第39話 神の工廠と、子供たちの渇き
あの日、G7と世界の宗教指導者たちが共に壇上に立ち、人類の孤独の終わりを宣言してから、季節は一つ巡っていた。
世界は、熱狂の祭りの季節を終え、新たな現実――宇宙には我々以外の隣人がいるという、あまりにも巨大な常識――を、驚くほどの速さで日常の風景へと溶け込ませていた。それは、まるでかつての人類が天動説から地動説へとその世界観をシフトさせた時のように、最初は天変地異のような衝撃であったものが、いつしか当たり前の知識として人々の間に根付いていくプロセスに似ていた。
子供たちは当たり前のように宇宙人の絵を描き、学校では「星間倫理学」なる新しい科目が試験的に導入され、テレビのゴールデンタイムでは、著名な物理学者がタレントたちと笑顔でワームホールの可能性について語り合う。世界は、かつてないほどの科学ブームと、穏やかな楽観主義に包まれていた。
そして、その平和で輝かしい新時代の震源地であり、聖地として、世界中の羨望と畏敬の念を一身に集めている場所。それこそが、日本だった。
富士の樹海の地下深く、CISTの巨大な地下施設。その最も奥深くに存在する『第一医療実証棟』、通称『サンクチュアリ』は、もはや単なる研究施設ではなかった。それは、世界中から寄せられる絶望を希望へと変える、現代のルルドの泉。奇跡を生み出す、神の工場と化していた。
「――素晴らしい……! なんということだ……! 聞こえる……。聞こえます、先生! あなたの声が、鼓膜ではなく、私の頭の中に直接……!」
純白の無菌室の中央、医療用ベッドに横たわったまま、涙を流して歓喜の声を上げるのは、高名な指揮者だった老人だ。彼は、数年前に聴力を完全に失い、音楽家としての生命を絶たれていた。だが今、彼の側頭部に埋め込まれた掌サイズの銀色のディスク――音波を直接脳の聴覚野に伝達する『聴覚インプラント』が、彼に再び音のある世界を取り戻させたのだ。それも、かつての生身の耳では決して捉えることのできなかった、オーケストラの個々の楽器の繊細な倍音成分までをも、完璧に聞き分けることができる神の耳として。
ガラス張りの観察室からその光景を見つめていたCIST室長、的場俊介は、込み上げてくる感動を必死に堪えながら、隣に立つ湯川教授に小さく頷いた。
「……成功ですね、先生」
「ええ」と湯川教授も、その老いた顔を満足げに綻ばせた。
「これで、臨床試験の成功例は三百件を超えました。手足を失った者、視覚や聴覚を失った者、そして内臓に重篤な疾患を抱える者……。我々が『鋼鉄の福音』と呼ぶこの代替装備技術は、その全ての絶望に対して、完璧な答えを提示し続けております」
そうだ。
あの日、介入者が気まぐれのように残していった二つの神の遺物――黒の『サイボーグ化ポッド』と白の『医療用ポッド』――は、CISTの科学者たちの不眠不休の努力の末、今や、完全にその運用方法が確立されていた。
世界中から、藁にもすがる思いで日本にやってきた、あらゆる治療法を尽くした難病患者や重度の身体障碍者たち。彼らは、この地下の聖域で、まるで魔法のようにその失われた身体機能を取り戻し、涙と共に自国へと帰っていく。その一人一人の奇跡の物語が、連日、世界中のメディアによって感動的なドキュメンタリーとして報道され、日本という国家の国際的評価は、もはや神格化に近いレベルにまで高まっていた。
「日本は、神に選ばれた国だ」
「彼らは、その力を独占することなく、世界中の苦しむ人々のために使ってくれている」
「我々は、日本の友人たちに感謝しなければならない」
そんな賞賛の声が、国連総会の議場から、発展途上国の小さな村のラジオから、そしてインターネットのSNSの隅々から、まるで祈りの言葉のように聞こえてくる。日本のソフトパワーは、かつての経済大国としてのそれとは比較にならない、絶対的な道義的権威を手に入れたのだ。
そして、その副産物として、CISTには莫大な富が流れ込んでいた。
「……財務大臣が、お喜びになりますな」
湯川教授が、少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「奇跡の治療を受けたアラブの石油王や、アメリカのIT長者たちからの感謝の寄付金が、雪崩のように送り込まれてきております。……正直、我がCISTの年間の国家予算を、それだけで賄えてしまえるほどの額です。……おかげで我々も、金の心配をすることなく、研究に没頭できるというわけですな」
