第25話 王たちの共犯と、地獄への招待状
ペンタゴンの地下司令室、「タンク」。
その鋼鉄の壁に囲まれた密室で、人類の歴史上最も重い決断が下された後の空気は、奇妙な静けさと、一種の諦観にも似た異様な高揚感に満ちていた。西側世界の七人の指導者たちは、自らが漕ぎ出す船が、穏やかな港ではなく、歴史という名の荒れ狂う大嵐の海へと向かうことを、今や完全に理解していた。後戻りはできない。彼らは、運命の共犯者となったのだ。
「――まあ、なんとかなるだろ……!」
誰かが吐き出したその投げやりな一言が、この場の空気を的確に表現していた。恐怖と絶望を一周して、一種のランナーズハイに似た精神状態に、彼らはあった。もはや恐れるものは何もない。どうせ世界は変わってしまうのだから。
アメリカ大統領ジェームズ・トンプソンは、空になったコーヒーカップをテーブルに叩きつけるように置くと、その憔悴しきった、しかしどこか吹っ切れたような顔を上げた。
「よし。……決まったな。……我々は真実を公表する。……では諸君。ここからが本当の地獄の始まりだ。……この人類史上最大にして、最も危険な発表を、どのように、いつ、誰が行うのか。……具体的な計画を、今から立てるぞ」
その言葉を皮切りに、先ほどまでの哲学的な激論が嘘のように、会議は極めて事務的で冷徹な戦略立案のフェーズへと移行した。
最初に口火を切ったのは、イギリスの首相だった。彼は、まるでチェスの盤面を眺めるかのように、慎重に言葉を選んだ。
「発表の形式ですが……これは我々G7が一堂に会し、共同で声明を発表するという形以外に、ありえませんな。一国、例えばアメリカだけ、あるいは日本だけが発表すれば、必ず『他の国を出し抜いて主導権を握ろうとしている』という憶測を呼ぶことになる。我々は、一枚岩であることを世界に示さねばならない」
その意見に、異を唱える者はいなかった。
「同感だ。G7全員で発表しよう。ワシントン共同宣言の時のように、我々が肩を並べて立つ姿を見せるのだ。我々が、この人類の新たな時代を共に導いていくのだという、力強いメッセージを世界に発信する」
カナダの首相が、力強く頷いた。
「場所は、ここワシントンD.C.が最適だろう。世界の注目が、最も集まる場所だ。あるいは、中立性を示すために、国連本部のあるニューヨークか……」
「いや、ワシントンでいい。これは我々G7の主体的な決断なのだということを、明確に示すべきだ」
次々と、具体的な計画が形作られていく。
発表の時期はいつか。内容の文面は、誰が起草するか。各国のメディアへの事前通告は、どうするか。
その一つ一つの議題が、まるで時限爆弾の処理のように、慎重に、そして神経質に進められていく。
そして、議論が最も重要な核心部分へと差し掛かった。
ドイツのシュミット首相が、その冷静な目で円卓を囲む男たちを見回した。
「……さて。共同で発表するというのは良いでしょう。ですが、その声明を最初に読み上げるメインの発表者は、誰が務めるべきか。……これは、極めて重要な問題です」
その一言が、部屋の空気を再び張り詰めさせた。
そうだ。
誰が、その口で人類の常識を終わらせるのか。
誰が、歴史の教科書に「世界を変えた男(あるいは女)」として、その名を永遠に刻む(あるいは悪名として刻まれる)のか。
その栄光と呪いを、一身に引き受けるのは誰なのか。
一瞬の沈黙。
誰もが、互いの顔色を探り合っている。
その重苦しい空気を最初に破ったのは、フランスのデュボワ大統領だった。
彼は、まるで当然の結論を述べるかのように、あっさりと、そしてどこか芝居がかった仕草で言った。
「――何を今さら。……それは決まっているではありませんか」
彼は、その視線をまっすぐにアメリカ大統領ジェームズ・トンプソンへと向けた。
「この自由主義世界のリーダー。……そして、この歴史的な会合のホスト役を務めてくださっている我らが友人。……トンプソン大統領、あなた以外にこの大役を務められる方が、どこにおられましょうか?」
そのあまりにも見事な、そしてあまりにも狡猾なパス。
トンプソンの顔が引きつった。
(……き、貴様……!)
