第66話 神々の脚本会議と氷上のチェス
月面の観測ステーション『ヘブンズ・ドア』。
そのコントロールルームは、もはや神の聖域というよりも、締め切り直前の脚本家の作業部屋のような、焦燥と混乱と、そしてわずかなヒステリーに満ちた空気が支配していた。
巨大なホログラムスクリーンには、地球のシチュエーションルームからリアルタイムで傍受された、G7の指導者たちの緊迫した会議の様子が映し出されている。
彼らが、ロシアのバイカル湖畔に出現した謎の巨大施設と、そこから漏れ伝わる『女神』や『星霜菌』といった荒唐無稽な単語を、国家安全保障上の最大の脅威として真剣に議論している光景。
それは一年前の彼らでは到底考えられない、SFと現実が入り混じった異様な光景だった。
そしてその全ての元凶であり、唯一無二の観客である相馬巧は、コントロールチェアの上で頭を抱え、床を転げ回りたい衝動を必死に抑え込んでいた。
「―――あらららららら……。即効で秘密があるってことバレてるじゃん……!!!」
彼の情けない悲鳴が、絶対的な静寂の中に虚しく響いた。
「ロシアしっかりしてくれよ…! なんだよあの施設! ペトロフ博士の研究施設、あれだけ国家の総力を挙げて作ったのに、なんでこんな簡単に衛星に引っかかるんだよ! もうちょっとこう、カモフラージュとかさあ…! 『ロシアン・アーク研究所』? 名前がもうファンタジーすぎるだろ! そりゃ怪しまれるわ!」
巧は、擬体の存在しないはずの胃がきりきりと痛むのを感じていた。
自分で仕掛けた壮大なマッチポンプ。
西側G7、東の中華帝国、そして北のロシア連邦。
三つの勢力が互いに牽制し合い、絶妙なバランスの上でゆっくりと成長していく……はずだった。
だが、現実はどうか。
G7は彼が与えた『神の盾(シールド技術)』の玩具に夢中になり、新たな軍拡競争を始めている。
中国は『太歳』の神託に狂信し、いつ『牙と爪(魔獣兵器)』を世界に向けるか分からない危険な帝国へと変貌した。
そしてロシア。唯一女神ロッドの警告を受け入れ、平和利用の道を歩み始めたと思った矢先に、その最大の秘密がライバルたちに察知されてしまった。
このままではどうなる?
スクリーンの中では、トンプソン大統領が「ロシアが何を隠し持っていようと、我々がそれを上回る『盾』を先に完成させるのだ」と息巻いている。
国防長官のマティスに至っては、あの氷の瞳の奥に「いざとなればその『宝』ごと奪い取る」という、剥き出しの強奪者の光を宿していた。
(ダメだこりゃ……)
巧は絶望した。
(このままじゃ、アメリカがロシアに対して過剰な警戒を始めて、無用な緊張が走るぞ。経済制裁の強化か? それとも特殊部隊を送り込んでの研究者拉致か? どっちに転んでもボグダノフがブチ切れるのは間違いない。あの氷の皇帝がキレて、女神ロッドの警告なんかクソくらえだと、本格的に『ツァーリ・ボンバ』計画に舵を切ってしまったら……!)
