第73話 時間という名の猛毒と王たちの憂鬱
月面の観測ステーション『ヘブンズ・ドア』。
あの嵐のような女性エイリアン、エリザ・V・スターリングが去った後のコントロールルームには、再び静寂が戻っていた。だが、その空気は以前のような穏やかなものではない。相馬巧の手元には、彼女が置いていった二つの「爆弾」のデータが残されていたからだ。
『不老化処置キット』と『歴史観察型タイムマシン』。
どちらも人類の歴史を根底からひっくり返す劇薬だ。特に前者は、使い方を間違えれば、人類という種そのものを、生物学的にも社会学的にも窒息させかねない。
「……はあ。……福利厚生って言われてもなぁ」
巧は深いため息をついた。
不老不死。それは権力者たちが有史以来、血眼になって追い求めてきた究極の夢だ。秦の始皇帝も歴代の王たちも、そのために国を傾け、あてのない旅に部下を送り出した。
それが今、自分の手の中にある。しかも「銀河では標準的な技術だからタダで配っている」という、安売りセールのような気軽さで。
「イヴ。……シミュレーションの結果はどうだ? この『不老化キット』を今の地球にそのまま導入した場合の未来予測は」
巧の問いに、傍らに控えるAIイヴが冷徹な声で答えた。
『破滅的です、マスター。……導入後最初の50年は、空前の繁栄と幸福感が世界を覆います。ですが、その後は急速な社会の硬直化が始まります』
イヴがスクリーンに映し出したのは、絶望的な未来図だった。
『死なない人間たちが、社会の主要なポストを永遠に独占し続けます。企業のトップも政治家も大学の教授も、誰も引退しません。……新たな世代は永遠に「下積み」を強いられ、出世の道を閉ざされます。若者の絶望はピークに達し、少子化は極限まで加速。……そして変化を拒む長寿者たちによって文化も科学も停滞し、文明は静かに、しかし確実に腐敗していきます』
「……『澱んだ水は腐る』ってやつだな」
巧は苦い顔をした。
「人間社会ってのは、古い世代が死んで、新しい世代に入れ替わることで新陳代謝をしてきたんだ。……そのサイクルを止めるってことは、社会の死を意味する」
『はい。……銀河コミュニティのように、個人の寿命が社会システムと完全に切り離された成熟した文明ならば問題ありませんが……。現在の地球の社会構造、年金制度、倫理観では、この技術を受け入れる器がありません』
「だよなぁ……」
巧は頭を抱えた。
だが、この技術を完全に隠し通すことも難しい。中国には既に『太歳』から、不老不死(に近い肉体強化)がもたらされている。G7だけが指をくわえて老いていく未来は、パワーバランス的にもよろしくない。
「……やるしかないか。……『相談』を」
巧は決意した。
これは神が一方的に与えるものではない。人間たち自身に突きつけるのだ。
「お前たちは死なない覚悟があるのか?」と。
「イヴ。……G7の首脳陣を招集してくれ。……緊急会議だ」
――――――――――
【仮想対話空間 "静寂の間"】
数時間後。
漆黒の空間に浮かぶ円卓を囲んで、西側世界の七人の指導者たちが再び顔を揃えていた。
彼らの表情には緊張と、そして隠しきれない期待の色が混じっていた。緊急招集ということは、また新たな技術供与の話に違いない。前回の『エネルギーシールド』や『サイボーグ化技術』のように、自国を富ませる新たな切り札が提示されるのではないか。そんな下心が、彼らの瞳の奥に見え隠れしていた。
定刻。
光の粒子が集まり、介入者が姿を現した。
だが今日の介入者は、いつものような余裕のある微笑みを浮かべてはいなかった。その表情は硬く、どこか困惑しているようでさえあった。
『――やあ諸君。……急に呼び立ててすまないね』
「いいえ介入者様! あなた様のお呼び出しとあらば、万難を排して参じますとも!」
アメリカのトンプソン大統領が、揉み手をするような勢いで応じた。
「して本日はどのようなお話で? ……まさかついにあの『物質創成技術』の解禁ですかな?」
その浅ましいほどの期待に、介入者は軽く首を横に振った。
『いや違う。……今日はもっと根本的な……生命そのものに関する話だ』
彼は少し言い淀むような素振りを見せた後、意を決したように切り出した。
『……実はね。……君たちにはまだ少し早いとは思うんだが、そろそろ話だけはしておこうかと思ってね。……『不老化処置』についてなんだが』
その単語が発せられた瞬間。
会議室の空気がピタリと止まった。誰もが自分の耳を疑った。
「……ふ、不老化……処置……?」
フランスのデュボワ大統領が、呆けたように繰り返した。
「……それは……文字通り、歳を取らなくなる……ということですか?」
『ああ。名前のごとく、肉体の老化プロセスを完全に停止させる処置だ』
介入者は淡々と説明した。
『ナノマシンによる細胞修復と、遺伝子レベルでのテロメア維持を行う。……地球時間で100年ごとにメンテナンスが必要だが、それを続ければ病気や事故に遭わない限り、半永久的に若々しい肉体を維持できる』
ドォォォォン……!
