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過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第64話 凍土の奇跡と皇帝の秤

 バイカル湖畔。

 その世界で最も深く、最も清らかな湖の水面は、初冬の冷たい風を受けて鉛色のさざ波を立てていた。古代の地殻変動が刻み込んだ巨大な三日月湖の威容は、それ自体が惑星の記憶を宿す神殿のようであり、そのほとりにロシアという国家の全ての叡智と、ウラジーミル・ボグダノフの「忍耐」という名の野心が注ぎ込まれた新たなる聖域が築かれていた。


『ロシアン・アーク研究所』。


 その名は、ノアの箱舟のようにこの星の未来を救う奇跡を育む場所であれ、というボグダノフ自身の発案だった。表向きは地球環境と古代微生物学を研究する国際的な学術センター。だがその実態は、シベリアの凍てつく大地の下、数百メートルの岩盤をくり抜いて建造された、世界最高レベルのセキュリティを誇る巨大な地下要塞ラボラトリだった。


 G7の偵察衛星の目をごまかすため地上施設は最小限に抑えられ、その心臓部は湖の冷水を利用した天然の冷却システムと、地熱を利用した独立型エネルギー源によって外界から完全に遮断されていた。


 この孤独な聖域の主、アレクセイ・ペトロフ博士は、この数ヶ月、人生で最も濃密で、そして最も畏怖に満ちた日々を送っていた。彼はクレムリンから与えられた無尽蔵の予算と、国中から選りすぐられた最高の頭脳たち――物理学者、遺伝子工学者、生物学者、そしてAI技術者――と共に、あの日女神ロッドから授かった奇跡の生命体『シベリアの星霜菌』の解析に、文字通り寝食を忘れて没頭していた。


 彼らの研究はクレムリン直属のFSB(連邦保安庁)による厳格な監視下に置かれていたが、不思議なことに、その監視は研究内容そのものに口を挟むことはなかった。ボグダノフ大統領自らが下した「まずは平和利用の可能性を徹底的に模索せよ」という厳命。そしてペトロフ自身が全研究員に繰り返し説いた女神ロッドの警告――「破壊のために使うならば星そのものが牙を剥くだろう」――が、この研究所の絶対的な憲章となっていた。


 彼らは、西側や中国のような軍事転用への露骨な誘惑から守られた、奇跡的なまでに純粋な科学的探究心の揺りかごの中にいたのだ。


 ペトロフは、自らが目覚めさせてしまったこのいにしえの命が持つ無限の可能性に魅了されていた。彼は、この力が人類の未来を救う鍵であると固く信じていた。そして今日、その信念が神話から現実へと変わる瞬間が訪れようとしていた。


 研究所の地下最深部に設けられたレベル4バイオハザード対応の隔離実験室。その分厚い鉛ガラスの向こう側、チタン合金で覆われた密閉チャンバーの中に、その「実験」の舞台は設えられていた。


 ペトロフは管制室のコンソールパネルの前に立ち、その痩身を緊張で微かに震わせていた。彼の背後には、各分野のトップ科学者たちが息を殺してモニターを見つめている。


「……サンプルチャンバー内へ搬入」


 ペトロフの静かな声が管制室に響く。ロボットアームが厳重に封印されたクライオコンテナから一つの物体を慎重に摘み上げた。それは黒く、そしてガラス化した表面が不気味な光を放つ小さな土の塊。1986年4月26日、ウクライナ・プリピャチの地で人類の歴史上最悪の過ちを刻み込んだ、あのチェルノブイリ原子力発電所4号炉の炉心から命がけで採取された高レベル放射性廃棄物――通称『象の足』のサンプルだった。