「ええ……」
的場は、複雑な表情で頷いた。そうだ。この代替装備技術、特に医療目的での運用は、驚くほど低コストで実現できた。ポッドが要求するレアメタルの消費量も、高度な義肢や人工臓器を一つ製造するのに、ほんの数グラム程度。それは、裕福な患者からの寄付で提供される現物や資金で、十二分に賄えるレベルだった。
日本の政府は、もはや福祉や医療に国家予算を割く必要がなくなりつつあった。神の技術が、民間の善意という名の潤滑油を得て、勝手に社会の綻びを修復し始めているのだ。
それは、あまりにも美しく、あまりにも完璧な理想郷の実現に見えた。
少なくとも、表向きは。
その華々しい光の舞台の、遥か地下深く。
CISTの施設の中でも、その存在がトップシークレットとされる、もう一つの聖域。
『第二軍事技術研究棟』、通称『タルタロス(奈落)』。
その場所では、光の世界とは全く異なる、冷たく、そして危険な炎が燃え盛っていた。
分厚い鉛の壁に囲まれ、外部とは物理的にも電子的にも完全に遮断された、窓一つない巨大なドーム状の演習場。その中央に、一体の人影が静かに立っていた。
陸上自衛隊・特殊作戦群から選抜された、日本初の強化兵士。コードネーム、『ヤタガラス』。
彼の外見は、常人と変わらない。だが、その皮膚の下に隠された両腕、両脚、そしてその眼球と鼓膜は、神の工廠で生み出された軍事用の代替装備へと換装されていた。
その彼の前に、十二人の屈強な男たちが、最新鋭の暗視ゴーグルを装着し、特殊消音器付きの自動小銃を構え、完璧な戦闘隊形でじりじりと包囲網を狭めていた。彼らもまた、自衛隊の精鋭中の精鋭、特殊作戦群の隊員たち。日本の国防の、まさに刃の先端を担う男たちだった。
これは、演習だった。
一人の超人と、十二人の最強の人間との、究極の鬼ごっこ。
演習場の照明が、不意に全て落とされた。
絶対的な闇。人間の目では、指一本見ることのできない漆黒の世界。
だが、ヤタガラスの世界は違った。
彼の義眼が、瞬時に暗視モードへと切り替わる。周囲の熱源を感知し、十二人の敵兵の姿が、まるで幽鬼のように緑色の輪郭となって、彼の視界に鮮明に浮かび上がった。壁の向こう側で息を潜める兵士の心臓の鼓動すら、彼の強化された鼓膜は、正確に捉えていた。
彼の視界の隅には、敵兵一人一人の位置情報、距離、そして推奨される攻撃ルートが、無機質なデジタル数字として表示されている。
『――演習開始』
コントロールルームからの冷たい合成音声が、合図だった。
次の瞬間、ヤタガラスの姿が消えた。
いや、消えたのではない。人間の動体視力では到底捉えきれない速度で、彼は闇の中を疾走したのだ。
音も、気配も、一切ない。
包囲網を敷いていた特殊部隊の隊員の一人が、首筋に冷たい何かを感じた。
「!?」
彼が振り返るよりも速く、ヤタガラスの鋼鉄の指先が、彼の首の後ろにある急所を、的確に、しかし死なない絶妙な力加減で突いた。
「ぐっ……!」
声にならない呻きを上げて、精鋭兵士は崩れ落ちる。
他の隊員たちが、その異変に気づき、一斉にその方向へと銃口を向けた。
だが、そこにヤタガラスの姿は、既になかった。
彼は、まるで闇に溶け込んだ亡霊のように、次々と兵士たちの背後に出現し、その一人一人を、まるで子供の手をひねるかのように、静かに、そして確実に無力化していく。
パニックに陥った隊員たちが、やみくもに曳光弾を乱射する。赤い光の筋が、闇の中を無数に交錯する。
だが、その銃弾の雨の中を、ヤタガラスは、まるで踊るかのように、その全てを紙一重で見切り、回避していく。彼の義眼に内蔵された弾道計算コンピュータが、全ての銃弾の軌道を瞬時に予測し、彼の肉体に完璧な回避運動を指示しているのだ。
彼は、壁を蹴り、天井を走り、そして重力という概念すら嘲笑うかのような三次元的な機動で、戦場を支配した。
「……残り、一名」
ヤタガラスの口から、初めて感情のない声が漏れた。
最後の生き残りとなった隊長が、背中を壁につけ、荒い呼吸を繰り返しながら、必死に闇の中の気配を探っていた。額からは、脂汗が滝のように流れている。
(……どこだ……!? どこにいる……!?)
