第72話 銀河の商人とお節介な福利厚生
月面の観測ステーション『ヘブンズ・ドア』に、唐突にチャイムが鳴り響いた。
それは緊急事態を告げる警報音ではない。まるで日本のどこにでもある一般家庭の玄関チャイムのような、間抜けなほど平和的な「ピンポーン」という電子音だった。
コントロールルームの椅子で、地球のニュース(G7諸国で始まった『宇宙資源開発ブーム』の特集番組だ)を眺めながらコーヒーを啜っていた相馬巧は、その音にビクリと肩を震わせて、コーヒーをこぼしそうになった。
「……なんだ? アポなし訪問販売か?」
巧は呆れたように呟いた。ここは月面だ。セールスマンが来るには、少々遠すぎる。
傍らのイヴが、涼しい顔で告げる。
『マスター。……銀河コミュニティ・商業ギルド連合に所属する企業複合体『ユニバーサル・トレード・コングロマリット(UTC)』の巡回営業担当者より、正式な商談の申し入れを受信しました。……アポイントメントはありませんが、彼らの規定によれば『商機は光速よりも速し』とのことです』
「……営業かよ。しかも飛び込みの」
巧は天を仰いだ。グレイ・グーのような政治的な管理者が来るならまだしも、企業の営業マンまで来るようになったとは。地球もいよいよ銀河のマーケットに組み込まれつつあるということか。
「……まあいい。断って角が立つのも面倒だ。通してくれ」
『承知いたしました。……応接モードへ移行します』
コントロールルームの空間が歪み、瞬時にして、落ち着いた色調の応接室のようなホログラムで装飾される。
そして、転送ゲートから一人の人物が姿を現した。
それは驚くほど「地球人らしい」姿をした、女性型エイリアンだった。
身長は170センチほど。肌は薄い青磁器のような色をしているが、その顔立ちは地球のビジネス街ですれ違っても違和感のない知的な美女のそれだ。髪はプラチナブロンドで、首の後ろできっちりと束ねられている。
そして何より特徴的なのは、彼女が着ている服だった。それはどう見ても、地球の高級ブランドが仕立てたような、完璧なシルエットのダークネイビーのパンツスーツだった。手には、タブレット端末のようなものとアタッシュケースを持っている。
「――どうもどうも! 初めまして、介入者様!」
彼女は現れるなり、流暢な、いや流暢すぎる日本語で腰を低くして名刺を差し出してきた。その所作は、新橋の居酒屋で見かける熟練のサラリーマンのように洗練されていた。
「私、銀河全域を股にかけます総合商社『UTC』第8銀河系支部の巡回セールスマネージャー、エリザ・V・スターリングと申します! 以後お見知りおきを!」
巧は差し出されたホログラム名刺を、呆然と受け取った。
「あ、はい……どうも。介入者です」
「いやー、噂はかねがね伺っておりますよ! 地球という辺境……いえ未開拓の有望市場を、たったお一人でここまで育て上げられたとか! その手腕、まさに経営者の鑑! 弊社の上層部も『あのプロジェクト・マネージャーはタダモノではない』と大絶賛しておりましてね!」
エリザは、立て板に水のようなセールストークを展開しながら、巧の手をガシッと握手した。その手のひらは少しひんやりとしていたが、確かな力強さがあった。
「本日は、そんな素晴らしい手腕をお持ちの介入者様および地球文明の皆様に、ぜひともご活用いただきたい弊社の選りすぐりの新商品をご紹介したく参上いたしました!」
「はあ……。まあ座ってください」
巧は彼女の勢いに押されながらも、ソファーを勧めた。
これはあれだ。かつての自分がやっていた、無理やりアポを取って強引に商材を売り込む、あの泥臭い営業そのものだ。まさか宇宙に来てまでこのノリを見せられるとは。
エリザはソファーに座ると、慣れた手つきでアタッシュケースを開き、空間に数枚のホログラム・カタログを展開した。
「さて、お忙しい介入者様のお時間を無駄にするわけにはいきません。早速、本題に入らせていただきます!」
彼女は営業スマイル全開で、最初の商品を指し示した。
「まずはこちら! 全知性体待望の夢の福利厚生! 『知性体標準不老化処置キット(Anti-Aging Standard Kit Ver.9.0)』でございます!」
「……不老化?」
巧の眉がピクリと動いた。
また、とんでもない単語が飛び出してきた。
「はい! その名の通り、老いを完全に克服するパッケージですわ。内容は、生態調整用の医療用ナノマシンと遺伝子治療の併用プログラムとなっております。一度処置を受けていただければ、細胞のテロメア短縮を完全に停止し、活性酸素による劣化もゼロに。……まあ、地球標準時間で100年ごとの定期メンテナンス(更新)は必要になりますが、基本的には半永久的に、現在の若々しい肉体を維持することが可能です!」
彼女はそれを、まるで「新しいスマホの保護フィルム」でも勧めるかのような軽さで言った。
「ちなみにこちら、銀河コミュニティの加盟文明には、基礎的な人権……いえ、生存権保障の一環として、なんと無料で配布しております! なので技術データもサンプルも、今すぐタダで送信しちゃいますね!」
「む、無料……?」
巧は絶句した。不老不死がタダ?