 サンプルがチャンバー中央の測定台に静かに置かれた瞬間、管制室の壁に取り付けられた大型ガイガーカウンターが、まるで狂ったようにけたたましいアラートを鳴らし始めた。


『ガガガガガッ! ガガガガガッ! 警告! 警告! 放射線レベル毎時12,000シーベルト! 危険! 危険!』


 デジタル表示された数値は、人間が数分で致死量に達する、まさに死そのものとも言えるレベルを示していた。


「……落ち着け」


 ペトロフは動揺する若い研究員たちを制した。


「データは予測通りだ。……では次のステップへ。……『星霜菌』コロニー投入」


 別のロボットアームが、緑色に輝くゼリー状の微生物のコロニーを、ゆっくりと死のサンプルへと近づけていく。管制室の誰もが息を飲んだ。生命が死の塊に触れる、その禁断の瞬間に。


 緑色のゼリー状の微生物は、高レベルの放射線を放つ土塊に触れると、一瞬その脈動を止めたかのように見えた。


 だが次の瞬間。奇跡は起きた。


 星霜菌は、まるで最も栄養価の高い餌を見つけたアメーバのように、その黒い土塊をその緑色の体で包み込み始めたのだ。


 そして管制室を狂乱させていたガイガーカウンターのアラートが、不意にその音程を下げ始めた。


『ガガガガガッ!』

『ガガガッ……!』

『ピッ……ピッ……ピッ……』


 まるで嵐が過ぎ去り、風が凪いでいくかのように。耳障りな警告音は次第に間延びし、そしてついに穏やかなバックグラウンドノイズへと変わっていった。


 そして線量計のデジタル数字。12,000、8,000、5,000、1,000……。その数値は、まるで壊れたスロットマシンのように猛烈な勢いで下降を始めた。


 500、100、50、10……。


 数分後。管制室を支配していたのは、耳鳴りがするほどの静寂だけだった。ガイガーカウンターはもはや何の反応も示していない。線量計の数値は、モスクワの街角で計測される自然放射線量と何ら変わらないレベルまで下がりきっていた。


 そして密閉チャンバーの中。あの黒く不気味な光を放っていた黒鉛の塊は、その輝きを完全に失い、まるでただの濡れた石炭ガラのように無害な姿を晒していた。その隣で星霜菌のコロニーが、先ほどよりもほんのわずかに、しかし確実にその緑色の輝きを増し、満足げに脈打っていた。


「…………食べた……」


 ペトロフの口から、乾いた「信じられない」という響きを帯びた言葉が漏れた。


「……馬鹿な……。……放射能を『食べた』というのか……? 死の灰を養分として……? そんなことが本当に……」


 彼はその場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。


「……これは……。これは奇跡などではない……。……これは物理法則の根幹を覆す大発見だ……。……我々は……。我々はついに核の時代のその呪いを解く鍵を手に入れたんだ……!」


 その言葉が引き金だった。


 管制室は爆発的な歓声と嗚咽に包まれた。


「やった……! やったぞ!」

「信じられない……! データを見てくれ、セシウムもストロンチウムも、全て安定したバリウムとジルコニウムに変換されている!」

「神は……いや女神ロッドは我々を見捨ててはいなかった!」


 科学者たちは互いに抱き合い、涙を流し、この人類の歴史を永遠に変える瞬間の証人となったことを狂喜乱舞して喜び合った。ペトロフはその歓喜の輪の中心で、震える手で天を仰いだ。


(……ロッド様。……見ましたか。……我々はやりました。……これさえあれば。……これさえあれば世界を救える! チェルノブイリもフクシマも、そして世界中に燻る全ての核の脅威から人類を解放できる!)


