第71話 落ちない林檎と天空への招待状
月面の観測ステーション『ヘブンズ・ドア』。
相馬巧は、コントロールルームのメインスクリーンに映し出された三つの勢力の均衡シートを、まるで決算期の経理担当者のような険しい顔つきで睨みつけていた。
「……ふむ。現状のバランスは悪くない。いや、むしろ良すぎるくらいだ」
彼は手元のコーヒーを一口啜った。
東の中国は『地龍脈』と『神の穀物』によって大陸の覇者となり、その足元を盤石に固めている。
北のロシアは『星霜菌』によるエネルギー革命と環境浄化技術を武器に独自の聖域を築き上げ、他国からの干渉を拒絶している。
そして西のG7は『代替装備』による圧倒的な生産性と『指向性シールド』による鉄壁の防御力を手に入れた。
だが、巧の目には、G7陣営が抱える構造的な欠陥が、明らかな赤字として映っていた。
「……資源だ」
巧は呟いた。
「G7のサイボーグ化社会は、レアメタルとエネルギーを大量に消費する。今はまだ在庫やリサイクルで回しているが、いずれ必ず限界が来る。……対して中国は、広大な国土と龍脈による物流網で資源へのアクセスが容易だ。ロシアは言わずもがな、無限のエネルギーを持っている」
イヴが即座にデータを補足する。
『はい、マスター。現在の消費ペースが続けば、G7諸国のレアアース備蓄は約五年で枯渇ラインを割ります。その時、彼らは資源を求めて中国やロシアに頭を下げるか、あるいは……資源豊かな南半球の国々を巡って醜い争奪戦を始めるでしょう』
「……それはマズいな」
巧は眉をひそめた。
「資源戦争なんていう前時代的な泥仕合は、俺の脚本にはない。……G7には、もっとスマートで、そしてもっと夢のある方法で、その欠乏を埋めてもらわなきゃならん」
彼は手元のコンソールを操作し、銀河コミュニティの技術ライブラリから一つのフォルダを呼び出した。
そこには『重力制御・慣性操作技術(Gravity & Inertia Control)』というタイトルが輝いていた。
「……これだ」
巧はニヤリと笑った。
「中国が『大地』を制し、ロシアが『星の内側』を制したなら。……G7には『空』と『宇宙』を目指してもらう。……重力という鎖を断ち切ってな」
『重力制御ですの?』
イヴが、少しだけ驚いたような声を上げた。
『それは……文明レベルを一気に引き上げすぎるのでは? 反重力エンジンを与えれば、彼らはすぐに恒星間航行船すら作りかねませんが』
「いや、いきなり完成品を与えるわけじゃない」
巧は首を横に振った。
「いつものやり方だ。まずは原理も分からない『ブラックボックス』を与える。……『重力制御ユニット』の、一番シンプルなやつをな。……それを解析させて、彼ら自身の頭で考えさせるんだ。『この力が意味するものは何か?』と」
彼は空中に浮かぶ地球のホログラムを見つめた。
「……重力を制御できれば、宇宙へのコストは劇的に下がる。ロケット燃料なんかいらない。……そうすれば小惑星帯にある無尽蔵のレアメタルも、彼らの掌の中だ。……資源問題は解決し、G7の目は地上の奪い合いから天空の開拓へと向く」
『なるほど。……「地」の中国に対し「天」のG7。……美しい対比ですわ、マスター』
「だろ? ……よしイヴ。早速手配してくれ。……送り先はもちろん、我らが優等生、日本のCISTだ」
巧は楽しげに指を鳴らした。
「……ニュートン先生には悪いが。……そろそろ林檎が落ちない時代を始めてやろうじゃないか」
◆
【富士山麓・CIST地下研究施設】
その「贈り物」は、何の前触れもなく、CISTの最深部にある特別解析室の転送台に現れた。
警報が鳴り響き、武装した警備員たちが駆けつける中、的場俊介と日米の科学者チームは、その物体をまるで爆発物処理班のような慎重さで取り囲んでいた。
それは一辺が五十センチほどの、何の変哲もない黒い立方体だった。
表面には継ぎ目一つなく、ボタンもディスプレイも接続端子すら見当たらない。ただ、介入者が好んで使う、あの光を吸い込むようなマットブラックの素材でできている。
「……なんだこれは?」