目に見えない衝撃波が、指導者たちの脳髄を直撃した。
不老不死。人類の悲願。権力者たちが、その全ての財産を投げ打ってでも欲した究極の果実。
『まあ銀河標準の技術だから、向こうでは珍しくもなんともないんだがね。……風邪薬くらいの感覚で普及しているものだよ』
「いいやいやいやいや!!!」
トンプソンが椅子から転げ落ちんばかりの勢いで、身を乗り出した。
「凄いです! 凄すぎますよ介入者様! 不老化! 素晴らしい! なんという……なんという福音だ!」
ドイツのシュミット首相も、その冷静な仮面をかなぐり捨てていた。
「……信じられない……。死の克服……。人類はついに、生物としての限界を超えるのですか……!」
日本の郷田総理に至っては、拝むように手を合わせていた。
「……ありがたや……。これで少子高齢化問題も年金問題も、全て解決するかもしれん……!」
部屋中が、歓喜と興奮の坩堝と化した。
誰もが、自分が永遠の命を得て、未来永劫この権力の座に留まり続ける輝かしい未来を夢想した。
だが。
その熱狂を、介入者の冷ややかな声が遮った。
『――でもさ』
彼は、冷めたコーヒーを眺めるような目で、指導者たちを見回した。
『……君たちの社会構造で、これ導入するの無理だろ?』
ピシャリ。
冷水を浴びせられたように、会議室が静まり返った。
「……え?」
トンプソンが笑顔のまま固まった。
「……む、無理……とは?」
『考えてもみたまえ』
介入者は諭すように言った。
『人が死ななくなる。老いなくなる。……それは素晴らしいことだ。だが、今の君たちの社会は「人が老いて死に、新しい世代が取って代わる」というサイクルを前提に作られているはずだ』
彼は指を折って数え上げた。
『年金制度はどうする? 永遠に生きる老人たちに、永遠に金を払い続けるのか? 財源はどこから来る?』
『企業のポストはどうする? 社長も部長も誰も辞めない。若者はいつまで経っても平社員のままだ。彼らのモチベーションは?』
『そして政治だ。……君たち永遠にその椅子に座り続けるつもりかい? 新しい思想を持った若者が政治に参加する機会を、永遠に奪うことになるぞ?』
介入者の指摘は、鋭利な刃物のように、彼らの浮かれた脳みそを切り刻んだ。
『……人口爆発も起きるだろう。食糧は? エネルギーは? 居住スペースは? ……中国の地龍脈やロシアのエネルギーがあっても、倍々ゲームで増え続ける人口を支えきれるかな?』
指導者たちの顔から血の気が引いていく。
彼らは想像した。
死なない老人たちが溢れかえり、若者たちが希望を失って暴動を起こし、食料を求めて共食いを始める地獄絵図を。
それはユートピアではない。永遠に終わらないディストピアだ。
「……あー……」
トンプソンがガクリと項垂れた。
「……無理……ですね……」
シュミットも青ざめた顔で首を振った。
「……現在の社会システムでは対応不可能です。……導入すれば、十年以内に経済と秩序が崩壊します」
郷田は深いため息をついた。
「……夢の技術だと思ったが……。過ぎたるは及ばざるが如しか……」
部屋の空気は一転して、葬式のような重苦しさに包まれた。
目の前に究極の宝がある。
だが、それに手を伸ばせば自らが破滅する。
これほどの生殺しがあるだろうか。
その沈鬱な空気を見計らって、介入者が助け舟を出した。
『……まあ、そう落ち込むなよ』
彼は苦笑混じりに言った。
『私も君たちに、社会を崩壊させろと言っているわけじゃない。……ただこの技術は存在する。そして、いずれは君たちも向き合わなければならない課題だ』
彼はポンと手を打った。
『……そこでだ。G7の面子を保ちつつ、社会崩壊も防ぐ折衷案なんだが。……この技術を"超劣化"させて導入したらどうかな?』
「……超劣化ですか?」
CISTの的場大臣が顔を上げた。
『ああ。本来の仕様である「永遠の若さ」ではなく、出力を極限まで絞って制限をかけるんだ。……例えば、老化のスピードを今の十分の一にするとか。あるいは寿命の上限を設定するとか』
介入者は提案した。
『それなら、いきなり「死なない社会」にはならない。……あくまで「長寿社会」の延長線上で、ソフトランディングできるかもしれない。……どう思う?』
その提案に、指導者たちは顔を見合わせた。
完全な不老不死ではない。
だが、それでも「今より長く若く生きられる」という恩恵は計り知れない。
「……それなら……」
イギリスの首相が慎重に口を開いた。
「……時間をかけて社会制度を改革していく猶予が生まれますな。……悪くない」
