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過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第63話 凍土の呼び声と皇帝の算盤

 クレムリンの赤き城壁が、初冬の鉛色の空を切り取るようにそびえ立っていた。雪が音もなく舞い始め、聖ワシリイ大聖堂の玉ねぎ型のドームを薄化粧していく。その荘厳な風景とは裏腹に、大統領執務室の主、ウラジーミル・ボグダノフの心の内は、荒涼としたシベリアのツンドラのように冷たく、そして激しい焦燥感に覆われていた。


 巨大なマホガニーのデスクの後ろに深く身を沈めた彼は、その氷のように冷たい灰色の瞳で、壁に掛けられた巨大な世界地図を睨みつけていた。地図の上では、青く輝くG7の領域が日ごとにその影響力を増し、赤く脈打つ中華帝国は大陸の覇者としてその版図を誇示している。そしてその二つの巨大な力の狭間で、かつて世界を二分したはずの白いロシアの大地は、まるで忘れ去られたかのように色褪せ、孤立していた。


 彼の指先が、デスクの上に無造作に置かれた最高機密の報告書の束を、苛立たしげに叩いていた。内容は、ここ数ヶ月で世界を根底から揺るがした、あの二柱の「神」に関するものだ。西側の『介入者』、東側の『太歳』。彼らは、まるで気まぐれな神々のように、G7と中国にそれぞれ異なる奇跡の玩具を与え、世界という名のゲーム盤を、自分たちの都合の良いように塗り替えようとしている。空間拡張、サイボーグ化、神の穀物、地龍脈……。そのどれもが、旧時代の国家間のパワーバランスを嘲笑うかのような、絶対的な力だった。


(西は個人の欲望を解放し、社会を内側から腐らせる麻薬を。東は民衆を狂信させ、皇帝への絶対服従を強いる阿片を。……どちらもまともではない。だが、その力が現実である以上、無視することはできん……)


 ボグダノフは唇を噛み締めた。ロシアは、そのどちらの恩恵にも与れなかった。それは、この国が彼らの壮大な計画にとって、もはや取るに足らない存在だと見なされている証左に他ならない。かつてのアメリカとの冷戦時代、宇宙開発競争で世界をリードした栄光は、遠い過去の幻影となっていた。経済制裁は国家の血脈を細らせ、技術的な遅れは日に日に深刻化している。国内では、西側の豊かさを知ってしまった若者たちの不満が燻り、いつ爆発するとも知れない。


(このままではロシアは沈む。西に飲み込まれるか、東の属国となるか。あるいは内側から崩壊するか……)


 彼のKGB時代から培われた冷徹な分析能力が、最悪の未来予測を次々と弾き出していく。そのどれもが、ロシアという国家の尊厳と主権の喪失を意味していた。


(力が必要だ……この屈辱的な状況を覆し、ロシアを再び偉大なる国家へと押し上げる、絶対的な力が……)


 彼の渇望は、もはや個人的な野心を超えた、この国そのものの生存本能の叫びとなっていた。だが、その力を得るための具体的な道筋は、深い霧の中に閉ざされている。西にも東にも頼らず、自らの手で奇跡を起こすなど、今のロシアには不可能に近い。


(……とりあえず、このままではダメだ……。いっそのこと我が国にでも神が現れないかなぁ……。ふ、こんな事を考えるなんて、もうろくしたか……?)


 自嘲気味に息を吐き、冷え切った紅茶に口をつけようとした、まさにその時だった。執務室の重厚な扉が静かにノックされた。


「……入れ」


 ボグダノフの低い声に応じ、扉が開き、首席秘書官が緊張した面持ちで入ってきた。彼の顔には普段の冷静さはなく、何か信じがたい出来事に遭遇したかのような、隠しきれない動揺が浮かんでいた。


「大統領閣下……緊急のご報告が。科学アカデミー極地研究所のアレクセイ・ペトロフ博士がシベリアより戻られました。……そして、信じがたい発見をされたと。いえ、遭遇したと……」


 ボグダノフの眉がわずかに動いた。ペトロフ。あの、シベリアの凍土に奇妙な地磁気パルスが発生していると報告してきた、少し風変わりな地質学者か。非科学的として報告を保留させていたはずだが、一体何を?


(……まさかな……)


 先ほどの自らの思考を打ち消すように、彼は冷ややかに問い返した。


「……ほう。それでそのペトロフとやらは、一体何に『遭遇』したというのだ? まさかシロクマにでも挨拶されたとでも言うのではあるまいな?」


 だが、秘書官の次の言葉は、そのボグダノフの冷徹な仮面の下に、本物の驚愕を走らせた。


「……それが閣下……。ペトロフ博士によれば……。『女神』に遭遇したと……。そしてその女神から『奇跡の種子』……いえ、生命そのものを授かったと、そう……」


 女神? 西の神、東の神に続き、ついに我がロシアの大地にも神が現れたというのか? しかもその性質は、介入者や太歳とは異なり、地球、大地そのものの意思だと……? 先ほどまでの自嘲が現実のものとなったというのか?