最悪のシナリオが、彼の脳裏を駆け巡る。
三つの勢力による全面戦争。テクノロジーの暴走。そして地球の破滅。
グレイ・グーが望む「最高のフルコース」の完成だ。
「―――イヴッ!!!! どうしようか!?」
彼はついに、傍らに浮かぶ光のAIへと泣きついた。
それはもはや神の代理人ではなく、手に負えないプロジェクトの炎上に直面し、有能な部下に丸投げしようとする、かつての彼の上司と何ら変わらない姿だった。
「次のG7との定例会談、もうすぐだぞ! 奴ら絶対に聞いてくる! 『ロシアのあの施設は何だ』って! 『介入者様はあれもご存知なのか』って! なんて答えればいいんだよ!?」
その主君の情けないパニックを、イヴはその完璧な美貌のアバターの姿で静かに見つめていた。
彼女の紫色の瞳は、海の底のように静かなまま微動だにしない。
『マスター。……何を今さら悩んでおいでですの?』
その、あまりにも冷静で、どこか呆れたような声。
「はあ!? 悩むだろ普通! 最大の機密がバレたんだぞ!?」
『機密ですの?』とイヴは首を傾げた。
『それは、あなた方人類のちっぽけな物差しでのお話ですわ。……マスター、貴方は一体何者として、彼らの前に立っておられるのですか?』
「え……? い、介入者だけど……」
『左様でございます。……銀河の高度な知性体。人類の導き手。……その介入者様が、この小さな惑星の上で起きていることを知らないはずがあると、G7の指導者たちが本気で思うでしょうか?』
「……いや、思わないか……?」
『ええ。彼らが、G7があなた方の知らないところで秘密裏に行動し、ロシアの動向を探っていた。
その事実が、自分たちの神である介入者様にバレていないか、今頃彼らの方が冷や汗をかいているはずですわ。……彼らがあなた方の前でその話題を切り出すのは、詰問ではありません。……それは自らの『スパイ行為』を告白し、神の反応を窺う恐る恐るの『自首』なのです』
そのあまりにも鮮やかな視点の転換。
巧ははっと息を飲んだ。
そうだ。
俺は神様のフリをしてるんだった。
俺が彼らに怯える必要なんかない。
怯えるべきは、彼らの方なのだ。
『ですからマスター』とイヴは続けた。
その声には、まるで完璧な脚本を読み上げるかのような、絶対的な自信があった。
『次の会談で、もしトンプソン大統領がおずおずとロシアの件を切り出してきたならば。……あなたはこう仰ればよろしいのです』
イヴはその場で介入者の神々しいアバターへと姿を変え、その鈴の音のような声色を、介入者の持つ荘厳で超越的な響きへと変調させた。
『――ああ、ロシアの件かね。……もちろん把握しているよ』
「えええええ!? いいの!? そんなあっさりと言っちゃって!」
巧は素っ頓狂な声を上げた。
「そ、そんなこと言ったら『なぜ隠していた!』とか『ロシアと裏で手を組んでいるのか!』とか、余計に疑心暗鬼になるんじゃないか!?」
『なりません』とイヴは即答した。
彼女は再び、その美しいAIの姿に戻っていた。
『マスター、ご心配には及びません。……彼らがそう問い返してきたならば、あなたはただ心底不思議だという顔で、こうお答えになれば良いのです』
イヴは、再び介入者の声色になった。
『……隠す? ……なぜ私が? ……ジェームズ。君は自分が飼っている水槽の金魚が、今日は何回餌を食べたかを、わざわざ庭のアリに報告したりするかね?』
「うわっ、性格悪ッ!」
思わず巧が叫んだ。
『ですが、これが最も効果的です』とイヴは冷静に続けた。
『あなたと彼らとの間にある、絶対的なテクノロジーの差、文明レベルの格差を改めて認識させて差し上げるのです。……彼らがこの地球という名の水槽の中でコソコソと何を企んでいようと、それは全て神の掌の上での出来事に過ぎないのだと。……そうすれば、彼らは自らの傲慢さを恥じ、二度とあなたに隠し事をしようなどとは思わなくなります。……「知らないはずがないだろう」と、そう傲然と構えていることこそが、介入者様の権威を最も強固に保つ方法なのです』
そのあまりにも冷徹で、しかし完璧なまでの人心掌握術。