アメリカチームのリーダー、アラン・スタージェス博士が老眼鏡の位置を直しながら、訝しげに呟いた。
「……ただの箱にしか見えんが。……重量は?」
「……計測不能です」
日本の若手研究員が、困惑した声で報告した。
「いえ、重すぎて測れないのではありません。……計測するたびに重さが変わるんです。……さっきは10キロだったのが、今は5キロに。……いや、今はマイナス……? 馬鹿な、浮こうとしているのか?」
ざわめきが広がる中、湯川教授がゆっくりと歩み寄った。
彼は震える手で、その黒いキューブに触れようとした。
「……先生、危険です!」
「構わんよ」
湯川はそっとその表面に指を這わせた。
ひんやりとした感触。そして微かな振動。それは機械の振動というよりは、生き物の鼓動に近いものだった。
「……的場大臣。……介入者様からのメッセージは?」
「……はい。……たった一行だけ添付されておりました」
的場はタブレットに表示されたメッセージを読み上げた。
『――君たちの世界には「落ちる林檎を見て万有引力を発見した男」がいたそうだな。……では「落ちない林檎」を見たら、君たちは何を発見するかな?』
その謎めいた問いかけ。
湯川の目が鋭く光った。
「……落ちない林檎……」
彼は周囲の研究員たちに命じた。
「……このキューブを起動させるスイッチがあるはずだ。……いや、物理的なスイッチではない。……おそらく特定の『刺激』に反応するはずだ。……介入者様は常に、我々の『理解』を試される。……重力に関する何らかの……」
その時、DARPAの若き天才レオ・フィッシャーが、思いついたように叫んだ。
「……落下だ!」
「……何?」
「こいつを落とすんですよ! 重力を検知させてやるんです!」
あまりにも乱暴な提案に、周囲は凍りついた。
だが、湯川はニヤリと笑った。
「……やってみたまえ」
厳重な防護壁の向こうで、ロボットアームが黒いキューブを持ち上げた。高さは三メートル。
カウントダウンが響く。
三、二、一。
リリース。
キューブは落下した。
だが、床に激突する寸前――。
ブゥン、という低い重低音と共に、キューブの周囲の空気が歪んだ。
そして。
それは床から数センチのところで、ぴたりと静止した。
衝撃音もバウンドもなく。
まるで最初からそこに床があったかのように、空中で凝固したのだ。
「―――!!!!!!」
悲鳴のような歓声が上がった。
だが現象は、それで終わりではなかった。
静止したキューブの表面に、淡い青色のラインが走り始めた。
幾何学的な紋様が浮かび上がり、その中心部がゆっくりと回転を始める。
そして次の瞬間。
実験室の中に置かれていたパイプ椅子や書類の束、そしてコーヒーカップまでもが、フワリと宙に浮き上がった。
「うわっ!?」
「浮いた! 俺の体が浮いてるぞ!」
重力が消えた。
いや、違う。
キューブを中心とした半径十メートルの空間だけ、重力のベクトルが完全に『無効化』されたのだ。
「……重力制御……!」
スタージェス博士が、天井付近に浮かび上がりながら呻くように言った。
「……まさか……。……こんな小さな箱一つで……局所的な重力場を完全に書き換えているというのか……!?」
湯川教授は、無重力空間の中で、まるで水泳をするように器用に体を動かし、キューブのそばへと近づいた。
彼はポケットからボールペンを取り出し、キューブに向かって軽く投げた。
ペンはキューブに当たる直前で、見えないクッションに弾かれたように優しく減速し、そして静止した。
「……慣性制御も完璧だ」
湯川の声が震えていた。
「……急激な加速や減速によるG(重力加速度)を、完全に相殺している。……これなら……これなら中の人間は、どんな機動を行っても決して潰れることはない……!」
実験室は興奮の坩堝と化した。
科学者たちは無重力空間で子供のようにはしゃぎ回り、互いにペンやノートを投げ合い、そのありえない挙動を確認し合っていた。
だがその狂騒の中で、的場俊介だけは床(だった場所)にしがみつきながら、その技術がもたらす未来の衝撃に戦慄していた。
(……重力制御……。……これが実用化されたら世界はどうなる……?)