「ええ、まあ……」
エリザは、少しつまらなそうに肩をすくめた。
「ぶっちゃけ、銀河コミュニティ標準処置なんで、あまり商品価値はないんですよ。どこの星に行っても蛇口をひねれば水が出るのと同じくらい当たり前の技術ですので。……ですが!」
彼女の目がキラーンと光った。
「我がUTCのナノマシンはここが違います! 他社の安物とはわけが違う、独自のカスタマイズが施されているのです!」
彼女はドヤ顔で、ホログラムの一部を拡大した。
「なんと! 新陳代謝の制御精度が、標準品より0.00001%も改良されております!」
「……0.00001%?」
巧は、あまりの微差に拍子抜けした。
「それ、誤差の範囲じゃ……」
「いいえ! とんでもない!」
エリザは力説した。
「この0.00001%が、QOLに劇的な違いをもたらすのです! 具体的に言いますと……例えば『今日はちょっとワイルドに髭を生やしたいな』と思った瞬間、意識するだけで髭を伸ばすことが可能です! 逆に『明日はパーティーだから爪を完璧に整えたい』と思えば、寝ている間に爪が伸び、しかも指定した形に整います! 髪の色や長さも自由自在! まさに新陳代謝の完全制御が実現されているのです!」
「……なるほど。凄い……ですね?」
巧は、なんとコメントしていいか分からず、曖昧に頷いた。不老不死のおまけ機能としては、あまりにも地味で、そしてあまりにもニッチな「美容機能」だった。
だがエリザにとっては、これこそが他社との差別化を図る最強のセールスポイントらしい。
「でしょう!? これがあれば、毎朝の髭剃りやネイルサロン通いともおさらばです! 地球の皆様もきっと、諸手を挙げて喜ばれるはずですわ!」
エリザの熱弁を聞きながら、巧は冷静に思考を巡らせた。
不老不死。
それは人類が有史以来追い求めてきた、究極の夢だ。
だが、プロジェクト・マネージャーとしての巧の脳内には、夢ではなく、悪夢のようなシミュレーション結果が浮かび上がっていた。
「……いや、エリザさん。商品は素晴らしいんですがね」
巧は渋い顔で言った。
「今の地球に、いきなり『死なない技術』を導入するのは、ちょっとリスクが高すぎるんですよ」
「あら、なぜですの?」
「考えてもみてください。今の地球の社会システムは、人間が『死ぬ』ことを前提に作られているんです。年金制度、保険制度、企業の雇用形態、そして政治家の任期……。誰も死ななくなったら、年金は破綻し、会社は上のポストが永遠に空かず、若者は絶望する。人口爆発で、食糧もエネルギーも足りなくなる。……社会が崩壊しますよ」
巧の懸念はもっともだった。
死という代謝機能があるからこそ、社会は新陳代謝を繰り返してきたのだ。それが止まれば、文明は動脈硬化を起こして死ぬ。
だがエリザは、そんな巧の懸念を、きょとんとした顔で一蹴した。
「まあ、不完全なシステムなら捨てればよろしいのでは?」
「……はい?」
「死ななきゃ維持できない社会システムなんて欠陥品ですわ。そんなものに固執して、せっかくの永遠の命を棒に振るなんて、本末転倒もいいところです。……まあ無理にとは言いませんが」
彼女は「遅れてるなぁ」と言わんばかりの目で巧を見た。
銀河の常識では、社会に合わせて寿命を決めるのではなく、寿命に合わせて社会を作るのが当たり前なのだ。
「……まあ、おっしゃる通りなんですがね」
巧は苦笑した。この圧倒的な価値観のギャップ。
「とはいえ現場(地球)には現場の事情ってものがありましてね。いきなり『明日からみんな死にません』って言われても、対応できないんですよ。……そこで相談なんですが」
巧は妥協案を提示した。
