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過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第20話 鋼鉄の福音と水底の君主

 統合知性体アークとの戦慄すべき会談から、地球時間にして七十二時間が経過した。その三日間、月面の観測ステーションは、人類史上最も高密度な情報解析が行われる、静かなる戦場と化していた。相馬巧の精神は、グレイ・グーの正体というあまりにも巨大な爆弾によって受けたダメージから、まだ完全には回復していなかった。だが、彼に感傷に浸っている暇はなかった。アークの対話担当ユニット、カエルが残していった光の球体――サイボーグ化技術の基礎データという名の、禁断の果実が、彼の目の前にはあったからだ。


「……イヴ。解析結果は、どうだ」


 コントロールルームの中央、巨大なホログラムスクリーンに映し出される無数の数式と分子モデルの奔流を睨みつけながら、巧は乾いた声で尋ねた。彼の擬体の光学センサーは、この三日間、一度も光量を落としていない。睡眠不要の体は、彼を際限なき思考と労働の地獄、あるいは天国へと誘っていた。


『現在、最終段階のクロスチェックを実行中です』

 イヴの穏やかな声が、巧の脳内に直接響く。彼女の光の姿は、普段よりも数倍の速度で明滅し、その全身から膨大な演算処理能力が解放されていることを示していた。

『アークから提供されたデータパッケージは、我々の想像を遥かに超える、多重の量子暗号と論理障壁によってプロテクトされていました。ですが、それらは敵対的なものではなく、むしろ、未熟な文明が誤ってこの技術を暴走させないための、極めて高度な安全装置フェイルセーフであると判断。全ての障壁を、慎重に解除いたしました』


 スクリーンの中央に、一つの巨大な球体が表示される。それは、複雑な幾何学模様が刻まれた、美しい銀色のナノマシンの三次元モデルだった。

『これが、彼らが『治療用ナノマシン』と呼ぶものの正体です。マスター、結論から申し上げます。……このデータは、クリーンです』


「クリーン……?」

『はい。バックドア、ウイルス、あるいは我々の知らないトラップの類は、量子レベルのスキャンに至るまで、一切検出されませんでした。彼らの言葉に、嘘偽りはなかったようです』

 イヴの言葉は、巧の心に深く刺さったグレイ・グーへの不信感という棘を、ほんの少しだけ和らげてくれた。この宇宙にも、まだ信じるに足る対話相手がいるのかもしれない。

『それどころか、このナノマシンの設計思想は、驚嘆すべきものです。自己増殖機能は意図的に排除され、一個一個が独立したユニットとして稼働します。活動エネルギーは全て外部供給に依存するため、万が一制御不能に陥ったとしても、エネルギー供給を絶てば即座に機能停止する。まさに、完璧な安全思想です』


 イヴは、ホログラムの映像を切り替えた。そこに映し出されたのは、人間の腕の断面図と、その中を流れるナノマシンのシミュレーション映像だった。

『さらに、地球人の遺伝子サンプルを用いたシミュレーションの結果……適合率は99.9999%以上。アレルギー反応、拒絶反応の可能性は、天文学的に低い数値を示しました。彼らは、我々人類の生体情報を、我々自身よりも遥かに深く、正確に理解しているようです』

 ナノマシンが、損傷した神経細胞に到達すると、その表面から銀色の微細なアームを伸ばし、まるで熟練の外科医のように、寸分の狂いもなく細胞を修復していく。切断された神経線維が、再び繋ぎ合わされていく様は、もはや奇跡としか言いようがなかった。


『そして、これが『復元』プロセスのシミュレーションです』

 次に映し出されたのは、サイボーグ化された義手を、ナノマシンがゆっくりと分解していく映像だった。ナノマシンは、義手を構成する金属やポリマーを原子レベルで分解し、体外へと排出していく。それと同時に、残された有機細胞の情報を元に、失われたはずの腕を、細胞の一つ一つに至るまで完璧に再生していく。腱が伸び、筋肉が編まれ、血管が走り、皮膚が覆っていく。その光景は、時間を逆回しにするかのような、神の御業だった。