(化け物め……! あれは、もはや人間ではない……!)
その彼の思考を読み取ったかのように、彼の真上の天井から声がした。
「――そこまでだ」
隊長が、はっと顔を上げる。
そこには、逆さまになったヤタガラスが、まるで蜘蛛のように天井に張り付いていた。
そして、ゆっくりとその鋼鉄の腕を、彼に向かって伸ばしてきた。
絶望的な光景。
演習は、わずか三分で終了した。
そのあまりにも一方的で、あまりにも信じがたい戦闘の記録映像を、『タルタロス』のメインコントロールルームで、日本の指導者たちは、息をすることも忘れ、ただ見つめていた。
最初に歓喜の声を上げたのは、やはり防衛大臣の鬼塚だった。
「―――見たかッ!!!! 見たか、諸君ッ!!!!」
彼は、椅子から立ち上がり、その武骨な顔を興奮で真っ赤に染めながら、絶叫した。
「これだ! これこそが、私が夢見ていた光景だ! たった一兵で、我が国最強の特殊部隊を、赤子の手をひねるかのように壊滅させた! ……これこそが、我が国の新しい剣! 神の雷だ!」
その熱狂に、財務大臣の大蔵も、冷徹な計算を働かせながら、同調した。
「……素晴らしい……。そしてこの『強化兵士』は、全身を兵器化した『完全なサイボーグ兵士』とは違い、医療用パッケージの応用で製造できる。……つまり、レアメタルの消費も、比較的少ない。……これならば、量産も可能だ。……一個師団、いや、一個軍団を編成することすら、夢ではない……!」
そして、郷田総理は。
その老獪な顔に、深い、深い満足の笑みを浮かべていた。
「……うむ。……実に頼もしい駒だ。……この『ヤタガラス』が百人いれば、もはや我が国に地上軍は、不要となるかもしれんな。……いや、それどころか……」
彼の目は、もはや日本の国土ではなく、その向こうにあるアジア大陸の広大な版図を睨んでいた。
「……この力を使えば、アジアのパワーバランスを、我々に有利な形へと再構築することも、不可能ではあるまい……」
その、あまりにも危険な野望の囁き。
だが、彼らはすぐに厳しい現実に引き戻された。
「……お待ちください、総理。皆様」
コントロールルームの隅で、CISTの軍事研究部門のトップである白髪の老科学者が、重い口調で報告を始めた。
「……確かに、『強化兵士』計画は驚くべき成功を収めました。……ですが、これはあくまで『部分的な成功』に過ぎません。……我々は、この半年、介入者様から与えられた『サイボーグ兵士化パッケージ』の本格的な解析も進めてまいりましたが、そこで二つの絶望的な『壁』にぶち当たっております」
「壁だと?」
鬼塚が、訝しげに問い返す。
「はい」と老科学者は、頷いた。
「第一に、『資源の壁』です。……シミュレーションによれば、あのパッケージに含まれる『光学迷彩ユニット』や『重火器ユニット』といった高性能な兵装を、あの黒いポッドで一つでも製造しようものなら、我が国の年間のレアメタル産出量の、数年分に匹敵する量を、一瞬で消費してしまいます。……今の我が国の資源量では、完全なサイボーグ兵士の軍団など、夢のまた夢。せいぜい、数体作るのが限界でしょう」
その報告に、閣僚たちの顔が曇った。
「そして第二に」と老科学者は、続けた。
「より深刻なのが、『人体の壁』です。……我々のシミュレーションでは、たとえ資源の問題をクリアできたとしても、現在の人類が、あのパッケージの兵装を全身に装備した場合、その肉体と精神が、そのあまりにも強大な負荷に耐えきれず、100%の確率で自滅するという結論が出ております。……肉体は内部から崩壊し、精神は情報の奔流に耐えきれず、発狂する。……つまり、今の我々人類は、神の鎧を着る資格すらない、ひ弱な赤子だということです」
