リシア輝石
シリーズ四作目 (ラスト)です。
三作目「ブルー・ペクトライト(ラリマー)」→ https://book1.adouzi.eu.org/n3250kz/
「ごめんなさい、考えたんだけど、やっぱりお付き合いはできないです」
頭を下げた私に、柿坂くんは微かに苦さがにじむ笑顔を浮かべた。
「そっか……うん、何となく分かってたんだけどさ」
「分かってた? 私顔に出てた?」
「いや、小郷さん、おととい図書館にいたでしょ」
「え」
「ものすごく顔色悪かったから、きっとすごく悩ませちゃったんだろうなって思ってたんだ」
「う……」
気付かれてた……。ということは、こそこそ出て行ったのも見られてたのかも。うわ、すごく恥ずかしい。
「それと……小郷さんは、原田のこと好きなんだってのも分かってたし」
「……えーと」
もしかして、私ってものすごくわかりやすい人間なのかもしれない。肝心のご本人にはバレていないといいのだけど。
でも、もし本人にバレていたとしたら、「フラれたら慰めてもらおうと思った」という発言はちょっと許せないかもしれない……。
「だから、原田が他の子とくっついた今ならもしかしてチャンスあるかなー、って下心で告りました。……そんなタイミングで、ごめんね」
私の中で原田くんに対するちょっとした疑念が沸き起こったとき、柿坂くんが本当に申し訳なさそうな顔で、小さく頭を下げた。
私は慌てて、ぶんぶんと頭を振る。
「ううん、原田くんと平岸さんのことは応援してたし……、私も『分かってた』から、そっかーって感じで」
「バレバレだったもんな、あいつ……」
「うん。……それと、断っておいて申し訳ないんだけど、付き合わないかって言ってくれたのはうれしかったんだよ。……ただ、私のなかで気持ちの整理ができてなかったっていうか……」
「そっか。……残念だけど、仕方ないよな」
「……ごめんね」
謝られても困るんだろうな。
そう思いながらも、私は謝ることしかできなくて。
謝らないでよと苦笑する柿坂くんに、いい人が現れて幸せになりますようにと、願わずにいられなかった。
***
クッキーを一枚、口に運ぶ。
端っこが少し焦げていて苦い。
もう一枚手に取ってかじる。
これはちょうど良い感じ。
「ほっ、蛍さん……」
次の一枚に伸ばそうとした手は、平岸さんに掴まれて止められた。
「え、どうしたの?」
「どうしたのはこっちのセリフです! 黙々とお菓子食べ続けて……」
「平岸さんも食べる? 知り合いの小学生と作ったの」
「えっ、手作りなんですか? あとで頂きます……ってそうじゃなくて」
真剣な顔で私のおやつを阻止しようとしている彼女は、平岸美和さん。大学のゼミの一年後輩で、とてもかわいい。
そして先日の飲み会で原田くんから告白されて、めでたく付き合い始めたばかり。
その平岸さんは研究室内を見回して、近くに誰もいないことを確認してから、少し苦しそうな表情で口を開いた。
「……蛍さん、単刀直入にお聞きします」
「? はい」
「蛍さん、原田さんのこと好きだったんじゃありませんか」
「……」
抑えた声で尋ねられたその質問に、違う、と即答はできなかった。
どれだけバレバレだったんだ、私は。
その私の反応を見て、平岸さんはやっぱり……と肩を落とした。
「二人仲が良くて、ずっと羨ましいって思ってたんです。だから本当はあの時、断るべきなんじゃないかって……」
しょんぼりした平岸さんの言葉に、私は頭を振った。
「いやいやいや、それは違うでしょう」
「……私も、そう思ったんです。だから、でも、でも……」
平岸さんの大きな瞳にじわりと涙が浮かんで、私は慌ててクッキーを彼女の口の前に差し出した。平岸さんはそのクッキーにかじりついて、「うー……」と涙目のままモグモグと口を動かす。かわいい。
しかし、誤解は解かなくてはならない。このままだと、付き合い始めのキラキラ期真っ只中のはずの平岸さんが、私に負い目を感じてキラキラできないかもしれない。
「えーと、なんとも思ってなかった……とは言えないけど、でも、本当にそういうのじゃなかったんだよ。だから二人が上手くいって、本当に良かったって思ったし」
「じゃあ、どうして死んだような目をしてるんですか……」
そっかー、死んでたか、私の目。でも、それは別の理由によるものだ。
「えーと……実は私、何日か前に他の方に告白されたんだけど、ついさっきお断りしまして」
「えっ」
「それとは別に、少し前から気になってる人がいるんだけど」
「ええっ」
