル、姿が見えなかったけどどこにいたの」
「ちょっと呼び出しを受けて、いままでね……。さっき皇帝陛下に挨拶を済ませてきたところ」
「カレン殿、先ほどはありがとうございました」
「ニーカさんも、お疲れ様です」
魔法院の若き長老と歴戦の女軍人はそんなこと気にしないようである。
頼りになるのは愛しき友人達か。それにどこかにいっても良さそうなのに同伴者としての務めを継続してくれるモーリッツさんや、彼女達のおかげで救われた心地になれる。
「……それで、予想は合ってた?」
「ええ、一応」
無言でバチバチやりあうニーカさん達はおいといて、エルの意味深な問いかけに苦笑のまま頷いた。理由は皇帝陛下の正体について私がさほど驚かなかった理由である。あの人物を見たときは、確信の方が近かった。
クロードさんといった誕生祭二部の話を聞いたり、踊りの練習の合間に何故ファルクラムから居着いたばかりの新参者が目に留まったのか考えていた。
正直、手がかりはあまりなかった。ピンときたのはリューベックさんの発言で、彼は「私の善行に皇帝が感動した」と伝えた。まずその善行と思しき行動を洗いざらい思い返していたら、ふとあの行商人が浮かんだのだ。そういえばあの男性も「善き方、善き行い」と口にしていたと。
まさかまさかと思いながら、私を含め彼を覚えているヒルさんやハンフリーと一緒に、皇帝カールの容姿を確認した。肖像画は宮廷にしか存在しないから、顔を見たことあるエルや遊びに来ていたクロードさんに訊いてみたらまさかの容姿一致である。この時点ではあくまで容姿が一致しているだけの状態だが、本人が行商人に扮していたかもしれないとわかったときは頭が痛くなった。ハンフリーなどその場で膝をついて気絶である。
ウェイトリーさんは私が用意していた口上を全て検閲し案を練り直し、マルティナは作法関係を一から全て洗い直してきた。彼女が出かけに祈りを捧げていたのはこのせいもある。
そういった彼らのお陰で私はこの場に立っているわけだが、皆の努力を考えると、少しばかり申し訳ない気持ちになってくる。そりゃあ奇人と名高い皇帝に見向きされたかったわけではないが、まさか招待されたのに無視されて終わりました、と報告するのはなんとも言い辛いではないか。なんとも言えないこの気持ち、心に靄がかかるのは当然と言えよう。
「関わらなくてよかったと思いなさいな。本当に、わたしは心から安心してるのよ。ええと……帰ったらなにか便利なもの作ってあげるから」
エルが珍しく本気で気を遣って慰めてくれるし、ニーカさんの笑顔も心なしか優しげだ。これでよかったと思う他ないと気を取り直そうとしていると、こちらにやってきたのはヴィルヘルミナ皇女である。
供は連れていなかった。一人でやってきた彼女に皆が場を譲るのだが、皇女はモーリッツさんに向かってもそっと手を払うような仕草を行った。
「すぐ終わる、危害は加えん」
モーリッツさんも下がり、ヴィルヘルミナ皇女と一対一である。挨拶をしようとしたら遮られてしまったため途方に暮れかけた一瞬後、渡されたグラスには液体が注がれていた。中身は果実水だと言われたのである。
「葡萄酒は苦手なのだろう。それを持っておけば、もしもの場合でも他に勧められることはないから、持っておきなさい」
「ありがとうございます。私がお酒に強くないとご存知だったのですね」
「アルノーから聞いた。君のことをくれぐれもよろしく頼むと言われてしまってな」
薄く笑った皇女は以前と違って、皮肉の影が薄い。煌びやかな衣に身を包む姿は凜とした雰囲気をそのままに、柔らかないたわりを包んでいるようだ。
「兄の姿がないようですが、留守でしょうか」
「同行は私が辞退させた。君は陛下に招待を受けたゆえ出るしかなかったのだろうが、やはり、な。……バイヤールやアヒムから聞いたが、会いに来ていたのだろう?」
「おっしゃるとおりでございますが、私の間が悪かったのです」
「すまないな。せっかくの機会を逃させてしまった」
女傑然とした姿しか知らないから、皇女の謝罪には本気でびっくりしてしまった。
「とんでもない。皇女殿下とのお話を邪魔するつもりなどありませんでしたし、相手は兄なのですから会う機会はいつでもあります。謝罪など不要でございます」
「謝っておかないと収まりがつかなくてな。それに陛下の対応もだ」
はあ、と溜息を漏らす。
「おそらく虫の居所が悪いだけで大した理由はないだろう。……機嫌が良い方だともっと困るが」
……いまなんて?
「もしかしたら後日呼ばれるかもしれないが、素直に招待を受けることをお勧めするよ。決してお取り潰しなどではないから安心するといい」
「そ、そうなのですか。そういっていただけるなら、一安心です」
「だから堂々としているといい。君は立派な招待客なのだし、この場も私がこうして話しかけたことで、すぐに誤解が解ける。それに、ほら。君が蔑まれると都合が悪いのが一人いる」
その招待、もっと辞退したいのだが……。
振り返った皇女が意味深に笑いかけたのはライナルトである。視線を交差させた二人の兄妹は、なにをおもったのかは窺い知れない。