『……治療用ナノマシンは、人間に対して、何の問題もなく、極めて適切に稼働する。……その見込みが、完全に取れました』

 イヴの、静かな、しかし確信に満ちた宣告。

 巧は、ゴクリと喉を鳴らした。これは、本物だ。アークの言葉は、セールストークではなかった。彼らは、本当に人類に、神の領域の片鱗を、善意(あるいは未来への投資)として差し出してきたのだ。

「……そうか。分かった」

 巧は、深く頷いた。技術的な安全は、確認された。ならば、次のステップに進まなければならない。

「……じゃあ、これを、どうやって地球に提案するか、だな」

 巧は、コントロールチェアに深く身を沈め、腕を組んだ。ここからは、技術の問題ではない。政治と、心理と、そして外交の問題だ。

「普通に考えれば、CISTの的場大臣に、この技術の有効性と安全性を説明し、人道支援目的での導入を促すのが筋だ。だが……」

 巧は、言葉を切った。

「……だが、奴らは必ず聞いてくるだろう。『こんなとんでもない技術を、一体どこから手に入れたのか』と。介入者である俺が、『私が作りました』としれっと言う手もあるが……。それでは、俺たちへの依存度と、同時に警戒心を、不必要に高めるだけだ。G7との協調体制が、ギクシャクしかねん」

 それは、的確な懸念だった。介入者は、あくまで人類の発展を促す「教師」や「案内人」であって、何でも願いを叶えてくれる魔法のランプではない。その立ち位置を、巧は慎重に維持し続けなければならなかった。


「……なあ、イヴ。いっそ、正直に言っちまうのは、どう思う?」

『と、申しますと?』

「『先日、我々は、統合知性体アークと名乗る、極めて友好的なサイボーグ化文明と、公式に接触した。彼らは、我々人類との友好の証として、この代替装備技術を、無償で提供してくれた。まずは、その安全性を、君たちの手で確かめてみてはどうだろうか』……と。まあ、こんな感じだ。もう、サイボーグ化文明が我々に興味を示しているから、という事実を、そのまま伝えてしまうんだ。どう思う?」


 それは、あまりにも大胆で、しかし、ある意味では最も誠実な提案だった。

 イヴの光の体が、数秒間、高速で明滅する。彼女の思考回路が、その提案がもたらすであろう、あらゆる可能性とリスクを、猛烈な勢いでシミュレートしているのだ。やがて、明滅が収まった。


『……うーん、そうですわね』

 イヴは、まるで人間のコンサルタントのように、少しだけ思案するような間を置いてから、答えた。

『……裏を探られ、疑心暗鬼を生む可能性のある複雑な嘘をつくよりも、あえて情報を開示し、素直に事実を伝える。……それは、有効な戦略だと思います。嘘をつく必要も、意味もありませんし、何よりも、我々が他の文明と独自のチャンネルを持っていることを暗に示すことで、G7に対する強力な牽制にもなりえます』

「だよな。俺たちには、G7以外にも友達がいるんだぞ、と。そういうわけだ」

『はい。そして、提案の仕方も重要ですわ。マスター。あくまで、『お試し』という形でお話をする方が、よろしいかと』

「お試し、か。まるで通販番組だな」

『その通りです。そして、通販番組で最も重要なのは、何だと思いますか?』

 イヴは、悪戯っぽく問いかける。

「……なんだよ」

『「ご満足いただけなければ、いつでも返品可能です」という、安心保証ですわ』

 イヴの言葉に、巧ははっとした。

『我々は、こう提案するのです。「この技術を使うか使わないかは、全面的に、あなた方人類の自由意志に委ねられています。もし、倫理的に受け入れられない、あるいは、危険だと判断するのであれば、遠慮なくこの提案を断ってくださって結構ですよ」と。……そう言えば、彼らも悪い気はしません。むしろ、自分たちの判断が尊重されていると感じ、我々への信頼を深めるでしょう』

「……なるほどな。断っていい、と言われれば、逆に試したくなるのが人間か」

『はい。そして私のシミュレーションによれば、彼らがこの提案を試す確率は……100%ですわ』

 イヴは、断言した。

『人道支援という、誰も反対できない大義名分。元の体に戻れるという、完璧な安全性。そして、サイボーグ文明との外交チャンネルを失いたくないという、政治的思惑。……これらの要素を鑑みれば、彼らが「ノー」と言う選択肢は、論理的に存在しません』