その、あまりにも無慈悲な宣告。
せっかく手に入れたと思った究極の兵器の設計図は、今の自分たちには到底作ることのできない、絵に描いた餅だったのだ。
「……なんだと……!」
鬼塚が、悔しさに奥歯をギリリと鳴らした。
「……神は、我々に究極の兵器の設計図を見せびらかしながら、その材料と、それを着こなすための肉体を取り上げたというのか……! なんという、なんという生殺しだ……!」
その、絶望的なまでの報告。
それが、この半年間、日本の指導者たちが水面下で直面していた、厳しい現実だった。
人道支援という華々しい光の裏側で、彼らは軍事力という名の究極の力を求め、そして、そのあまりにも高い壁の前に、ただただ絶望していたのだ。
郷田は、腕を組み、深く、深く考え込んでいた。
そして彼は、まるで天啓を得たかのように、はっと顔を上げた。
「…………いや、待て」
彼は、静かに言った。
「……これは、生殺しなどではない。……これは、介入者様が我々に与えてくださった、新たなる『試練』なのだ」
「……試練、ですと?」
「うむ」と郷田は、頷いた。
「……思い出してみろ。……介入者様は、かつて我々にこう仰った。『物質をゼロから創り出す技術もあるが、まだ君たちには早い』と。……そうだ。……我々が今ぶつかっているこの『資源の壁』と『人体の壁』。……その答えは、全てその先にあるのだ!」
彼の目に、再び狂信的なまでの野心の炎が灯った。
「……我々が今やるべきことは、ただ一つ! ……介入者様に、我々がこの『強化兵士』というオモチャをいかに上手く使いこなせるかを見せつけ、そして、我々が次のステージに進むにふさわしい成熟した文明であることを、証明してみせることだ! ……そうすれば、必ずや介入者様は、我々に次なる福音――資源を生み出す究極の技術と、そして神の鎧に耐えうる肉体を手に入れる方法を、お授けくださるに違いない!」
そのあまりにもご都合主義的な、しかし希望に満ちた解釈。
それは、絶望の淵にいた閣僚たちの心を、再び奮い立たせるには十分すぎた。
そうだ。
これは、試練なのだ。
これを乗り越えれば、我々は本当の神の力を手にすることができる。
彼らの渇きは満たされるどころか、目の前にぶら下げられた新たなニンジンによって、さらに、さらに増大していく。
その人間たちの愚かで、しかしどこか健気ですらある欲望の饗宴を、ただ一人、CIST室長の的場俊介だけが、冷え切った心で見つめていた。
彼は、気づいていた。
この国が、もはや後戻りのできない危険な坂道を、猛スピードで転がり始めていることに。
人道支援という名の甘い蜜に酔いしれ、軍事力という名の猛毒を渇望する。
その、あまりにも歪んだ二面性。
その危ういバランスが崩れた時、この国は、そして世界は、一体どうなってしまうのか。
彼は、その恐ろしい未来を幻視し、ただ静かに唇を噛み締めることしかできなかった。
人類は、神の玩具箱から、一つの輝かしい玩具を手に入れた。
だが、その箱の底には、まだ開けてはならない、さらに強力で、さらに危険な玩具が、静かに眠っている。
子供たちは、その存在を知ってしまった。
彼らの飽くなき渇きが、その最後の蓋を開けてしまう日は、そう遠くないのかもしれない。




