第74話 万能の釜と神のパッチノート
仮想対話空間『静寂の間』。
不老化処置という、人類史を根底から覆す「宿題」を突きつけられ、その衝撃と興奮、そして恐怖がない交ぜになった議論が、一通り落ち着きを見せた頃だった。
G7の指導者たちは、提示された「寿命制限付き不老化(150歳定年制)」という、あまりにも現実的で、かつ世知辛い妥協案を、苦渋の表情で飲み込んだばかりだった。
永遠の命は手に入らない。だが、若く長く生きることはできる。
それはそれで、人類にとっては巨大すぎる福音だ。
その時、ふとフランスのデュボワ大統領が、あることに思い至ったように手を挙げた。
彼は自国の少子化問題と、晩婚化による不妊治療の助成金問題に、長年頭を悩ませてきた政治家だった。
「……あの、介入者様。一つ、技術的な確認をさせていただいてもよろしいでしょうか」
介入者は、優雅に頷いた。
『なんだね、ミシェル』
「先ほど、この不老化処置キット……ナノマシンと遺伝子治療の併用について説明がありましたが。……これは細胞を若返らせ、テロメアを修復する技術とお聞きしました」
デュボワは、慎重に言葉を選びながら問いかけた。
「……ということはです。……女性の卵巣機能や、男性の生殖機能といったものも……その、若返るのでしょうか? つまり、加齢によって子供を望めなくなった夫婦に、再びその機会を与えることは……?」
その問いに、他の指導者たちもハッとした。
寿命が延びても、子供が産めなければ社会はいずれ先細りする。人口構造の維持という観点からも、これは極めて重要な質問だった。
介入者は、こともなげに即答した。
『ああ、出来るよ』
「……で、出来る?」
『もちろんさ。生殖機能の低下は、生物学的な老化現象の一つに過ぎない。ナノマシンは、臓器の細胞レベルでの修復と活性化を行うからね。閉経後の女性であっても、ホルモンバランスを再構築し、卵母細胞の質をリセットすることは造作もないことだ。……理論上は、百歳を超えても妊娠・出産は可能になる』
「―――おお……!!!」
デュボワが感嘆の声を漏らした。
「す、素晴らしい……! それは……それは世界中の悩めるカップルにとって、どれほどの希望となるか……! 少子化対策の切り札どころの話ではありません!」
だが、その驚きは、さらなる「気づき」への入り口に過ぎなかった。
隣で話を聞いていたドイツのシュミット首相が、科学者としての鋭い直感で、その技術の本質に迫る問いを投げかけた。
「……お待ちください、介入者様。……細胞レベルでの修復と活性化と仰いましたね?」
シュミットの瞳が、鋭く光った。
「……もし老化による機能低下を『修復』できるのであれば……。……例えば事故による外傷……切断された神経や粉砕された骨などは? ……それも治るのですか?」
介入者は、やはり平然と頷いた。
『治るね』
「……なっ……!?」
シュミットが息を呑む。
「で、では……! ウイルス性の疾患は? ……癌細胞は? ……アルツハイマーのような脳の変性疾患は!? ……それらはどうなのですか!?」
介入者は、少し不思議そうに首を傾げた。
『アンゲラ。……君はパソコンがウイルスに感染したり、データが破損したりした時、どうする?』
「……え? ……アンチウイルスソフトで駆除するか、バックアップからデータを復元します」
『そうだろう?』
介入者は掌の上に、キラキラと輝く銀色の粉――ナノマシンの幻影――を浮かび上がらせた。
『このナノマシンは、君たちの体の『設計図(DNA)』というバックアップデータを持っている。……もし体に異常があれば、それが癌であれ、ウイルスであれ、あるいは物理的な欠損であれ……。ナノマシンはそれを『エラー』として検知し、設計図通りに『復元』するだけだ』
彼は淡々と言い放った。
『――つまり治るよ。……怪我も病も。……寿命というシステム上の限界以外は、全てね』
ドォォォォン……!
その一言は、不老化の宣言以上の衝撃を持って会議室を揺るがした。
トンプソン大統領が、口をパクパクさせながら立ち上がった。
「ぜ、全部……!? 全部治る……!? ガンも!? 心臓病も!? エイズも!?」
『ああ。……銀河標準医療においては、それらはもはや『病気』というカテゴリーですらない。……ただの『メンテナンス不良』だ』
「―――すげええええええええええええっっっ!!!!」
トンプソンが絶叫した。
アメリカという国にとって医療費問題は、国家財政を圧迫する最大の頭痛の種であり、国民の最大の関心事だ。それがこのナノマシン一つで根底から消滅する?