内心の悪態が顔に出るのを、彼は必死で堪えた。
だが、デュボワのパスは完璧なアシストとなって、他の指導者たちのゴールへと繋がっていく。
「おお! その通りだ!」
イギリスの首相が、待っていましたとばかりに大げさに手を叩いた。
「素晴らしいご意見だ、デュボワ大統領! まさにその通り! この人類の新たな船出の舵を取るのは、やはり世界の灯台であるアメリカ合衆国をおいて他にない! 我々は皆、あなたの後ろについていきますぞ、ミスター・プレジデント!」
「私も、全面的に賛成いたします」
今度は、ドイツのシュミットがその冷静な声で追い打ちをかけた。
「感情的なパニックを最小限に抑え、世界に理性的な対話を呼びかける。……そのためには、最も強力なリーダーシップと、最も強力な発信力が必要です。……その二つを兼ね備えているのは、この部屋ではあなただけです。……これは、あなたの歴史的な責務なのですよ」
次々と、当たり前のように自分に押し付けられていく究極の責任。
トンプソンは、もはや笑うしかなかった。
それは、怒りでも喜びでもない。
ただ、目の前で繰り広げられる、あまりにも見事な国際政治という名の責任のなすりつけ合いの光景に、呆れ果てた乾いた笑いだった。
「…………君らな……」
トンプソンは、絞り出すように言った。
その声は、震えていた。
「……こういう時だけ! こういう一番面倒で、一番割に合わなくて、一番恨まれ役になるこういう時だけ、みんなしてこのアメリカに押し付けるなよ……!」
その魂からの、悲痛な叫び。
だが、その叫びは他の指導者たちの完璧な連携プレーの前に、虚しく掻き消された。
「いやいや、何を仰いますか、大統領!」
「これは、名誉なことですよ!」
「歴史が、あなたを選んだのです!」
その口々に発せられる、無責任な激励の言葉。
トンプソンは、天を仰いだ。
そして、長く、深く息を吐き出した。
もう、何を言っても無駄だ。
これは、決定事項なのだ。
自分は、あのケネディ大統領がキューバ危機を乗り越えたように。リンカーン大統領が、奴隷解放を宣言したように。人類の新たな扉を、自らの手で開けるという、とんでもない役目を押し付けられたのだ。
「…………ああ、もう分かった! 分かったよ!」
彼は、ヤケクソ気味に叫んだ。
「……いいだろう! やってやるよ! このアメリカ合衆国大統領、ジェームズ・トンプソンが! 人類の新しい時代の幕開けを、この口で宣言してやる! ……だが言っておくが、これで世界中から石を投げられることになっても、俺は知らんからな! その時は、お前らも全員道連れだ!」
その投げやりな、しかし覚悟の決まった宣言に、他の指導者たちは満足げに頷いた。
(……チョロいもんだ)
日本の郷田は、その老獪な顔の内側で、静かにほくそ笑んでいた。
「よし。……発表者は決まった」
トンプソンは、ぐったりとした様子で椅子に深く沈み込んだ。
「……では、最後の、そして最も厄介な議題だ」
彼は、まるで地獄の釜の蓋を開けるかのような、重い口調で言った。
「……これを発表するにあたって。……我々は、あの厄介な連中とどう向き合う?」
その言葉に、部屋の空気が再び氷点下まで下がった。
誰もが、その「厄介な連中」が誰を指しているのかを、正確に理解していた。
――宗教だ。
「ジュネーブ宣言の時を思い出せ」
トンプソンは、苦々しげに言った。
「我々が、遺伝子改変とクローン技術の研究解禁を発表したあの日。……世界中の宗教指導者たちが、どう反応したか。……バチカンは、我々を『神への冒涜者』と呼び、メッカは『悪魔の所業』と断じた。……あの時は、まだ科学技術の話だった。……だから、我々は彼らの反発を『時代遅れの戯言だ』と無視することもできた」
