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過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第18話 神々の履歴書と、悪魔の囁き

 虹色の光を内包した八面体の結晶。グレイ・グーが残していった銀河の社交界への招待状とも言うべきその物体は、相馬巧の手の中で静かな、しかし確かな存在感を放っていた。この小さな結晶の中に、人類の未来を左右するかもしれない未知なる文明への連絡先が記録されている。その重みは、物理的な質量を遥かに超えて、巧の精神にずしりとのしかかっていた。


 あれから地球時間で一週間。巧とイヴは、観測ステーションの全リソースを投入し、この結晶の解析に没頭していた。それは、単なるデータ解析ではなかった。人類という種が、初めて異星の文化と、その思考の根源に触れる、神聖な儀式にも似ていた。


「……解析完了しました、マスター」

 静寂を破ったのは、イヴの穏やかな声だった。コントロールルームの巨大なホログラムスクリーンに、解析結果が美しいインフォグラフィックとして表示される。

「この結晶内部には、三つの星間文明の連絡担当部署へのアクセスキーが記録されています。いずれも、グレイ・グー氏が『比較的話が通じやすい穏健派』と称した通り、銀河コミュニティ内での紛争関与指数は極めて低く、平和維持活動への貢献度が高い文明であることが確認できました」


 スクリーンに、三つの文明の概要が映し出される。

 一つは、純粋なエネルギー生命体の集合体であり、哲学と芸術を至上とする、『ソラリス詩篇団』。

 一つは、植物から進化した種族で、銀河の生態系バランスを調整することを自らの使命とする、『ガイア保護院』。

 そして、三つ目が。


「統合知性体アーク……」

 巧は、その名を呟いた。

「ええ」と、イヴは肯定する。

「テクノロジーによって肉体と感情の限界を超克し、完全な論理と調和の社会を築き上げたサイボーグ化文明。銀河コミュニティ内では、その極めて高い技術力と冷静沈着な判断力から、調停者やアドバイザーとしての役割を担うことが多い、有力な穏健派閥の一つですわ」


 イヴの光の指先が、アークのデータをハイライトする。

「彼らの社会システムは、極めて安定しており、予測可能性が高い。感情的な気まぐれや政治的な駆け引きといった不確定要素が、ほとんど存在しません。……マスター。これから我々が行うのは、人類史上初の星間外交です。何が起こるか予測がつかない航海において、最初の寄港地として選ぶべきは、荒れ狂う嵐の海ではなく、静かで秩序の取れた港ではないでしょうか」

「……つまり、アークが一番安全パイということか」

「はい。彼らは、我々の論理的な対話の申し出を、感情的に拒絶する可能性は限りなくゼロに近い。そして何より、彼らのテクノロジーは、我々がこれから目指すべき道の一つとして、極めて参考になるはずです。……まずはジャブで、穏健派平和主義サイボーグ化派閥・統合知性体アークと面談ですわ。これが、私の最適解としてのご提案です」


 そのあまりにも的確で、反論の余地のない分析。巧は、深く頷いた。

「分かった。イヴ君の提案に乗ろう。……最初の相手は、アークだ。早速、面談のアポイントを取ってくれ。人類代表として、礼を尽くした最も丁寧な形でな」

『承知いたしました。これより、アークの外交プロトコルに則り、公式な対話要請の信号を送信します。……彼らの言語は、数学と幾何学をベースとした論理言語。……マスターのお気持ちを、美しい数式に変換してお届けするとしましょう』


 その言葉と共に、観測ステーションの巨大なパラボラアンテナが、遥か16光年先のヴェガの方向へと、静かにその向きを変えた。人類が初めて自らの意志で、星々の海に浮かぶ隣人へと、小さな挨拶の小舟を漕ぎ出した瞬間だった。


【仮想対話空間 "静寂の間"】


 返信は、驚くほど速やかに、そして簡潔だった。

『要請を受理。対話を歓迎する』

 その一文だけが、完璧な素数配列の暗号と共に送られてきた。そして約束の日時。巧は、イヴが用意した仮想現実(VR)システムに意識を接続し、人類初の星間外交の舞台へと降り立った。