(……面白い……実に面白い……)


 彼の口元に、氷のような、しかし深い興味を隠せないわずかな歪みが浮かんだ。これは単なる偶然か? それとも、このロシアにもたらされた、天からの、あるいは地の底からの新たな啓示なのか?


「……通せ。そのペトロフとやらを、今すぐここに」


 数分後、アレクセイ・ペトロフ博士は、まるで極地のブリザードから命からがら生還した探検家のような、憔悴しきった、しかしその目の奥に異様なまでの熱を宿した姿で、大統領執務室の重厚な絨毯の上に立っていた。旅の汚れもそのままの防寒服、凍傷になりかけた頬。だがそれ以上に、彼の全身から放たれているのは、人知を超えた、何か神聖なまでの存在に触れてしまった者の、畏怖と興奮が入り混じった異様なオーラだった。


「……さて、ペトロフ博士」


 ボグダノフの静かな声が沈黙を破った。「君がシベリアの雪原で見たという『女神』とやらの話、詳しく聞かせてもらおうか。……願わくば、君の精神が極度の疲労と寒さによって、何らかの幻覚を見ていないことを祈るがね」


 その声には、依然として疑念と冷ややかさが含まれていたが、同時に、自嘲した願いが現実になったことへの、わずかな、しかし確かな期待感も滲んでいた。


 アレクセイは深呼吸を一つした。そして、まるで自らの体験を反芻するかのように、ゆっくりと、しかし力強く語り始めた。あの第7観測基地のラボに突如として現れた、オーロラと大地の色を纏った女神ロッドの姿。彼女が告げた、自らがこの星の声であるという自己紹介。そして、彼が観測していた謎の地磁気パルスが、地球自身の目覚めの胎動であるという衝撃的な事実。


 彼は震える手で、厳重に密封された特殊なクライオコンテナを、ボグダノフのデスクの上に置いた。


「……これが、女神が我々に示された、その証拠です、閣下」


 コンテナの覗き窓からは、内部に収められた緑色に輝き、微かに脈打つゼリー状の物質『シベリアの星霜菌』の姿が見えた。それは、この世の物とは思えないほどの、妖しいまでの生命力と、未知のエネルギーを放っていた。


 ボグダノフは、その緑色の光を値踏みするように、鋭い視線で見つめた。彼の脳内では、ペトロフの報告の真偽と、この物質が持つ潜在的な価値が、高速で計算されていた。


「……そして女神は、我々に二つの奇跡の可能性を示唆されました」


 とアレクセイは続けた。彼の声は、科学者としての興奮で、わずかに上擦っていた。


「一つは、この微生物が常温で完全な超伝導状態を実現する、未知の物質を生成すること。……これにより、我が国は世界のエネルギー問題を根本から解決する鍵を手にすることになります。送電ロスゼロ、超強力な電磁石……その応用範囲は計り知れません」


 常温超伝導。その言葉だけで、ボグダノフの心臓は大きく高鳴った。G7がサイボーグ技術で生産性を向上させ、中国が地龍脈で物流を支配するというのなら、ロシアはエネルギーで世界を牛耳る。それは、かつての石油と天然ガスによる支配とは比較にならない、絶対的な優位性を意味する。


「……そしてもう一つは」


 アレクセイの声が、さらに熱を帯びた。


「この微生物が放出する特殊なエネルギーが、放射性物質を無害な元素へと分解する力を持つことです。……チェルノブイリ、核廃棄物、原子力潜水艦……我が国が長年抱えてきた負の遺産を、完全に浄化できるのです。これは環境問題の解決であると同時に、我が国の国際的なイメージを刷新する、またとない機会でもあります!」


 その二つの奇跡の可能性。それは、ボグダノフが想像していた以上に巨大で、そして魅力的だった。これさえあれば、ロシアは西側にも東側にも依存せず、独自の力で復活を遂げることができる。いや、それどころか、世界の新たな覇者となることすら可能かもしれない。だが、彼の脳裏には、女神が残したという警告の言葉が引っかかっていた。


「……だが博士」


 ボグダノフは静かに問いかけた。


「その女神とやらは、警告も残していったそうだな。『破壊のために使うな』『星が牙を剥く』と。……それは一体どういう意味だと、君は解釈する?」


 その問いに、アレクセイは一瞬言葉に詰まった。彼はロッドの言葉の重みを、真摯に受け止めていた。


「……それは……」


 彼は慎重に言葉を選んだ。


「文字通りの警告かと存じます、閣下。この微生物が持つ力は、我々の想像を遥かに超えている。エネルギー応用も放射能分解も、そのメカニズムはまだ全くの未知です。もし我々がその力を性急に、あるいは軍事的な目的で利用しようとすれば、予測不能な、あるいは破滅的な結果を招く可能性があると。……例えば、地殻変動を誘発したり、あるいは制御不能なエネルギー暴走を引き起こしたり……。女神は我々に、その力に対する畏敬の念を持つよう、強く求めておられました」