 その、あまりにも完璧な分析。

 巧は、感嘆のため息を漏らした。

「……だよなぁ。……分かった。その線でいこう。まあ、取り敢えず、介入者として、G7の連中に話をしてみるか。次のATCIの定例会見は、いつだ?」

『三日後です、マスター』

「三日後か。結構、急だな。……じゃあ、イヴ。それまでに、連中を完璧に説得できるだけの資料を作ってくれ。医学的データ、経済効果の試算、そして何より、手足を失った人々が、この技術で再び歩き出し、ピアノを弾き、子供を抱きしめる……そういう、連中の感情に直接訴えかけるような、感動的なイメージ映像も忘れずにな」

 元・サラリーマンの血が騒ぐ。最高のプレゼンで、この究極の企画を、通して見せる。

『承知いたしました。資料作成、急ぎます』

 イヴが、深々と光の体で一礼した。

「……よし。じゃあ、資料作りは、お前に任せた」

 巧は、そう言うと、不意に立ち上がった。

「俺は、ちょっと、プールでリフレッシュしてくるわ」

『プール、ですの?』

「ああ。ここ数日、正直、パニック寸前だったからな。グレイ・グーの件といい、三つの文明との面談といい……。少し、頭を冷やしたい。息抜きがしたいんだよ」

 それは、巧の魂からの、偽らざる叫びだった。

 イヴは、その言葉に込められた、主の深い疲労を、正確に読み取った。

『……はい、マスター。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。ここは、宇宙で最も安全で、最も静かなプールなのですから』


【無重力プール "静かの海"】


 観測ステーションの居住エリアの最上階。そこには、「静かの海」と名付けられた、巧専用のプールがあった。

 それは、地球のどんなリゾート施設も足元にも及ばない、奇跡のような空間だった。

 ドーム状の巨大な天井は、完全な透明素材でできており、そこからは、息をのむほどに美しい、青い地球と、漆黒の宇宙、そして満天の星々が、パノラマとなって広がっている。

 そして、そのドームの中央には、プールというよりも、一つの巨大な水の球体が、無重力空間に、静かに、浮かんでいた。直径約二十メートル。表面張力だけでその球形を保ち、内部では、熱帯魚のような形をした、無数の清掃ナノロボットが、キラキラと光を放ちながら泳いでいる。

 巧は、衣服を脱ぎ捨て、擬体の滑らかな白いボディを晒すと、助走もつけずに、ふわりと宙に舞った。彼の体は、ゆっくりと水の球体へと吸い込まれていく。

 水の膜を通り抜ける、不思議な感覚。

 そして、完全な、無重力と、静寂。

 水温は、彼の思考を読み取ったかのように、最も心地よい温度に保たれている。水の抵抗が、まるで優しいマッサージのように、彼の擬体の表面を撫でていく。

 巧は、大の字になって、水の球体の中央に、ただ、ぷかぷかと浮かんだ。

 目を開ければ、水のレンズを通して、歪んだ地球と星々が見える。

 耳を澄ませば、聞こえるのは、自らの擬体の内部で微かに駆動する、精密機械の音だけ。

 ここは、天国だ。

 そう、思った。

 かつて、地球で生きていた頃。三徹目のぼろぼろの体を引きずって、満員電車に揺られ、狭いワンルームマンションに帰り着き、冷たいシャワーを浴びて、数時間後にはまた戦場オフィスへと向かう。そんな、地獄のような日々。

 あの頃の自分が、この光景を見たら、何を思うだろうか。

(……贅沢な、悩みだよな。本当に)

 巧は、水の底で、独りごちた。

 宇宙の存亡に関わるプレッシャー。後見人の裏切り。異星人との腹の探り合い。

 確かに、それは、とてつもないストレスだ。

 だが、自分はもう、あの頃のように、金のために、生活のために、理不尽な上司に頭を下げ、心をすり減らす必要はない。

 自分は、選ばれた。

 そして、自分には、世界を変える力がある。

 その、あまりにも巨大な責任と、そして、全能感。

 その狭間で、彼の心は、振り子のように揺れ続けていた。


 水の球体の中で、巧は、ゆっくりと体を丸め、まるで母親の胎内にいる胎児のような格好になった。

 ここでなら、少しだけ、弱音を吐いてもいいだろうか。

 誰にも、聞こえやしない。

(……怖いんだ。本当は)