一回目の「え」は目を丸くさせて、二回目の「え」は瞳をキラキラさせて。表情豊かでかわいい。こういう子がモテるんだろうなあ……。そう思いながら続ける。
「――いるんだけど、でもその方には彼女がいるので、始まる前に終わりました」
「あう……」
「……そういう合わせ技で目が死んでるだけです。だからクッキーで気を紛らわせています」
そう、私は先日柿坂くんとのお付き合いを断ると決めたのだが――。
そう決めたら決めたで、今度は「どうやって断ろう」とか「どんな顔したら」とかいろいろ考えて思い悩むはめになったのだ。
無難に、お断りの常套文句である「他に好きな人がいて……」を使おうか。そう考えたとき、「好きな人」という単語とともに、ひとりの人の姿が思い浮かんだ。
それ以来、何度振り払おうとしてもその姿が頭から離れてくれない。
……私、たぶん、悠理さんのことが好きだ。
きっかけは「あなたのように優しくてきれいな色」って蛍石を渡されたときだろう。我ながらチョロい……。
それでグラッときてたのに、あの穏やかさも、優しさも……そしてついでに言うと、ちゃんとした格好をして眼鏡をかけている姿も、私の好みのど真ん中だった。
お姉さんの帆乃香さんが美人なだけあって、身なりを整えてると普通に格好良かった。
あれは反則である。
――だがしかし、悠理さんには彼女がいる。
私が恋心を自覚してしまった今、これ以上彼に近付くべきではない。
日常会話のなかで、普通に口説き文句が飛び出してくるような人だ。ただでさえ彼女さんは気が気じゃないだろうに、そのうえ彼に気がある女が近くをウロウロしているなんて、私だったら耐えられない。
だから、距離を置くと決めた。
……あの店は最寄り駅への最短ルート上にあるので、回り道をすることになるが致し方ない。
縁がなかった、ただそれだけの話。
そう割り切るしかないのだが――気がつくと平岸さんは、瞳を潤ませてフルフル震えていた。
「ごめんなさい……蛍さんに幸せになってほしいけど、略奪がんばってください! とは言えなくて……」
「あ、うん、略奪がんばってって言われたらかなり困るね」
それはがんばっちゃダメなヤツだね、たぶん。
平岸さんは「だけど、だけど」と言いながら私にしがみついてきた。
「私は蛍さん大好きですから!」
「えっ、ありがとう。私も平岸さん大好き」
「……え」
私と平岸さんの熱々空間に、第三者の声が割って入った。それは――平岸さんの恋人、原田くんだった。ちょうど今うちの研究室へ遊びに来たらしい。
私はそっと平岸さんの肩を抱き、研究室のスタッフルームの入口で「浮気現場を見てしまった」という顔をして立ち尽くす原田くんに顔を向けた。
「ごめん、原田くん。平岸さんは私が幸せにするから」
「蛍さんかっこいい……好き」
「平岸さんかわいい……好き」
「クソッ……彼女ができたなんてやっぱり儚い夢だったのか……。相手が小郷じゃあ敵わねえ……」
「ふふ、そうでしょう。もう諦めなさい」
ちょっとやけくそ気味の私に、平岸さんも原田くんもノリノリであわせてくる。原田くんは両手で顔を覆って、ワッと泣き真似をしながらその場に勢いよくしゃがみ込んだ。
――そうやって原田くんが勢いよくしゃがみ込んだので、実はそのうしろに柿坂くんが立っていたのが見えた。いつものように原田くんと一緒に来ていたらしい。
さっき二人で話をしたときに「今まで通り、クラスメイトとして、友人として付き合おう」と約束をしたので、律儀に守ってくれているのだろう。
その彼は――「ああなるほど、そっちだったのか……」という顔をしている。……ええとこれ、本気で勘違いしてる? 大丈夫? ノリであわせてるだけだよね?
一応冗談だって伝えておくべきか……いや、まあいいか。
そうやってわちゃわちゃ騒いでいると、スタッフルームの奥にある教授室のドアがガチャッと開いた。あ、先生いたんだ。
「お? なんだ、修羅場か」
「そうです。平岸さんは私のものになりました」
「蛍さんのものになりました」
「小郷にとられました」
「修羅場を見守ってます」
ぬっと顔を出した先生は、それぞれうなずいた私たちに対して、面白がっている顔で「刃傷沙汰は起こすなよ」と続けてから、教授室の中を振り返りドアを大きく開けた。
――どうやら、来客がいたらしい。
来客がいるなら、ドアプレートを「来客」表示にしてくれといつも言っているというのに。
「学生が騒がしくて申し訳ない」
「いえ、仲が良くていいですね」
ちょっと待って?