「……そのナノマシン、出力調整とかできますか? 例えば、老化を完全に止めるんじゃなくて、今の10分の1くらいの速度に遅らせるとか。……寿命が80年から800年になるくらいなら、まだ社会も適応できる余地があると思うんですが」
それなら急激な人口爆発は避けられるし、年金制度の改革も猶予ができる。
何より「長く生きられる」という希望は与えつつ、「死」という概念を完全には消し去らないことで、人間の倫理観の崩壊も防げるかもしれない。
「ふむ……。老化遅延モードですか」
エリザはタブレットを操作して、計算を始めた。
「……ええ、もちろん可能ですわ。マスターサーバー側でナノマシンの活動リミッターを設定すれば、老化速度は自由自在です。……10分の1でも100分の1でも、お好みの速度で提供できます」
「よし、それなら検討の余地があります」
巧は頷いた。
「まずはG7の指導者たちと相談してみます。彼らも自分たちの任期が伸びるとなれば、悪い顔はしないでしょうしね」
そう。トンプソンや郷田たちがこの技術に飛びつかないはずがない。
彼らは権力者だ。一日でも長くその座にいたいと願う生き物だ。それを餌に、また何か別の要求(例えばさらなる社会改革)を飲ませることもできるかもしれない。
「ありがとうございますわ!」
エリザは満面の笑みで、契約成立(仮)を喜んだ。
「では、お試し用のサンプルデータを送っておきますね! ……あ、もちろん、髭の伸びる速度も10分の1になりますけど、そこはご愛嬌ということで!」
「……そこはどうでもいいです」
巧が疲れたようにツッコミを入れると、エリザは「おや冗談の通じない方」とばかりに肩をすくめ、すぐに次の商品のホログラムを展開した。
「さて、気を取り直して! 次の商品は、弊社が自信を持ってお届けするエンターテインメントと学術研究の決定版! 『銀河コミュニティ標準タイムマシン(Standard Chrono-Voyager)』ですわ!」
「――ぶふっ!!」
巧は飲み直していたコーヒーを、今度こそ盛大に吹き出した。
「た、タイムマシン……!? アンタ今、さらっととんでもないもの出したな!?」
不老不死の次は、時間旅行。
この営業ウーマンは、人類の夢と禁忌を、コンビニのおにぎりのように次々と並べてくる。
「ええ、タイムマシンですわ。これもまた銀河コミュニティでは標準的な技術なんですが……」
エリザは巧の動揺をよそに、淡々と説明を続ける。
「ただご安心ください。我がUTCのタイムマシンは、皆様が心配されるような『歴史改変』の機能は一切ございません。これは『完全歴史観察型』となっております」
「……観察型?」
「はい。過去のあらゆる時代、あらゆる場所に移動することは可能ですが、そこで干渉を行うことは物理的に不可能です。貴方はあくまで『幽霊』のような存在として、その時代の出来事をリアルタイムで観察することしかできません。壁をすり抜け、人に触れることもできず、声も届かない。……ただそこに『いる』だけです」
なるほどと、巧は思った。
それならタイムパラドックスは起きない。過去を変えて未来を崩壊させるリスクもない。純粋な「見るだけ」のタイムマシン。
それは、歴史学者や考古学者にとっては喉から手が出るほど欲しい、究極の研究ツールだろう。
「完全翻訳機能付きですので、古代のエジプト語も恐竜の鳴き声も、バッチリ理解できますわ!」
エリザは楽しそうに付け加えた。
「さらに! ここからが本商品の目玉機能なのですが……」
彼女は声を潜めて、まるでとっておきの秘密を打ち明けるように言った。
「……このタイムマシン、過去の世界にアクセスするだけでなく……『死後の魂』、通称『観客席』にアクセスして、お喋りすることも可能ですのよ!」
「……は?」
巧の思考が停止した。
死後の魂? 観客席?