彼の脳裏に、様々な光景がフラッシュバックする。
車輪を捨て空を飛ぶ自動車。
滑走路を必要とせず、垂直に離着陸する巨大な旅客機。
そしてロケット燃料という足枷から解き放たれ、エレベーターに乗るような気軽さで宇宙へと飛び立っていく人類の姿。
「……空が……」
的場は呟いた。
「……空が道になる……。……そして宇宙が隣町になる……」
◆
その日の夜。
日米合同研究チームによる緊急の検討会議が開かれた。
テーマはこの『重力制御ユニット』の解析と、その応用可能性について。
ホワイトボードの前で、レオ・フィッシャーが熱弁を振るっていた。
「……構造は驚くほどシンプルだ。……いや、シンプルに見えるだけだ。内部には高密度の重力子を生成・制御するコアがあるようだが、我々のスキャン技術ではブラックボックスの中身までは見えない。……だが入出力の特性は分かった。電気エネルギーを供給すれば、それに応じて反重力場を生成する。……エネルギー効率は異常なほど高い。現在のリチウムイオン電池でも、数時間は稼働させられるレベルだ」
「……つまり」
スタージェス博士が眼鏡を拭きながら言った。
「……我々はこのユニットを『エンジン』として利用できるということか」
「イエス、博士。……それも、ただのエンジンじゃない。……夢のエンジンだ」
レオはスクリーンに一つの設計図を映し出した。
それは従来のロケットとは全く異なる、流線型の宇宙船のラフスケッチだった。
「……これまでの宇宙開発の最大のネックは『重力』という牢獄を脱出するための、莫大なコストだった。……地球の重力を振り切るために、質量の90%以上を燃料にしなきゃならなかった。……だが、このユニットを使えば、重力そのものをキャンセルできる。……つまり、大気圏を抜けるのに、ジェット機程度の燃料で済むってことだ」
会場がどよめいた。
宇宙への輸送コストが、現在の百分の一、いや千分の一になる。
それは宇宙旅行が、一部の富豪の道楽から、一般市民の旅行へと変わることを意味していた。
「……そして、その先にあるもの」
日本の資源工学の専門家が、手を挙げた。
「……小惑星採掘です。……火星と木星の間にある小惑星帯には、地球の埋蔵量の数億倍ものレアメタルや貴金属が眠っている。……これまでは採算が合わずに手が出せなかったが、この技術があれば……」
「……取りに行ける」
的場が確信を持って言った。
「……中国の『地龍脈』にも、ロシアの『星霜菌』にも頼ることなく。……我々G7だけで、無尽蔵の資源を手に入れることができる……!」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
それは単なる科学的な発見への興奮ではない。
国家の生存戦略における決定的な勝機を見出した、政治的な熱狂だった。
G7は焦っていたのだ。
中国の圧倒的な資源力と物流支配。ロシアのエネルギー覇権。
それらに対抗する手段を持たないまま、じりじりと追い詰められていた。
だが今。
天から蜘蛛の糸が降りてきた。
いや、天へと登る階段が示されたのだ。
「……報告書をまとめよう」
的場は決然と言った。
「……G7首脳会議へ。……『宇宙資源開発計画』の提言だ。……我々は、大地を這う龍や凍土の熊とは違う道を往く。……我々は、天空の覇者となるのだ」
その夜、CISTの地下施設から世界中のG7首脳の元へ、極秘のレポートが送信された。
タイトルは『プロジェクト・イカロス:重力からの解放と新たなるフロンティア』。
◆
ワシントンD.C.。
レポートを読んだトンプソン大統領は、執務室で一人天井を見上げて高笑いをした。
「―――ハッハッハッハ! 見ろ! やはり神はアメリカを見捨ててはいなかった!