 彼の純粋な科学者としての魂は、今、至上の喜びと人類への無限の愛に満たされていた。


 その歴史的な成功の報は、即座にクレムリンの主の耳へと届けられた。


 モスクワ大統領執務室。


 ウラジーミル・ボグダノフは、たった一人執務室の暗闇の中で、ペトロフ博士から送られてきた実験成功の記録映像を、その氷のように冷たい灰色の瞳で繰り返し繰り返し再生していた。


 ガイガーカウンターの数値が猛烈な勢いでゼロへと向かっていく、あの無機質なデジタル表示。宙に浮かぶ磁石(それは常温超伝導の実験が成功したことを示す別の報告映像だった)。


 彼はその地味な映像を、何の感情も浮かべない完璧なポーカーフェイスで見つめていた。だがその仮面の下で、彼の魂は熱い灼熱の溶岩のような興奮に打ち震えていた。


(……やった……。……ついにやったぞ……)


 彼の脳裏には、アレクセイ・ペトロフが夢見るような人道的な理想郷など微塵も浮かんでいなかった。彼が見ていたのは、その先にある冷徹な、そして圧倒的な「力」の未来だった。


 放射能を無害化できる。それは何を意味するか。


(……核兵器が無力化される……)


 そうだ。この微生物、あるいはその機能を応用した兵器を、敵国の核ミサイルサイロや原子力潜水艦に秘密裏に散布できたら? G7が誇る数千発の核弾頭は、ただの鉄の塊と化す。介入者が与えた『神の盾』が物理的な攻撃を防ぐというのなら、この『星霜菌』は敵の力の源泉そのものを内側から腐らせる究極の『毒』となる。


 そして何より常温超伝導。送電ロスゼロ。超強力な電磁石。


(……レールガン……。電磁シールド……。気象兵器……。その全てが現実のものとなる……!)


(……だが……)


 彼の脳裏に、あのペトロフが伝えてきた女神の言葉が蘇る。


『破壊のために使うならば星そのものが牙を剥くだろう』


 ボグダノフは、そのKGB時代から培われた冷徹な分析能力で、その警告の重さを測っていた。


(……ただの脅しか? それとも未知の物理法則による真実の警告か? ……ペトロフのような純粋な科学者だからこそ、あの女神は接触してきたのかもしれん。……ならばあの男の純粋さを利用するしかない)


 彼は自らの内に燃え盛る軍事利用への渇望を、理性の氷で深く深く沈めた。


(……焦ってはならん。……今この技術の存在を世界に知られればどうなる? G7も中国も、この『宝』を奪うためにあらゆる手段を講じてくる。諜報戦、サイバー攻撃、そして最後には軍事介入すら辞さないだろう。今のロシアに、全世界を敵に回してこの奇跡を守り抜く力はまだない)


(……ロシアにもチャンスが巡ってきたか……? そうだ、これはチャンスだ。だが最強の切り札は最後まで隠し持つべきだ。……ペトロフの言う通りまずは『平和利用』という名の盾を掲げ、世界を欺き時間を稼ぐ。……その水面下でこの力の正体を完全に解明させ、制御下に置く。……そして世界が我々をただの環境浄化の便利屋だと油断しきったその時こそが……)


 彼の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。


 その日の午後、ペトロフ博士はクレムリンへと緊急召喚された。彼は人類の救世主としての栄光を胸に、大統領執務室の扉をくぐった。


 ボグダノフは彼を、まるで長年の友人を迎えるかのように温かく出迎えた。


「素晴らしいぞアレクセイ・イワノヴィッチ!」


 ボグダノフはペトロフをファーストネームで呼び、その両肩を力強く掴んだ。


「君はまさに現代の奇跡だ! 君の功績はこのロシアの歴史に、いや人類の歴史に永遠に刻まれるだろう!」


 その最大限の賛辞に、ペトロフは感涙にむせんだ。


「か、閣下…! もったいないお言葉です…!」


「閣下! つきましては今こそ、この素晴らしい成果を世界に公表すべきです! G7の『鋼鉄の福音』や中国の『豊穣の龍鱗』に対し、我々ロシアは『大地の浄化』という最も崇高な答えを示すことができます! これで世界は一つになれるのです!」