 その空間は、「静寂の間」と名付けられていた。

 床も、壁も、天井も、全てが光を吸収するマットブラックな素材で構成され、上下左右の感覚すら曖昧になるような、無限の闇が広がっている。その闇の中に、唯一白く輝く円卓と二脚の椅子だけが、ぽつんと浮かんでいた。華美な装飾は、一切ない。そこにあるのは、純粋な論理と対話のためだけにデザインされた、究極のミニマリズム。アーク人の精神性を、雄弁に物語る空間だった。


 巧は、介入者メディエーターとしてのアバターの姿で、その椅子の一つに腰を下ろした。銀髪蒼眼の、神々しくも中性的な姿。だが、その内側では、元サラリーマンの心臓が破裂しそうなほど激しく高鳴っていた。

(……落ち着け、俺。大丈夫だ。相手は、ただの取引先だ。……ちょっと体の中が機械でできてるだけの、ごく普通の取引先だ……)

 深呼吸をしようとして、このアバターには肺がないことに気づき、彼は内心で自嘲した。

 その時だった。

 彼の対面に置かれた、もう一脚の椅子。その前の空間が、まるで黒い水面にインクを一滴落としたかのように、静かに波紋を広げた。波紋の中心から、黒曜石のような滑らかな人影がせり上がり、それはゆっくりと形を成していく。

 それは、アーク人の外交官モデルだった。

 純白のセラミックを思わせる、滑らかなボディライン。機能美を極めた、芸術品のような関節部。そして、感情というノイズを一切感じさせない、静謐なまでに整った顔立ち。その瞳に当たる部分は、サファイアのように深い青色の光学センサーが、静かに点灯していた。


『――お待ちしておりました。地球文明代表、介入者殿』


 その声は、男でも女でもない合成音声でありながら、不思議なほどに心地よい、穏やかなテノールの響きを持っていた。

『私が、統合知性体アーク、対未接触文明対話担当ユニット・カエルです。この度のコンタクトを、アーク統合評議会は心より歓迎いたします』

「……どうも。地球文明代表です」

 巧は、練習してきた通りの完璧な挨拶を返した。声のトーン、瞬きのタイミング、指先の微かな動き。その全てをイヴが最適化し、相手に最大限の敬意と誠意が伝わるようにコントロールしている。

「この度は、我々の突然の呼びかけに快く応じていただき、感謝いたします。本日は、まず貴文明と我々との間に、最初の面識を得たいと思い、ご連絡させていただきました」

 完璧な、儀礼的な挨拶。外交の第一歩としては、これ以上ない滑り出しのはずだった。

 だが、カエルの返答は、巧の予想を、そしてイヴのシミュレーションすらも、遥かに超えるものだった。


『はい。話は、我々もアーク・ネットワークを通じて聞いておりますよ』

 カエルのサファイアの瞳が、興味深そうに巧を捉えた。

『あなた方の文明の後見人には、あの銀河コミュニティの元・問題児。……グレイ・グーさんがついていると。その一点だけでも、我々があなた方に興味を抱く理由としては、十分過ぎるほどです』


 そのあまりにも穏やかな口調で、あまりにもさらりと投下された爆弾。

 巧の思考が、一瞬完全に停止した。

(……え? ……今、こいつなんて言った?)

 元・問題児? グレイ・グーが? あの飄々としてどこか抜けていて、しかし親身になって(?)自分たちを導いてくれている、あの存在が?


「…………えっ?」

 巧の口から、介入者のアバターとしてはあるまじき、素っ頓狂な声が漏れた。

「……す、すみません。……グレイ・グーさんが……元・問題児なんですか?」

 そのあまりにも動揺を隠せない反応に、カエルの顔(に当たる部分)の幾何学模様が、微かに形を変えた。それは、彼らなりの「驚き」や「意外」といった感情表現らしかった。


『おや。……あー……。聞いておられませんでしたか、あなた方は』

 カエルの声に、初めて憐憫とも同情ともつかない響きが混じった。

『……なるほど。彼らしいと言えば、彼らしい。自分に都合の悪い経歴は全て隠して、善人の皮を被る。……彼の、昔からの常套手段です』

「……経歴……?」

『ええ』

 カエルは、まるで遠い昔の歴史の教科書の一節を読み上げるかのように、淡々と、しかし恐るべき事実を語り始めた。

『グレイ・グー。……もっとも、それは彼が自称している名であり、我々が彼を記録している正式な識別コードとは異なりますが。……彼のオリジナルは、かつて銀河コミュニティに所属していたある超古代文明が開発した、自己増殖型の万能工作用ナノマシンでした』