……中国が地面を掘り返している間に、我々は星を掴むのだ!
……これぞマニフェスト・デスティニー(明白なる天命)!」
ベルリン。
シュミット首相は冷静に計算機を叩いていた。
「……宇宙空間での太陽光発電……。……無重力下での新素材製造……。……この産業構造の転換は、ドイツに再び黄金時代をもたらすでしょう……」
パリ。
デュボワ大統領はワイングラスを片手に、窓の外の夜空を見つめていた。
「……空飛ぶ車でシャンゼリゼの上空をドライブか。……悪くない。実にエレガントだ」
G7の指導者たちの心に、新たな野望の火が灯った。
それは、地上での領土争いという古いゲームからの脱却であり、無限に広がる宇宙という新しいゲーム盤への移行だった。
翌日。
G7は共同声明を発表した。
『人類の活動領域を地球圏外へと拡大する。……我々は次なるフロンティア、宇宙を目指す』
その宣言と共に、世界中の航空宇宙産業株がストップ高を記録した。
NASA、JAXA、ESA(欧州宇宙機関)は統合され、新たなる国際宇宙開発機構『G-SDA(Global Space Development Agency)』の発足が決定された。
街角では子供たちが空を見上げ、未来の宇宙飛行士になる夢を語り合った。
『大休暇時代』で暇を持て余していた若者たちは、宇宙開拓という新たな冒険に、その情熱の矛先を見出した。
世界は再び動き出した。
大地に根を張る東の帝国。
星の内なる力を操る北の連邦。
そして重力を振り切り、天空へと飛翔する西の連合。
三つの文明は、それぞれ全く異なる方向へと、その進化のベクトルを向け始めた。
それは互いに干渉せず、独自の領域を開拓する「棲み分け」の時代の到来を告げているかのようだった。
◆
月面の観測ステーション。
相馬巧は、その様子を満足げに見つめていた。
「……うん。いい感じにバラけたな」
彼はイヴに言った。
「……これなら、しばらくは直接的な衝突は起きないだろう。……中国は内陸の開発に忙しいし、ロシアは環境浄化で手一杯。……G7は空と宇宙に夢中だ。……みんな自分の庭いじりに忙しくて、隣の家の芝生を羨んでいる暇はなくなる」
『はい、マスター。……多様性による安定。……銀河コミュニティが推奨する、最も理想的な文明発展モデルの一つです』
「……まあ、そのうち宇宙の利権を巡ってまた一悶着あるだろうけどな。……小惑星の所有権とか、月面基地の場所取りとか」
巧は苦笑した。
「……でもまあ、それは人類が宇宙に出た後の話だ。……それまでは俺も、少しはのんびりできるかな」
彼は手元の「重力制御ユニット」のマスターキー(管理者用端末)を弄んだ。
その画面には、地球上の重力分布図が表示されている。
G7諸国の主要都市の上空に、微かな重力異常の反応が出始めていた。
それは彼らが早速この技術を使って、「空飛ぶ車」や「浮遊プラットフォーム」の実験を始めた証だった。
「……飛べよ、人類」
巧は優しく呟いた。
「……重力というゆりかごから抜け出して。……いつかこの月まで、自分の力で登っておいで」
神の代理人は、その時が来るのを静かに、そして楽しみに待つことにした。
眼下の青い星から、無数の小さな光が蛍のように宇宙へ向かって舞い上がり始めるのを。
それは、かつて彼自身が見たことのない、美しい未来の景色になるはずだった。