「マジですか!? ナノマシン凄すぎだろ!!!! これがあれば病院なんていらないじゃないですか! 医者も薬もいらない! 国民皆保険制度の議論なんて過去の遺物だ!」
日本の郷田総理も、震える手で膝を叩いた。
「……医療費40兆円が……浮く……? いや、それどころか病気による労働力の損失がゼロになる……? ……これは国家予算が倍増するに等しい効果だぞ……!」
イギリスの首相も、イタリアの首相も、皆一様に狂喜乱舞した。
不老化による年金問題など、この「万能医療」の恩恵の前では些細な問題に思えた。
病まない社会。
傷つかない肉体。
それは人類がエデンの園を追放されて以来、求め続けてきた「無病息災」の究極の形だった。
「介入者様!」
トンプソンが机に身を乗り出して懇願した。
「すぐに! すぐにその『万能治療モード』を解禁してください! 不老化の導入には時間がかかりますが、病気の治療なら誰も反対しません! 今すぐにでも……!」
もはや彼らの目には、欲望の炎しか映っていなかった。
この奇跡を手に入れれば、自分は歴史上最も偉大な指導者として名を残せる。
選挙は圧勝だ。支持率は100%だ。
神よ、早くその魔法の杖を振るってくれ!
だが。
その熱狂の頂点で。
介入者はふっと、冷ややかな笑みを浮かべた。
それは、欲張る子供に対し教育的指導を行う教師の、絶対的な拒絶の笑みだった。
『――ダメだよ』
その一言で、会議室の温度が氷点下まで下がった。
「……え?」
トンプソンの笑顔が凍りついた。
「……ダ、ダメ……とは?」
『言っただろう?』
介入者は、つまらなそうに頬杖をついた。
『……このナノマシンは、あくまで『不老化処置』のためのものだ。……だから、それ以外の機能は全て私がロック(制限)をかける』
「……はぁ!?」
デュボワが叫んだ。
「な、なぜですか!? 機能があるのに使わないなんて! 目の前に苦しんでいる病人がいるのに、薬があるのに与えないと言うのですか!? それは……それはあまりにも非人道的だ!」
『人道的ねぇ』
介入者は冷笑した。
『……ミシェル。……君たちは勘違いしているようだが。……私は君たちを『甘やかす』ためにここにいるわけじゃない。……君たちを『進化させる』ためにいるんだ』
彼は指を一本立てた。
『いいかい? もし今、私がこのナノマシンの全機能を開放したらどうなる? ……君たちはもう二度と医学を研究しなくなるだろう。……新しい薬を開発する努力もしなくなる。……怪我をしても病気になっても、「神様のナノマシンが治してくれるからいいや」と思考停止に陥る』
彼はG7の指導者たちを、鋭く見据えた。
『――それは進化ではない。……『飼育』だ』
その言葉は、指導者たちの胸に深く突き刺さった。
飼育。
家畜。
全能の飼い主に守られ、餌を与えられ、ただ生かされているだけの存在。
『君たちは先日、サイボーグ技術を与えられた。……自らの体を機械に置き換え、限界を超える道を選んだはずだ。……だが、このナノマシンで生身の体が完璧に治るなら、誰もわざわざ痛い思いをして体を機械に変えようとはしないだろう?』
介入者は、論理の矛盾を突いた。
『……それでは技術の系統樹が死んでしまう。……君たちがせっかく歩み始めた「機械化への道」が閉ざされてしまうんだ』
「し、しかし……!」
シュミットが食い下がった。
「……だからと言って、治せる病を放置しろと言うのですか? ……それは科学の否定です!」
『違うね。……それは科学への挑戦だ』
介入者は断言した。
『……全部ナノマシンで治したら、君たちは進歩しない。……だから制限する。……君たち自身の手で病を克服する努力を、続けさせるためにね』
彼は、空中に浮かぶナノマシンの光を、手で握り潰すような仕草をした。
『……ただし。……最初の話にあった「不妊治療」。……これに関しては特別に許可しよう』
「……え?」
『少子化は文明の存続に関わる構造的な問題だからね。……それに、新しい命が生まれなければ進化の可能性そのものが閉ざされてしまう。……だから、生殖機能の修復と維持に関しては、ナノマシンのリミッターを解除して提供する』
介入者は、慈悲深い表情で言った。
『……子供は未来だ。……未来を生み出すための手助けは惜しまないよ』
だが、その表情はすぐに厳格なものに戻った。
『……だがそれ以外はダメだ。……癌も心臓病も怪我も。……それは君たち自身が、これまでに培ってきた医学と、新しく手に入れたサイボーグ技術、そしてロシアからもたらされるかもしれない環境技術などを組み合わせて、自力でなんとかしなさい』
「……そ、そんな……」
トンプソンが、がっくりと肩を落とした。
目の前に万能の釜があるのに。
蓋を開けることを神が許さない。
これほどの焦らしプレイがあるだろうか。