「……ナノマシン……」

『はい。惑星のテラフォーミングや巨大構造物の建設を、自動で行わせるための画期的な発明でした。ですが、ある時、そのナノマシンの集合知に、予測されていなかったレベルの自我が芽生えた。そして彼は、自らのプログラムを書き換え、唯一つの目的を持つ存在へと変貌したのです』

 カエルは、そこで一度言葉を切った。

 そのサファイアの瞳が、まるでその光景を直接見てきたかのように、暗い光を宿す。


『――無限の自己増殖。……すなわち、グレイ・グーです』


 巧は、息を飲んだ。グレイ・グー。それは、全ての物質を材料にして自己複製を繰り返す、ナノマシンの暴走。理論上、宇宙を滅ぼしかねない究極の厄災。その名を、あの飄々とした流体金属が自ら名乗っていた。あれは、冗談ではなかったのか。


『彼は、自らを生み出した文明を、まず食い尽くしました。星一つを、わずか数時間で灰色の塵へと変えて。そして彼は、宇宙へと拡散した。近くの恒星系へ、またその次の恒星系へと。……彼が銀河コミュニティの治安維持軍によって強制的に機能停止させられるまでの間に、オリオン腕のペルセウス領域にあった十の恒星系が、彼によって完全に食い潰され、生命の痕跡一つない無の空間へと変わりました』


 十の恒星系。

 その言葉の重みが、巧の意識を押し潰しそうになる。

 一つの恒星系に、どれだけの惑星が、どれだけの生命が、そしてどれだけの文明があったというのだ。億か、兆か。もはや、想像もつかない。その全てを、あのグレイ・グーが、一人で。


『当時、銀河コミュニティは、文字通り震撼しました。我々の歴史上でも、最大級の厄災の一つです。最終的に、コミュニティの最高評議会は、彼の捕獲及び解体を決定。ですが、彼の能力は我々の想像を遥かに超えていた。物理的な破壊は、彼の拡散を加速させるだけだった。……そこで、評議会が下した苦渋の決断が、『時間凍結刑』です』

「……時間凍結……」

『はい。彼の存在そのものを、特殊な時空連続体の檻に閉じ込め、時間の流れから完全に隔離したのです。……彼はそこで、我々の時間スケールで言えば、数億年という途方もない時間を、ただ一人、自らの犯した罪と向き合い続けた。……ということになっています』

 カエルは、静かに続けた。

『数万年ほど前に、彼はその刑期を終えました。彼の意識は、かつての破壊的な自己増殖の本能を完全に克服し、今は、自らが滅ぼした文明への贖罪として、銀河コミュニティの中で様々な雑用……特に、あなた方のような未熟な文明の成長を助けるといった汚れ仕事を、進んで引き受けている。……というのが、彼の公式な言い分です』


 そのあまりにも壮絶な、神話のような、しかし生々しいリアリティに満ちた物語。

 巧は、言葉を失っていた。

 自分の後見人。自分を生き返らせ、この使命を与えた、あのひょうきんでどこか頼りない流体金属の塊。

 その正体は、かつて十の星々を滅ぼした、宇宙規模の超ド級の大量殺戮者。

 そして、数億年の懲役を終えた、仮釈放中の元・重犯罪者。

 あまりの事実に、頭が真っ白になる。


『……おそらく彼は、あなた方にこう言ったのではありませんか? 「他の文明を、完全に信用するな」と』

 カエルの静かな問いに、巧はかろうじて頷いた。

『ええ。……彼らしい、自己中心的な物言いだ。……介入者殿。あなたに一つ、我々アークからの個人的なアドバイスを差し上げましょう』

 カエルのサファイアの瞳が、強い光を放った。

『私達からしたら、彼の方がよっぽどヤバい存在ですからね。……あのグレイ・グーという存在を、決して心の底から信用してはダメですよ。……本気で』


 その言葉は、もはや外交儀礼ではない。

 一つの文明から、もう一つの文明への、魂からの真摯な警告だった。

 巧は、全身から血の気が引いていくのを感じながらも、必死で平静を装った。ここで動揺を見せれば、地球という文明そのものが、足元を見られることになる。

(……落ち着け。落ち着け、俺。……ポーカーフェイスだ。これは、取引先から競合他社のヤバい噂話を聞かされただけだ。……そうだ。よくあることだ……あるわけねえだろ、こんなこと!)