来客の、笑いをこらえたその声に……とても聞き覚えがある。
「ゆ……夏井さん?」
「ああ、やっぱり小郷さん。声がすると思った」
「えっ、私そんなに大きな声出してましたか……すみません」
「ああ、いや。そういうわけじゃないんですけど……」
距離を置くと決めたばかりだというのに、なぜこんな場所で。……さっきの平岸さんと私の会話、聞こえてないよね?
「あれ? なんだ、そこの二人は知り合いだったか」
混乱のあまりわたわたする私と、ふんわり微笑んだ悠理さんを交互に見て、先生が驚いた顔をした。
「は、はい。……えっと、先生はなにか打ち合わせだったんですか?」
私は先生に目を向けて、話の矛先をずらす。
さっき平岸さんに片想い相手がいることを話してしまったし、柿坂くんもいるしで、ここではあまり私と悠理さんの関係を問われたくない。
……そもそも、私自身よくどういう関係なのか分からないので説明しがたいというのも大きい。
河原で拾った石を売りつけてきた女児の叔父――だなんて、開始時点から謎しかないし。
「ああ。今度の学会で解説動画作れって言われてさ。プレゼン資料ならともかく、さすがに動画まではやってられんから専門家に任せることにしたんだ」
「せんもんか?」
動画の専門家? 悠理さんが?
私が首を傾げると、悠理さんが「せっかくだからどうぞ」とそこにいた全員に名刺を配った。
「僕、サイエンス系のイラストや動画制作の仕事をしてるんです」
「ああ……なんとかデザイナーって、そういう」
お店の看板の絵を描いていたのでそういう方面のデザイナーかと思っていたのだが、単純に絵が得意だから描いた(または描かされた)らしい。
悠理さんは、はい、と頷いて手に持っていた資料を見せてくれた。
「こういう論文に載せる図解とか、イベント資料とかを作る機会があったら声かけてください」
「へえ、そういう仕事があるんすね……」
「専門分野の話になると、普通のデザイン会社だと話が通じにくいからな。研究続けるならちょいちょいお世話になるぞ」
名刺を見ながらつぶやいた原田くんに、先生が答える。
私も知らなかったけど、確かに大きな舞台での論文やポスター発表の図解で、自作イラストはちょっとツラい。
AIに描いてもらうにしても、きちんとしたプロンプトを用意できない素人では細かい部分の修正が効かない。……学会ってそういうちょっとしたイラストの間違いに突っ込んでくる人、いそうだし。
こういうニッチなお仕事は意外と――といったら失礼かもしれないが――需要がありそうだ。
会社名はTriphane……トリフェーン。リシア輝石の一種だ。
……名前が石だから入社したとか言わないよね。
「では、僕はこれで失礼します。……あ、すみません情報工学科の建物って出て右でしたっけ」
「次は情報? 忙しいなあ。――で、情報工学ね。右は右なんだけど、あそこ入り口が分かりにくいんだ」
「あ!」
悠理さんと先生が話している途中で、平岸さんが突然大きな声を上げた。全員の視線が集まる。
「……蛍さん、このあいだ蛍さんが欲しいって言ってたペンが売店に再入荷してたんです。情報なら売店と同じ方向だし、案内してあげたらどうですか?」
平岸さん、悠理さんと私を見て「察した」という顔をしているなあと思っていたので、すごく嫌な予感はしていたんだけど……。
さっき、「略奪頑張ってとは言えない」って言ってたのは誰だったっけ? それとも、実は私のこと嫌い?
それに、「いい仕事した!」って顔をしているけれど、どう考えても唐突すぎて無理がある。
「ま、その方が確実だな」
それなのに先生が頷いてしまったので、もう断る雰囲気ではなくなってしまった。悠理さんもちょっと申し訳なさそうな顔をしている。
「えーと、じゃあ小郷さん、案内お願いできますか?」
「……はい」
すぐ真横にいる平岸さんにジトッとした視線を向けると、彼女はちょっとだけ舌を出してパチンとウインクをしてきた。
……うん、かわいいね。
***
「ごめんね小郷さん、案内なんてさせてしまって」
「いえ。ちょうど売店にも行きたかったですし」
クッキーの食べ過ぎで、さっぱりした飲み物が欲しかったのは本当だ。研究室に近い自動販売機はエナジードリンクとか炭酸とかばっかりなので、お茶が飲みたいときはいつも売店まで足を伸ばしている。
ペンは……まあ、本当に入荷していたら買おう。
「……そういえば、さっきすみません。お仕事の話してるときに騒いで。先生の部屋のドアプレート『不在』のままだったから誰もいないと思ってて」
私がそう謝ると、悠理さんは「ああ」と微笑んだ。
「それ、さっき言いそびれたんですけど……声が大きかったわけじゃなくて、小郷さんの声、きれいだから耳に入ってくるんですよ」
「は……?」
一瞬頭が真っ白になった。
また、この人はサラッとそういうことを……!!