彼は、一度言葉を切った。
そして、その場にいる全員の目を、一人一人見つめた。
「……だが、今度は違う。……我々がこれから語るのは、『神の不在』、あるいは『我々が信じてきた神とは全く別の本物の神(宇宙人)の存在』だ。……これは、彼らの存在意義そのものを、根底から揺るがすことになる。……彼らは、もはやただの声明を発表するだけでは済まさないだろう。……彼らは、自らの信者、数十億という世界最大の組織を総動員して、我々に本気で牙を剥いてくるぞ」
そのあまりにも、リアルな未来予測。
誰もが、言葉を失った。
そうだ。
ジュネーブ宣言への反発など、ほんの序曲に過ぎなかったのだ。
これから始まるのは、科学と宗教の全面戦争。
人類の精神史を、二つに引き裂く究極の内戦だ。
「……どうする? 彼らを完全に無視して、強行突破するか?」
トンプソンが問いかける。
「……いや、それは最悪の選択だ」
ドイツのシュミットが、即座に否定した。
「そんなことをすれば、我々は彼らに、殉教者としての大義名分を与えることになる。……我々は悪魔。彼らは、神の教えを守る正義の戦士。……そうなれば、世界中の敬虔な信者たちが、我々政府に対してテロ行為すら辞さないようになるでしょう。……世界は、内側から崩壊する」
「では、どうしろと!?」
トンプソンが叫んだ。
「彼らを説得できるとでも言うのか!? 『あなた方が信じてきた神は、実は宇宙人でした』などと! ……そんな話が、通用する相手か!」
「……無理だろうな」
「では、どうする!?」
議論は、再び完全な袋小路に陥った。
打つ手がない。
これは、もはや政治や外交で解決できる問題の範疇を超えている。
人類の信仰という、最も根深く、そして厄介な領域。
その聖域に、踏み込む術を誰も持っていなかった。
その絶望的なまでの沈黙の中で。
静かに、そして、まるで悪魔の囁きのようにその言葉を発したのは。
やはり、日本の老獪なる狐、郷田龍太郎だった。
「――皆様」
彼は、にこりと穏やかな、しかしその目の奥に一切の感情を読み取らせない、不気味な笑みを浮かべた。
「……なぜ、彼らを『敵』として認識するのでありましょうか?」
そのあまりにも、意表を突いた問い。
誰もが、きょとんとした顔で郷田を見つめた。
「……どういう意味だね? ゴウダ」
トンプソンが、訝しげに問い返す。
郷田は、その笑みをさらに深くした。
「……敵に回すと厄介なのであれば。……味方に引き入れてしまえば、良いのではありませんかな?」
「味方に!?」
デュボワが、素っ頓狂な声を上げた。
「無理だ! 先ほどから言っているだろう! 彼らが、我々の話に耳を貸すはずが……」
「いいえ」
郷田は、デュボワの言葉を静かに遮った。
「……話の持って行き方、次第ですよ」
彼は、まるで子供に悪戯の仕方を教えるかのように、その恐るべき計画を語り始めた。
「……まず、我々はこの究極の真実を世界に公表する前に。……極秘裏に、彼らをこのペンタゴンにお招きするのです」
「……彼らを、ここに?」
「ええ。バチカンのローマ教皇様を。カンタベリーの大主教様を。メッカの大イマーム様を。ダライ・ラマ法王様も、お呼びしましょう。……世界中の主要な宗教の最高指導者たちを、一堂にこの『タンク』に集めるのです」
そのあまりにも、大胆な発想。
誰もが息を飲んで、彼の次の一言を待った。
「そして、我々が今日そうであったように。……彼らに、全てをお見せするのです。……介入者様の、あの神々しいお姿を。……そして、我々がいかに苦悩し、葛藤し、そしてこの苦渋の決断に至ったかを、誠心誠意ご説明申し上げる」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、その目に冷たい計算の光を宿した。