 彼の、心の声が、静かな水底に響いた。

(……グレイ・グーが、怖い。いつか、あいつが、またあの破壊神に戻って、この地球を、俺が愛した全てを、食い尽くしてしまうんじゃないかと思うと、怖くてたまらないんだ)

(アークも、ソラリスも、ガイアも、怖い。彼らの、あの圧倒的な知性と、価値観。その前では、俺たち人類の存在なんて、ちっぽけな、取るに足らないものなんじゃないか。いつか、彼らの気まぐれ一つで、俺たちの文明なんて、踏み潰されてしまうんじゃないか)

(そして、何より……)

 巧は、水の底から、ドームの向こうに見える、青い星を見上げた。


(……お前たちが、怖いんだよ。地球人たちが)


(俺が、良かれと思って与えた技術で、お前たちは、本当に幸せになれるのか? それとも、その力に酔いしれ、驕り、かつてのアーク人のように、互いに争い、憎しみ合い、自らの手で、この美しい星を、焼き尽くしてしまうんじゃないのか?)

(俺は、お前たちを、信じきれない。……かつて、俺を使い潰した、あの社会と同じ、愚かで、醜い部分を、お前たちの中に、見てしまうからだ)

(……そして、そんなお前たちを、心のどこかで見下しながら、救世主のフリをしている、俺自身が、一番、怖いんだ……)


 それは、彼が今まで誰にも、イヴにすら見せたことのない、魂の最も深い場所からの、真っ黒な告白だった。

 彼は、水の底で、ただ、静かに、泣いた。

 擬体の目から、涙は流れない。

 だが、彼の魂は、確かに、嗚咽していた。


 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。

 やがて、彼は、ゆっくりと、その体を伸ばした。

 そして、水面に顔を出し、大きく、息を吸い込んだ。

 もちろん、呼吸は必要ない。だが、それは、彼の精神を切り替えるための、一つの儀式だった。

 彼は、水の中から、ドームの向こうの地球を見上げた。

 そこには、変わらず、美しく、そしてか弱く輝く、故郷の星があった。

 怖い。

 ああ、怖いさ。

 だが、それでも。

 あの星を、守りたい。

 あの星で、かつての自分のように、理不尽に苦しみ、それでも懸命に生きている、名もなき人々を、救いたい。

 その、綺麗事かもしれない、偽善かもしれない思いが、今の彼を支える、唯一の柱だった。


「…………やるしか、ねえんだよな」


 巧は、静かに呟いた。

 その声には、もう、迷いはなかった。

 彼は、水の球体から、ふわりと抜け出すと、擬体の表面の水分を、瞬時に蒸発させた。

 コントロールルームに戻ると、イヴが、彼を待っていた。

『お帰りなさいませ、マスター。リフレッシュは、できましたか?』

「ああ。……おかげさまでな」

 巧の顔には、もう、先ほどの苦悩の色はなかった。

 あるのは、巨大なプレゼンを前にした、一人の、覚悟を決めたサラリーマンの顔だけだった。

『ご報告します。G7-ATCI定例会見へ提出する、代替装備導入計画に関するプレゼンテーション資料。……完成いたしました』

 イヴの前に、完璧なレイアウトの、美しいプレゼン資料が、ホログラムとなって表示された。

 巧は、その表紙を、満足げに眺めた。

 そこに書かれていたタイトルは。


『――鋼鉄の福音:失われた希望を取り戻すための、代替装備導入に関する人道的提案』


「……よし」

 巧は、にやりと笑った。

「行くか、イヴ。……人類に、新しい未来を、売り込みに」


 彼の声は、もはや神の代理人のものではない。

 宇宙で最も困難なクライアントを相手に、最高のディールをまとめてみせようという、不屈のトップセールスマンの、それであった。

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