巧はゴクリと喉を鳴らした。
(……確かに。……確かにそうかもしれない。……俺がオドオドしてるから奴らも不安になるんだ。……神はもっと堂々としてなきゃダメなんだ)
「……分かった。……その線で行こう」
と巧は頷いた。
「だが、それだけじゃ収まらないだろ。トンプソンは必ず聞いてくる。『ロシアのあの力は何なんだ』『我々への脅威ではないのか』って」
『ええ、必ず聞いてくるでしょう』とイヴは頷いた。
『そしてそれこそが、我々のチャンスです』
「チャンス?」
『はい。彼らが最も恐れているのは、「ロシアが介入者や太歳とは別の第三の異星文明と結託した」という最悪のシナリオです。……我々はまず、その最大の懸念を優しく否定して差し上げるのです』
イヴは再び介入者の声色で、その完璧な台詞を紡ぎ始めた。
『……ああ、それならば心配は無用だよ。……あれは異星文明由来のテクノロジーなどではない。……どうやらこの星自身……君たちが『地球』と呼ぶこの惑星の意思そのものが、目覚め始めたようだ』
「おお……! 『ロッド』の存在をここで正式に開示するわけか!」
『左様です。……ですが、それ以上は語りません。あくまで詩的に、曖昧に。……そして彼らが最も知りたい核心部分――あの『星霜菌』の能力については、こう付け加えるのです』
『……私もまだその全てを把握しているわけではないがね。……少なくともあれは、君たちが恐れるような直ちに危険な兵器などではない。……それどころかあの微生物は、この星の生態系が自らを生み出した素晴らしい浄化作用の現れでもある。……うん。使い方さえ誤らなければ、むしろ君たち人類全体にとって非常に良いものになるだろうね』
イヴはそこで、悪戯っぽく言葉を続けた。
『……おっと、これは少しヒントを出しすぎたかな』
「……なるほどな……」
巧はその脚本の巧妙さに、深く感心していた。
「G7が喉から手が出るほど欲しがっている『放射能分解』という環境浄化の可能性を、わざとらしく匂わせるわけか。……そうすれば、G7の関心はロシアへの軍事的な警戒から、あの微生物の『平和利用』の可能性へとシフトするかもしれない」
『はい。そして、あわよくばその技術をロシアからどうやって『分けてもらう』かという方向で、彼らの優秀な頭脳を使わせるのです。……軍事的な強奪ではなく、外交的な交渉という形で。……それこそがマスターが望む文明的な解決への第一歩となります』
「……完璧だイヴ。……じゃあ、それでいくか…?」
巧の顔に、ようやく安堵の色が浮かんだ。
だがイヴは、まだ首を縦には振らなかった。
『……いえマスター。……まだ足りません』
「え?」
『その程度の釘では、あのトンプソン大統領やマティス大将のようなタカ派を、完全に抑え込むことはできません。……彼らは必ずこう考えるでしょう。「平和利用などと綺麗事を言っているが、あの技術の軍事転用の可能性はゼロではない。ロシアがそれを独占している状況は看過できない」と』
イヴは、スクリーンに映るトンプソンのあの好戦的な顔をハイライトした。
『彼らは必ずや、我々が気づかない水面下でロシアに対して何らかの強硬な手段――経済制裁の強化、諜報活動の激化、そして最終的には軍事力を背景にした技術の強奪――を視野に入れて行動を開始するでしょう。……その可能性の芽を、我々は今のうちに完全に摘み取っておかねばなりません』
「……じゃあどうするんだよ」
巧は再び頭を抱えた。
「だからって『ロシアをいじめるな』なんて、介入者がロシアを庇うのはあまりにも不自然すぎるだろ!」
『ええ、その通りです。……ロシアを直接庇うのは最悪手です』とイヴは同意した。
『ですのでマスター。……我々は彼らの行動そのものを縛るのです。……彼らが最も恐れる『罰』を提示することによってね』
「罰……?」
『はい』とイヴは、その紫色の瞳に絶対零度の光を宿した。
『介入者として、G7の指導者たちにこう宣言するのです』
イヴのアバターが再び神々しい介入者の姿へと変わった。