「ですが」
と、フランスのデュボワが眉をひそめた。
「……誰がその『制限』を決めるのです? ……政治家である我々だけが裏で完全な不老不死の処置を受け、国民には劣化版を配る……なんてことがバレたら、ギロチン行きですよ?」
『その通りだ』
介入者は頷いた。
『……政治家だけ特権階級というのは一番まずい。……あくまで公平に、国民全体が納得できるルールを作らなければならない』
彼は円卓の上のホログラムを消した。
『……これは技術の問題じゃない。……政治と哲学の問題だ。……人間はどれくらい生きるのが幸せなのか。……社会はどうあるべきなのか』
介入者は立ち上がった。
『……うむ。やはり今ここで結論を出せる話じゃなさそうだね。……各政府、持ち帰って広く相談してみてよ。……倫理委員会、経済学者、社会学者……あらゆる知恵を総動員してね』
彼はニヤリと笑った。
『……じゃあこれを次回の定例会までの「宿題」ということで。……ヨロシクね』
その軽薄な、しかし絶対的な重みを持つ言葉を残して。
介入者は光の中に消えていった。
残されたG7の指導者たちは、しばらくの間誰も口を開けなかった。
重力制御、サイボーグ化。
それらに続く第三の衝撃。
不老不死というパンドラの箱が、今彼らの目の前に置かれたのだ。
――――――――――
【東京・首相官邸 地下危機管理センター】
会談を終え現実世界に戻った郷田総理と的場大臣は、すぐさま極秘の対策会議を開いていた。
集められたのは、厚労省、財務省のトップ官僚たちとCISTの専門家たち。
彼らは介入者からもたらされた技術データを前に、頭を抱えていた。
「……次は不老化ですか……」
厚労大臣が呻くように言った。
「……重力制御の実用化で手一杯だというのに……。……勘弁してほしいですな……」
的場はホワイトボードに書き込まれたシミュレーション結果を指差した。
「……嘆いていても始まりません。……介入者様はこれを『宿題』と言われました。……答えを出さなければ、次の段階には進めないと
いうことです」
彼は議論の口火を切った。
「……介入者様の提案にあった『劣化版』の導入。……具体的にどの程度の寿命設定なら、社会は耐えられるでしょうか?」
財務省の官僚が、電卓を叩きながら発言した。
「……現状の年金制度を前提とするなら、平均寿命が100歳を超えた時点で破綻します。……ですがこの技術を使えば、健康寿命……つまり『働ける期間』も延びるわけですよね?」
「はい。肉体年齢を若く保つのですから、80歳でも90歳でも現役バリバリで働けます」
「……ならば」
官僚は冷徹な計算結果を提示した。
「……寿命を200歳程度に設定するのはどうでしょう? ……そして定年退職の年齢を150歳まで引き上げるのです」
「……150歳まで働く……!?」
厚労大臣が絶句した。
「……死ぬまで働けと言うのか……」
「いえ、死ぬまでではありません。残り50年は遊んで暮らせます」
官僚は淡々と言った。
「……現在の人生設計が『20年学び、40年働き、20年老後』だとすれば、それを倍に引き伸ばすのです。『40年学び、80年働き、40年老後』。……これなら、労働人口と被扶養者のバランスは維持できます」
郷田総理が腕を組んで唸った。
「……理屈は通るな。……だが国民が納得するか? 『不老不死になれる技術があるのに、国がお前たちの寿命を200歳に制限する。そして150歳まで働け』と言われて」
「……反発は必至でしょう」
的場が言った。
「……特に今の高齢者層は。『ワシらはもう十分働いた。さっさと若返らせて年金で遊ばせろ』と言うに決まっています」
「……それを認めたら国が滅びる!」
財務官僚が叫んだ。
「……年金受給者が若返って、あと100年も生き続けたら財政は即死です! ……この技術を導入する絶対条件は『不老化処置を受けた者は年金受給権を放棄する』、あるいは『受給開始年齢を大幅に繰り下げる』ことに同意させることです!」
会議は紛糾した。
「年金カット」という言葉が出ただけで、政治家たちの顔色は悪くなる。それは選挙での敗北を意味する禁句だからだ。
「……いや待てよ」
郷田が何かを思いついたように顔を上げた。
「……年金を『制限』するから反発が出るのだ。……発想を変えよう」
彼はホワイトボードの数字を指差した。
「……不老化すれば、病気にならなくなる。……つまり医療費が激減するはずだ。……今の国家予算を圧迫している最大の要因は高齢者の医療費だ。……それがゼロに近づくなら、その浮いた金を年金や、あるいはベーシックインカムに回せるのではないか?」