 彼はその純粋な理想を熱弁した。


 ボグダノフはその言葉を、実に真摯な表情で最後まで聞き入った。そして深く深く頷いた。


「……博士。君の言う通りだ。……その理想はあまりにも気高く、あまりにも正しい」


 彼はそこで一度言葉を切った。そしてその顔に、まるで世界中の苦悩を一人で背負ったかのような深い悲しみの色を浮かべた。


「……だがアレクセイ。……世界はまだ君のその理想に追いついてはいないのだよ」


「……え?」


「考えてもごらん」


 とボグダノフは諭すように言った。


「この核の呪いを解くという究極の奇跡を、今我々が公表すればどうなる? ……G7の友人たちや中国の隣人たちが、本当に諸手を挙げて喜んでくれると君は本気で思うかね?」


 ボグダノフの目は、冷徹なリアリストのそれに戻っていた。


「……彼らは喜ぶどころか恐れるだろう。……この力が彼らの核抑止力を無効化する究極の兵器であると、瞬時に気づくだろう。……そして彼らはこの奇跡の芽を、それが育つ前に摘み取ろうとあらゆる手段を講じてくる。……我々は世界中を敵に回すことになるのだ。……今のロシアに、その覚悟が、その力があると思うかね?」


 そのあまりにも現実的な、そして説得力のある指摘に、ペトロフは言葉を失った。


「……それに」


 とボグダノフは続けた。


「女神ロッドの警告を忘れたかね? 『星が牙を剥く』。……この技術はまだあまりにも未知で、あまりにも危険だ。……万が一悪意ある者の手に渡り、制御不能な事態を招けば、それこそが星の怒りを買うことになる。……我々は人類の未来のために、この奇跡を我々ロシアが責任を持って『守り育てる』義務があるのだ」


 彼はペトロフの肩に再びその手を置いた。


「……君の理想は分かる。……だが今はまだその時ではない。……まずはこの力の全てを我々の手で完全に解明し、制御下に置くことが先決だ。……世界を救うのはそれからでも遅くはないだろう」


 その大義名分。女神の警告を逆手に取った完璧なまでの論理。


 ペトロフは、自らの理想があまりにも無邪気で世間知らずであったことを恥じるしかなかった。


「……………」


「……閣下……。……おっしゃる通りです。……私の考えが浅はかでした……」


「いや君は間違っていない」


 とボグダノフは優しく言った。


「その純粋さこそが君の最大の武器だ。……だからこそ私は君を信じる」


 彼は厳かに命じた。


「――アレクセイ・ペトロフ所長に国家最高機密レベル『アルファ』の権限を与える。……『ロシアン・アーク研究所』の全研究成果の公表を、私が許可するその時まで厳禁とする。……研究は現在の体制をさらに拡大し続行せよ。……特に常温超伝導のエネルギー分野への応用。……そちらの研究も加速させるのだ。……いいね?」


「…………はっ! 御意に!」


 ペトロフはもはや何の疑いも抱いていなかった。世界を救うという理想が、人類の未来を守るというより大きな責任へと昇華されたのだと彼は信じていた。彼は大統領の(表向きの)慎重さと、女神の警告の重さを改めて認識し、その厳命を忠誠と共に受け入れた。


 アレクセイ・ペトロフが新たな使命感に燃えて執務室を去った後。


 ボグダノフは一人、デスクの上に置かれた『シベリアの星霜菌』のサンプル(レプリカ)を指先で静かになぞった。


(……ロシアにもチャンスが巡ってきたか……?)


 彼の口元に、氷のような、しかし深い満足感を湛えた笑みが浮かんだ。


(……ペトロフよ励むがいい。君が純粋な理想を追い求めれば追い求めるほど、それは我がロシアの最も強力な『盾』と、そして最も恐るべき『矛』の礎となるのだからな……)


 クレムリンの冷徹な炉心は、神の火を自らの野望の燃料として静かに、しかし確実に燃やし始めていた。その炎がいずれ世界を照らすのか、それとも焼き尽くすのか、その答えを知る者はまだ誰もいなかった。

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