「悠理さん……そういうことを言わない方がいいって、凜々花ちゃんに注意されてましたよね?」
「え?」
「もー! 無自覚!」
「ごめんなさい……?」
「分かってない! そうやって誰にでも簡単にきれいって言ったり、家に誘ったりしたらダメです!」
「……ええと……ごめんなさい。僕思ったことをそのまま言っちゃうので、よく怒られるんですよね……。でも一応、誰にでも言うわけではないんですけど……」
「そういうのですよ。なんか特別っぽい感じで勘違いさせるようなことを言うの。……そういうの、彼女さんがかわいそうです」
う、言ってて悲しくなってくる……。そう、どれだけドキッとしても、この人には彼女がいるんだから。
しかし悠理さんの次の言葉に、私は自分の耳を疑った。
「あの……、僕、彼女いないです」
「……は?」
「さすがの僕でも、特定の相手がいたら室内で女性と二人きりになるのは避けますよ」
「え、でも……『フラれたわけじゃない』って言ってませんでした?」
「? ……いつでしょうか」
「えっと、凜々花ちゃんに『石に夢中すぎてフラれた』みたいなことを言われたときに……」
「……ああー、あれか」
はじめは首を傾げていた悠理さんはそこでやっと思い出したらしく、苦笑いを浮かべた。
「あれは、そもそも彼女じゃないんです。――過去に仕事をした客先の方に妙に気に入られてしまって、付きまとわれまして」
「えっ」
「お付き合いはできませんとメールで断ったら、逆上されて会社まで押しかけられて、ちょっとした騒ぎになったんですよ」
「えええ……」
かなり淡々と喋っているが、それは完全なストーカーである。しかもかなり厄介なタイプの。
「それでその方が暴れたとき、会社のロビーに飾ってあった大きいトリフェーン原石のケースが倒されて」
「あっ、高級品……」
「はい。僕がそっちの心配をしたことでさらに逆上した――という顛末を、姉がネタにしてるのをリリが聞いて、変なふうに覚えたんです……」
思ってたのと違う方向に、しかも深刻具合三倍増しぐらいで大変な話だった。そんな経験をしていたら女性不信になりそうだ。
そしてそれをネタにする姉……。
あの日私に対して「こんなに親切な女性が――」と驚いたのも無理はないかもしれない。
……それにしてもこの人、周囲の女性に恵まれなさ過ぎでは。
「住んでた部屋は知られちゃってるので、一応引っ越した方がいいかなーって思ってた時に、ちょうど姉が店を出すってことで実家ごと引っ越すって話が出てたので、僕も一緒に引っ越してきたんですよ。……警察にも入ってもらって、もう近付かないって話はついてるんですけど、念のため」
なるほど、そういう事情もあってあのやつれ具合か。
「それは……大変でしたね……」
「はは……というわけで、彼女はいません」
「……なんかすみません、そんな話させてしまって」
「いえ。小郷さんの誤解が解けたならいいんです」
悠理さんは私の一歩前に出て足を止め、とてもいい笑顔を浮かべた。
「――僕は本当に小郷さんがきれいだと思ったからきれいだと言いましたし、小郷さんの声が好きだから、大きな声じゃなくても耳が拾うんです」
「それは……」
「彼女がいないなら、言ってもいいですよね?」
「かっ、勘違いを――」
「勘違いさせるようなことを言ってるつもりもありません。小郷さんにしか言いませんし。……小郷さんが嫌なら、やめますけど」
ちょっとだけ真剣な顔。
うう、好みすぎる。反則。
「えっと……嫌……とかじゃなくて……私、そういうこと言われるの慣れてなくて……」
しどろもどろになってなんとか言葉をひねり出した私に、悠理さんはホッとしたように息を吐いて、「なんだ、そんなこと」と笑った。
「なら、慣れるまで何度も言いますよ。毎日でも」
「ま」
「とりあえず、連絡先を聞いてもいいですか?」
そうだ、そもそも私たちはお互いの連絡先すら知らない。
なのに――たぶんもう、私は完全に彼のペースに巻き込まれてしまっている。
「……はい」
当時のことを振り返り、平岸美和は語る――。
「これはいける! って思いました!」と。