「……あ」
官僚たちが顔を見合わせた。
「……確かに。……医療費削減効果は数百兆円規模になります……」
「それに」
郷田はニヤリと笑った。
「……長く働けるということは、それだけ長く納税してくれるということだ。……熟練の技術者がボケることなく100年も技術を磨き続けたら、その生産性は計り知れないものになるぞ」
彼は新しい社会像を語り始めた。
「……『一億総活躍』どころではない。『一億総現役』社会だ。……若者には長い下積み期間を与える代わりに、教育と成長の機会を十分に保障する。……老人には若返りと引き換えに、社会への貢献を義務付ける。……『働かざる者食うべからず』ならぬ『若返りたき者働くべし』だ」
的場はそのビジョンに戦慄しつつも、可能性を感じていた。
「……なるほど。……寿命を延ばすのではなく『青春』を延ばすのだと。……そう定義すれば、国民の理解も得やすいかもしれません」
「だが問題は『制限』の技術的な担保だ」
郷田は的場を見た。
「……的場君。介入者様から頂いたナノマシンは、本当にこちらの意図通りに制御できるのかね? ……闇医者がリミッターを解除して、完全な不老不死を売り捌いたりせんか?」
「……そこはCISTが管理するマスターサーバーで一元管理します」
的場は答えた。
「……ナノマシンは定期的な認証コードを受信しなければ機能を停止し、体外へ排出されるようにプログラムします。……認証は国の厳格な管理下で行う。……これで違法な改造は防げます」
「……管理社会の極みだな」
郷田は苦笑した。
「……命の蛇口を国が握るわけか。……独裁国家と紙一重だぞ」
「……ですがそれしかありません」
的場は断言した。
「……無秩序な不老不死は人類を滅ぼします。……我々はこの劇薬をコントロールしなければならないのです」
議論は深夜まで続いた。
最終的にまとまった「宿題」の答案の骨子は、以下のようなものだった。
寿命の上限設定:当面は、生物学的な寿命の上限を150歳程度に設定する。(いきなり200歳は長すぎるため、段階的に引き上げる)
労働義務の延長:不老化処置を受けた者は、120歳までの労働または社会奉仕活動を義務付ける。
年金制度の改革:従来の年齢基準の年金は廃止。代わりに、生涯現役を前提とした新たな社会保障システムへと移行する。医療費削減分を原資とする。
子供を持つ権利の調整:人口爆発を防ぐため、不老化処置を受けている期間は生殖能力を一時的に制限(ナノマシンで制御)する等の議論を開始する。
「……これをG7に持ち帰り、各国と調整する」
郷田は疲労困憊の体で立ち上がった。
「……アメリカやヨーロッパがこの『管理された寿命』に納得するかどうかは分からん。……あちらは個人の自由を何よりも尊重するからな」
「……ですが、これ以外の解はないでしょう」
的場も立ち上がった。
「……完全な自由(不老不死)は完全な破滅です。……自由には責任(寿命の制限)が伴う。……それを人類が受け入れられるかどうか」
数日後。
G7の実務者協議において、日本案をベースとした『長寿社会移行プロトコル(案)』が提出された。
予想通り激しい議論が巻き起こった。
「国が個人の寿命を決めるのか!」「産む権利の侵害だ!」
だが、誰も「完全な不老不死」を導入した後の地獄絵図に対する対案を出せなかった。
結局彼らは「暫定的な措置」として、この日本案を受け入れざるを得なかった。
世界はまた一つ、大きな一歩を踏み出した。
いや、踏み外したのかもしれない。
死という絶対的な逃げ場を失い、鋼鉄の肉体と管理された長い長い時間を生きる時代。
『大休暇時代』の次は『大長寿時代』。
それは終わらない青春か。
それとも、終わらない労働の日々か。
――――――――――
月面の観測ステーションでその報告を受けた相馬巧は、複雑な表情でコーヒーを啜った。
「……150歳まで働けか。……俺が生きてた頃のブラック企業よりタチが悪いな」
『ですがマスター。彼らは破滅を回避しました』
イヴが淡々と言う。
『労働の定義も変わっていくでしょう。……長い時間をかけて、彼らは「生きる意味」を再定義していくはずです』
「……そうだな。……ま、死なないってことは、何度でもやり直せるってことだ。……気長に見守るさ」
巧はスクリーンの中の、まだ見ぬ未来に思いを馳せた。
人類は、神から与えられた「時間」という最大の資源を、果たして幸福のために使えるのだろうか。
神の代理人の宿題は、まだまだ終わりそうになかった。