「ええ、そうですわ。……お客様も薄々感づいておられるでしょう? この宇宙には、肉体を失った知的生命体の意識データ……いわゆる『魂』が、一種のエネルギー体として保存される領域が存在することを」
巧は自分の胸に手を当てた。
そうだ。自分自身がその「保存された魂」を、グレイ・グーによって拾い上げられ、擬体に定着させられた存在なのだ。
あの時、グレイ・グーは言っていた。「死んだばかりの魂を再利用した」と。
つまり、再利用されなかった魂たちは、どこか別の場所に行っているということか。
「我々はその領域を『観客席』と呼んでおります」
エリザは説明を続けた。
「肉体を失った彼らは、もはや物理世界に干渉することはできません。ですが意識はあります。知性もあります。……そして何より、彼らは『暇』なのですわ」
「……暇?」
「ええ、暇で暇で仕方がないのです! 何せ永遠の時間があるのですから! 新しい刺激もなく、ただ漂うだけ……。それはある意味で、地獄のような退屈ですわ」
エリザは同情するように眉を下げた。
「そんな彼らにとって唯一の楽しみ。……それは『現世を観察すること』なのです。今生きている人たちがどんなドラマを演じ、どんな歴史を紡いでいくのか。それを、まるで長編ドラマを見るかのように特等席から眺めること。……それだけが彼らの娯楽なのです」
巧は背筋が寒くなるのを感じた。
自分たちが必死で生きているこの現実が、死者たちにとってはただのリアリティ・ショーだというのか。
俺の苦悩も、G7の指導者たちの葛藤も、中国の暴走も。
全ては彼らの暇つぶしのコンテンツに過ぎないのか。
「……なるほど。死後の魂の世界か……。銀河コミュニティの技術、半端ねぇな……」
巧は乾いた笑いを漏らした。
「……まあ死後の魂を使って俺を作成してるくらいだから、それくらい出来るのか……」
「その通りですわ!」
エリザはポンと手を打った。
「そしてここからがビジネスのお話です。……このタイムマシン、地球の方々には、なんとお代は必要ございません!」
「……無料?」
またか。巧は警戒した。タダより高いものはない。
「はい、金銭的なお支払いは不要です。その代わり……」
彼女はニッコリと、商魂たくましい笑みを浮かべた。
「……代金は『使用ログ』と『観客の反応の録画データ』でいただきます」
「……は?」
「つまりですね。……地球の方がタイムマシンを使って過去に行き、そこで歴史的な瞬間に立ち会ったり、あるいは亡くなった家族の魂と再会して涙したりする。……その『感動的な体験』そのものを、コンテンツとして記録させていただくのです。そしてそれを『観客席』の魂たちに配信する! ……これがまた、彼らにバカ売れするのですわ!」
エリザは熱弁を振るった。
「死者たちは、自分たちが生きていた頃の熱い感情や、肉体を持っていた頃の感覚を忘れてしまっています。だから、生きている人間が過去を見て感動したり、死者と対話して心を揺さぶられたりする、その『生の感情』こそが、彼らにとっての最高級の麻薬……いえ、エンターテインメントになるのです! いわば感情の代理体験ですわね!」
巧は呆れを通り越して、感心してしまった。
なんて商売だ。
生きている人間には「過去への旅」という夢を与え、死んだ人間(魂)には「生の感情」という娯楽を与える。
そして、その仲介料として莫大な利益を得る。
誰も損をしない。
だが、どこか決定的に冒涜的で、そして究極的に合理的なビジネスモデル。
「……たくましいな、あんたたち」
巧は心からの感想を漏らした。
「死んでもなお客として利用するとは……」
「お客様は神様ですわ。たとえ死んでいてもね」
エリザは悪びれもせずに言った。
「それに、地球の皆様にとっても悪い話ではないでしょう? 過去の真実を知ることができます。歴史の謎を解明できます。そして何より、もう二度と会えないと思っていた愛する人と言葉を交わすことができるのですから」
愛する人との再会。
その言葉に、巧の胸が少しだけ痛んだ。
自分にも会いたい人はいるだろうか。
過労死する前に残してきた両親や友人たち。
彼らは今どうしているのだろう。
もし、この機械を使って彼らの様子を見に行けるとしたら……。
「……魅力的な提案だ。否定はしない」
巧は言った。
「だが、これもまた劇薬だ。……過去に囚われすぎて、今を生きることを疎かにする人間が出てくるかもしれない。『あの頃は良かった』と過去の幻影に逃げ込むだけの社会になってしまったら、文明は停滞する」
「リスクはありますわね」
エリザも認めた。