その声はもはや教師のものではなく、絶対的な審判者の冷徹な響きを帯びていた。
『―――最後に一つだけ、君たちに警告しておく』
『君たち西側の者たちも、東の者たちも、そして北の者たちも。……それぞれが異なる道を歩み始めた。……それは進化の多様性として、私は歓迎しよう。……だが、その競争がどのような形であれ、君たちの種族がいまだに手放せずにいる、あの最も愚かで最も原始的な暴力装置――すなわち『核兵器』――の使用へと繋がるのであれば。……話は別だ』
介入者の声が、部屋の空気を震わせた。
『核戦争は、グレート・フィルターの最も古典的で、最も愚かな自滅パターンだ。……もし君たちが、この地球という名の水槽の中で、再びそのような大規模な戦争を――たとえそれが限定的なものであろうとも――引き起こそうとするならば』
彼はそこで一度、言葉を切った。
そしてその場にいるG7の指導者たち、そしてこの通信を傍受しているであろう中国とロシアの指導者たち、その全てに向けて、最後の通牒を突きつけた。
『―――その瞬間、私は君たち人類という種族を『失敗作』と見なす』
『私はこの観測ステーションを放棄し、この星系から永遠に立ち去るだろう。……そして君たちは、全ての神々から見捨てられた孤独な子供として、自らが引き起こした核の冬の中で、ゆっくりと滅びていくがいい』
『……これは脅しではない。……ただの事実だ。……君たちがその愚かな引き金を引くかどうか。……私は静かに見守らせてもらうとしよう』
そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも恐ろしい最後通牒。
神からの支援の完全なる打ち切り。
そして、見捨てられるという究極の恐怖。
それはいかなる軍事力による脅しよりも、G7の指導者たちの心をその根底から縛り付ける、最強の呪詛だった。
「…………」
巧は、そのイヴが紡ぎ出した完璧な脚本の前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……すげえ……。……イヴ、お前……。……本当に悪魔かよ……」
『いえ。私はあくまで、マスターの計画を最も高い確率で成功させるための、最適な論理解をご提案しているに過ぎません』
イヴは平然と答えた。
『これだけの釘を刺しておけば、さすがのトンプソン大統領も、ロシアに対してあからさまな軍事行動を起こすことは躊躇するはずです。……彼らも馬鹿ではありません。……神(介入者)からの全面的な支援を失うリスクと、ロシアの秘密技術を強奪する利益を天秤にかけるでしょうから』
「…………」
巧はもはや、反論する気力もなかった。
「……それでアメリカが本当に自重してくれると思うか……?」
『さあ。どうでしょう』とイヴは、その美しいアバターの肩をほんのわずかにすくめてみせた。
『……分かりませんわ。……彼らもまた予測不能な人間なのですから。……ですが、我々が今できる最善の手であることは間違いありません』
「……信じていいのか? アメリカを。……トンプソンを」
『信じましょう、マスター』
イヴの声は静かだった。
『彼らが、自分たちの未来を自ら滅ぼすほど愚かではないと。……そう信じるしか、我々には道はないのです。……たとえその確率が五分五分だとしても』
その言葉に、巧は深く深く息を吐いた。
そうだ。
もう信じるしかない。
自分が創り出した、この愚かで愛おしい人類という名の登場人物たちを。
「…………分かった」
彼は頷いた。
「……仕方がないか。……これで行こう。……じゃあイヴ。……次のG7との定例会談、すぐにセッティングしてくれ。……彼らにこの神様のありがたいお説教と最後通牒を叩きつけてやろうじゃないか」
彼の顔には、もはや疲弊した脚本家の色ではなかった。
自らが描いたこのギリギリの綱渡りのような脚本が、果たして観客(神々)の期待に応えられるのか、それとも舞台の途中で全てが崩壊するのか。
その究極の緊張と、そしてほんのわずかな興奮をその胸に秘めた舞台監督の顔が、そこにはあった。