「……もちろん、彼らはすぐには納得いたしますまい。……激しく反発し、我々を悪魔と罵るでしょう。……ですが、そこで我々はこう申し上げるのです」
郷田は、まるで慈悲深い神父のような、穏やかな声で言った。
「――『我々も、あなた方と同じなのです』と」
「……同じ?」
「ええ。『我々も、このあまりにも巨大な神の御心の前で、ただひれ伏すことしかできない、か弱い子羊に過ぎません。……ですが、神は、我々人類にこのあまりにも重い試練をお与えになられた。……我々政治家だけでは、この人類の魂の危機を乗り越えることは、到底できません。……どうか、あなた方、信仰の指導者の方々の、お力をお貸しいただけないでしょうか。……この混乱の時代に、人々の心を導き救うことができるのは、我々俗物の政治家ではなく、あなた方しかおられないのですから』……と」
そのあまりにも巧みな、責任の共有。
いや、責任の丸投げ。
部屋にいる全ての政治家たちが、その悪魔的なまでの話術に戦慄した。
そうだ。
敵対するのではない。
泣きつくのだ。
「助けてください」と。
そうすれば、彼らはもはや、我々を一方的に断罪することはできなくなる。
彼らもまた、この人類の魂の危機を共に背負う「当事者」となるのだから。
「……そして、我々は彼らを、この真実を公表するための準備委員会の正式なメンバーとして、お迎えするのです。……発表の時期、内容、その全てを彼らと共に協議し、共に決めていく。……そうすれば、どうです? 彼らは、もはや我々の計画の批判者ではありません。……我々の計画の、最も強力な推進者となるのではありませんかな?」
郷田は、静かにそう締めくくった。
後に残されたのは、絶対的な沈黙と。
そして、この日本の老獪なる悪魔の所業に対する、深い、深い畏怖の念だけだった。
トンプソンは、しばらく呆然と郷田の顔を見つめていた。
そして、やがてその口元に笑みが浮かんだ。
それは、もはや乾いた笑いではなかった。
同じ種類の獣だけが交わすことのできる、共犯者の獰猛な笑みだった。
「…………はっはっはっはっはっは!」
トンプソンの、腹の底からの高笑いが鋼鉄の会議室に響き渡った。
「……ゴウダ! 君は最高だ! ……いや、最高に最低なクソ野郎だ!」
彼はそう言うと、立ち上がり、郷田の前に歩み寄った。
そして、その肩を、まるで長年の悪友のように、強く叩いた。
「……気に入った! その計画、乗ってやろうじゃないか!」
彼は、円卓を囲む他の呆然とする指導者たちを見回した。
「――いいか、諸君! 我々は、彼らを味方に引き入れる! いや、違うな!」
トンプソンは、にやりと悪魔のように笑った。
「――我々は、彼らを我々の仲間にする! ……仲間、もとい……我々と一緒に、地獄に落ちてもらうのだ!」
そのあまりにも不謹慎で、しかしあまりにも的確な宣言。
それが、この混沌とした会議の最終的な結論となった。
王たちは、決断した。
地獄へと進むことを。
だが、その道行に、神の代理人たちを道連れにすることを。
人類の歴史上最も奇妙で、そして最も危険な宗教会議の招待状が。
今、静かに起草されようとしていた。
その宛先は、バチカン、メッカ、そして世界の全ての聖地。
その差出人は、G7という名の七人の悪魔たち。
人類の、長い長い夜が明けようとしていた。
その先に待っているのが、輝かしい夜明けの光なのか、それとも終末の業火なのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