『……それにね』
介入者は最後に付け加えた。
『……苦しみがあるからこそ、君たちは必死になるんだよ。……「死」や「病」という理不尽な敵がいるからこそ、人類は団結し、知恵を絞り、科学を発展させてきたんだろう? ……その最大のモチベーションを、私が奪うわけにはいかない』
彼はニヤリと笑った。
『……頑張りたまえ、人類諸君。……君たちが自力で全ての病を克服した時。……その時初めて私は、「よくやった」と褒めてあげよう』
その言葉を残して、介入者の姿は薄れていった。
残されたのは、究極の希望(万能治療)を見せつけられ、そして即座に取り上げられた、絶望と欲求不満に満ちた王たちの姿だけだった。
「……くそっ……! 生殺しだ……!」
マティス国防長官(今日はオブザーバー参加していた)が机を叩いた。
「……怪我も一瞬で治るなら、無敵の兵士が作れたのに……! なんで不妊治療だけなんだよ!」
「……文句を言っても始まりません」
的場大臣が静かに言った。
「……介入者様の仰る通りです。……我々は楽をしようとしすぎていた。……神の力に依存し、自ら考えることを放棄しようとしていた」
的場は、CISTの科学者としての矜持を取り戻すように顔を上げた。
「……不妊治療だけでも御の字です。……これで人口減少という最大の危機は回避できる。……残りの病気や怪我は、我々CISTが、そして世界の医学界が、意地でも治してみせましょう。……ナノマシンに頼らずとも、サイボーグ技術や新薬開発で!」
その言葉に、他の指導者たちも少しずつ気力を取り戻していった。
そうだ。
我々は施しを受けるだけの乞食ではない。
神に「進歩しない」と馬鹿にされたままでは、人類のプライドが許さない。
「……やってやろうじゃないか」
トンプソンが闘志を燃やした。
「……見ていろ、介入者め。……いつか必ず、お前のナノマシンなんぞ時代遅れだと言わせてやるくらいの医療技術を、我々の手で完成させてやる!」
G7の会議室は再び熱気を帯び始めた。
それは、与えられた幸福に安住する熱気ではなく、困難な壁に挑もうとする挑戦者たちの熱気だった。
――――――――――
月面の観測ステーション。
コントロールルームに戻った巧は、地球の反応を見ながら安堵のため息をついていた。
「……ふぅ。……危なかった。……あいつら放っておくと、すぐに楽しようとするからな」
『マスター。……ナノマシンの機能制限パッチ(修正プログラム)適用完了しました』
イヴが報告する。
『……生殖機能修復モジュールのみアクティブ化。……細胞修復、免疫増強、神経再生などのモジュールは、緊急時(マスターの承認があった場合)を除きロックされました』
「……了解。……これでいい」
巧はコーヒーを啜った。
「……なんでもかんでも神様が治してやったら、人間はダメになる。……子供の宿題を全部親がやってやるようなもんだ。……それは愛じゃない。スポイル(甘やかし)だ」
彼は、かつての自分を思い出した。
もし自分が生きていた頃に、この万能ナノマシンがあったらどうしていただろう。
きっと、どんなに過酷な労働でも「ナノマシンがあるから大丈夫」と、さらに自分を追い込み、考えなしに働き続けていただろう。
痛みや病気は、体からの警告だ。
「無理をするな」「生き方を変えろ」という、大切なメッセージだ。
それを消してしまうことは、必ずしも幸せとは限らない。
『……でもマスター』
イヴが少しだけ意地悪そうに聞いた。
『……もしマスターご自身が病気になったら? ……それでもナノマシンを使わずに我慢しますか?』
「……う」
巧は言葉に詰まった。
「……そ、それは……。……俺はほら、管理者特権というか……福利厚生の一部として……」
『ふふふ。……冗談ですわ』
イヴは微笑んだ。
『……マスターはもう病気にはなりませんよ。……その擬体は最高級のスペックですから』
「……そうだったな」
巧は自分の手を見つめた。
病まない体。老いない体。
それを手に入れた自分は、果たして本当に幸せなのだろうか。
その答えはまだ出ない。
「……さて」
巧は気持ちを切り替えた。
「……不妊治療の解禁で、地球の人口動態は大きく変わるぞ。……ベビーブームが来る。……教育、食糧、住居。……新たな問題が山積みだ」
彼はスクリーン上の地球を見つめた。
「……忙しくなるぞ、人類。……産めよ、増やせよ、地に満てよ、か。……聖書の通りになってきたな」
神の代理人は次なる展開に備え、新たな脚本の構想を練り始めた。
制限された奇跡。
それがもたらすのは、不満か、それとも新たな創意工夫か。
人類という名の子供たちは、神が与えた「お預け」をバネに、どこまで高く飛べるのだろうか。
月面からの視線は、厳しくも温かく、その成長を見守り続けていた。