「ですが、過去を知ることは未来を作るための糧にもなります。……過ちを繰り返さないために歴史を学び、先人の知恵を借りる。……使いようによっては、これ以上ない強力な教育ツールにもなりますわ」
確かにそうだ。
ヒトラーが演説する姿を目の前で見れば、独裁の恐怖を肌で感じることができるだろう。
戦争の悲惨さを教科書の文字ではなく、リアルな体験として知れば、平和への渇望はより強くなるだろう。
「……分かった」
巧は決断した。
「これも限定的に導入しよう。……まずは歴史学者や、選ばれたジャーナリストたちに使わせる。……一般公開はもっと先だ。社会がその衝撃に耐えられるだけの準備ができてからにする」
「賢明なご判断ですわ!」
エリザはタブレットに素早く契約内容を入力していく。
「では、『不老化処置キット(老化遅延モード)』と『歴史観察型タイムマシン(限定利用)』。……この二点を、今回の商談成立とさせていただきます! ありがとうございます!」
彼女はホログラムの契約書を、巧の前に差し出した。
巧はそれに電子署名を行った。
これでまた地球に、新しい「神の玩具」が投下されることになる。
不老不死とタイムマシン。
SFの究極の夢が、二つ同時に叶ってしまった。
「……これで人類はどう変わるかな」
巧は、不安と期待が入り混じった溜息をついた。
「きっと面白くなりますわ」
エリザはアタッシュケースを閉じながら、ウィンクした。
「私ども商人は、いつだって変化を歓迎します。……変化こそが新たな需要を生み出すのですから」
彼女は立ち上がり、深々と一礼した。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。……また、面白い新商品が入りましたら、真っ先にお持ちしますわね」
「……ほどほどにしてくれよ」
「ふふふ。……では失礼いたします。……あ、そうそう」
エリザは転送ゲートに入る直前、思い出したように振り返った。
「……もし、介入者様ご自身もそのタイムマシンを使いたくなったら、いつでも仰ってくださいね。……貴方の『過去』、つまり生前のアレコレを見に行くことも、もちろん可能ですから」
その言葉に、巧はドキリとした。
自分の過去。
あの冴えない、疲れた、しかし懸命に生きていたサラリーマン時代。
それを見に行く?
今の神の視点から?
「……いや、遠慮しておくよ」
巧は首を横に振った。
「……俺の過去なんて見ても、つまらないし恥ずかしいだけだ」
「そうですか? ……案外、掘り出し物のドラマが埋まっているかもしれませんよ? ……観客席の魂たちには、そういう『等身大の悲喜こもごも』が意外と人気なんです」
彼女は意味深な笑みを残して、光の中に消えていった。
コントロールルームに、再び静寂が戻った。
巧は渡されたばかりの、不老化キットとタイムマシンのデータを見つめた。
「……等身大の悲喜こもごもか……」
彼は苦笑した。
俺の人生なんて、ただの社畜の日常だ。ドラマなんてありはしない。
だが。
もし人類がこのツールを使って、自分たちの歴史を、自分たちの先祖の生き様を、リアルに見ることができるようになったら。
彼らは何を感じるのだろうか。
教科書に載っている偉人たちだけでなく、名もなき市井の人々が、それぞれの時代で懸命に生き、愛し、そして死んでいった姿を。
それを知ることは、彼らにとってどんな意味を持つのだろうか。
『マスター』
イヴが静かに言った。
『……このタイムマシン。……使い方次第では、人類の「精神的成熟」を促す最強のツールになるかもしれませんね』
「……そうだな」
巧は頷いた。
「……過去を知ることは、自分を知ることだ。……他者の人生に触れることは、共感する心を育てることだ。……案外、宗教家たちのお説教よりも、こっちの方が効くかもしれないな」
彼はスクリーンに映る地球を見つめた。
そこには、まだ見ぬ過去と、まだ見ぬ未来が重なり合って存在している。
人類は、時間の壁を超え、そして死の壁をも超えて、新たな地平へと進もうとしている。
「……さてと」
巧は背伸びをした。
「……的場さんたちに、また宿題が増えちまったな。……怒られるかな」
彼は地球への通信回線を開いた。
神の代理人の仕事は、まだまだ終わりそうになかった。
だが、その表情は以前よりも少しだけ、晴れやかに見えた。
未来は予測不能だ。だからこそ面白い。
あの商人の言葉も、あながち間違いではないのかもしれない。
月面から送られる新たなギフトが地上に届く、その時を待ちながら。
巧は冷めたコーヒーを、今度は美味しく飲み干した。