 その、あまりにも真摯な、そして科学者としての誠実さに満ちた解釈。


 それを聞いたボグダノフは、数秒間黙ってアレクセイの顔を見つめていた。


(……なるほど。この男は狂信者ではない。むしろ臆病なほどに慎重だ。……そして神の言葉を、文字通りに受け止めている……)


 その事実は、ボグダノフにとってむしろ好都合だった。この男ならば暴走することなく、着実に研究を進めるだろう。そして、その研究成果を最終的にどう利用するかは、自分が決めれば良い。


「……分かった、ペトロフ博士」


 ボグダノフは、ふっとその表情を和らげた。それは、氷の皇帝がほんの一瞬だけ見せた、計算された理解者の微笑みだった。


「君のその慎重さ、そして科学者としての誠実さ。……しかと受け止めた。……女神の警告は、我々も重く受け止めねばなるまい。警告は聞いてた方が良いな。とはいえ……軍事利用はしたいが……しばらくは控えておくか……」


 その独り言のような呟きは、アレクセイの耳にも届いた。彼は、大統領が女神の警告を真剣に受け止めてくれたことに、安堵の表情を浮かべた。


「君の発見は、我が国の、いや世界の未来を左右する、まさに天からの啓示だ」


 とボグダノフは続けた。その声は、絶対的な確信に満ちているかのように聞こえた。


「君には、この研究の全てを任せたい。……君を所長として、国家の総力を挙げた新たな研究機関を、今この瞬間に設立する。予算も人員も、全て君の意のままになるだろう。場所は、そうだな。バイカル湖畔に世界最高の研究施設を建設しよう。あの女神の瞳の色と同じ、清らかな水のほとりで、君の偉大なる研究を心ゆくまで進めるがいい」


 その破格の待遇と、詩的なまでの言葉。アレクセイは、もはや感激に打ち震えていた。


「……か、閣下……! ありがとうございます! このアレクセイ・ペトロフ、この身命を賭して必ずやご期待に応えてご覧にいれます!」


 彼は深々と頭を下げた。


「うむ。期待しているぞ、博士」


 とボグダノフは頷いた。そして彼は最後に、まるで厳格な、しかし期待をかける上司が部下に語りかけるかのような、落ち着いた口調で付け加えた。


「……女神の警告は、常に心に留めておくように。……我々は焦ってはならない。まずはこの奇跡の生命体の性質を、徹底的に理解することが先決だ。……その上で、エネルギー、環境、医療……あらゆる分野への平和的な活用を模索するのだ。……いいね?」


 その「平和的な活用を模索しろ」という明確な指示。それは、アレクセイの純粋な理想主義を、完璧なまでに後押しするものだった。


「…………はっ! 肝に銘じます!」


 アレクセイは力強く頷いた。


「よろしい。……では下がって準備を進めたまえ。……君の、そして我がロシアの、新たなる時代の始まりだ」


 ボグダノフはそう言うと、静かにアレクセイに背を向け、再び窓の外の曇り空へとその視線を戻した。


 アレクセイは深々と一礼すると、夢見心地のような、しかし新たな使命感に燃える足取りで執務室を後にした。彼の心の中には、自らの研究が国家の未来を救うのだという、一点の曇りもない確信だけがあった。


 一人になった執務室で、ボグダノフは壁の世界地図の前に立った。そして、その白いロシアの大地を、指先でゆっくりとなぞった。


「……女神か。……地球の意思か。……面白い」


 彼の口元に、再びあの氷のような、しかし深い計算を秘めた笑みが浮かんだ。


「……警告は警告として受け取っておこう。……平和利用、結構。まずはそれで世界を欺いてやろう。……だが力は力だ。……そして、その力を最終的にどう使うかを決めるのは神ではない。……この私なのだからな」


 彼は内線電話のボタンを押した。


「――科学アカデミー議長か。……ペトロフ博士の研究に、国家の総力を挙げて支援する。……ただし、研究の進捗とその全てのデータは、FSBを通じて逐一、私に直接報告するように。……彼には悟られるなよ」


 彼の声は静かだった。だがその声には、目覚めた熊が自らの爪を研ぎながら獲物チャンスを待つような、恐るべき響きが宿っていた。


(……ロシアにもチャンスが巡ってきたか……?)


 シベリアの凍土の下で目覚めた奇跡は、クレムリンの冷徹な炉心の中で、静かに、しかし確実に、その力を蓄え始めていた。それは、人類を救う福音となるのか。それとも、世界を再び凍てつかせる絶対的な力の象徴となるのか。


 その運命の歯車は、今、静かに回り始めたばかりだった。

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