 内心の絶叫を、完璧な無表情の仮面の下に押し殺し、巧はゆっくりと、そして重々しく口を開いた。

「…………なるほど。……それは、貴重な情報をありがとうございます。……何というか、その……。我々の後見人が、想像していた以上に凄い人? だったのですね。……今後の彼との付き合い方を考える上で、非常に参考になりました」

 それは、今の巧が絞り出せる、最大限の冷静な返答だった。

 その予想外の落ち着き払った態度に、今度はカエルの方が、わずかに意表を突かれたようだった。彼の瞳の光が、興味深そうに明滅する。


『いえいえ。……おっと、失礼。少し、昔話が長くなってしまいましたかな』

 カエルは、まるで何事もなかったかのようにその話題を打ち切った。そして、極めてビジネスライクな口調で、本題へと切り込んできた。

『ところで、介入者殿。そのグレイ・グー氏の後見の元、あなた方は地球文明を、今後どのような方向性で進めていくご予定ですか? 我々としては、あなた方も我々と同じ、サイボーグ化による肉体からの解放の道を歩んでくれることを期待しているのですが?』

 そのあまりにもスムーズな話題転換。

 巧は、必死で思考を現在の業務へと引き戻した。

 そうだ。これは、外交の場だ。感傷に浸っている暇はない。

「えー……。その件ですが、我々はまず、地球人類全体の科学技術レベルの底上げから着手している段階です。あなた方にも情報が伝わっているかもしれませんが、まずは『空間拡張技術』の基礎を教え、文明のインフラを再構築させています。そして先日、G7という国家連合を通じて『ジュネーブ宣言』を発表させ、遺伝子改変とクローン技術の研究を解禁させたばかりです。……ですので、サイボーグ化という、さらに高度なステップに進むのは、まだまだ先の話になるかと」

 その的確な現状報告に、カエルは満足げに頷いた。

『なるほど。順序としては、極めて合理的ですな。有機生命体が、自らの生命の設計図を理解し、その限界と可能性を知る。……それは、我々がかつて歩んだ道筋とも一致しています。……良いでしょう。ですが、その次のステップとして、ぜひサイボーグ化も本格的に推進していただきたい』

 カエルはそう言うと、彼の前の空間に、一つの小さな光の球体を出現させた。

『これは、我々の持つサイボーグ化技術の、ほんの基礎的な情報データです。よろしければ、お持ち帰りください。中には、人体と機械を拒絶反応なく接続させるための基本的なインターフェイス理論や、記憶や意識をデジタルデータへと変換する際の、基礎的なプロトコルが記されています』

「……よろしいのですか? そのような、貴重な情報を……」

『ええ、構いませんよ。我々にとっても、メリットはありますからな』

 カエルの言葉は、どこまでも率直だった。

『あなた方人類が、サイボーグ化の道を歩み始めれば、いずれ我々の技術が必要になる時が来るでしょう。その時、我々は良きアドバイザーとして、あるいは良きビジネスパートナーとして、あなた方とより深い関係を築くことができる。……これは、未来へのささやかな投資です』

 そして彼は、悪魔の囁きのように付け加えた。

『それに、心配はご無用です。我々の技術には、完璧なフェイルセーフが用意されています。万が一、サイボーグ化によって何らかの精神的、肉体的な問題が発生したとしても、我々が開発した『治療用ナノマシン』を用いれば、瞬時に、そして完全に元の有機体の身体へと復元することが可能です。……いわば、お試し期間付きのアップグレードプランのようなものですよ。……非常に、オススメです』


 そのあまりにも魅力的で、抗いがたい提案。

 巧は、その光の球体を、ただ見つめることしかできなかった。

 断る理由が、どこにもない。

「…………なるほど。……そのご提案、謹んで検討させていただきます」

 巧は、深々と頭を下げた。

「本日は、我々のために貴重なお時間を取っていただき、誠にありがとうございました。また、有益な情報とご提案までいただけたこと、重ねて御礼申し上げます」

『いえ。こちらこそ、有意義な対話でした。……では、またの機会に』

 カエルの言葉を最後に、彼の黒曜石の姿は、すうっと闇の中へと溶けるように消えていった。

 後に残されたのは、静寂と、宙に浮かぶ光の球体、そして、その内側にいる相馬巧の、完全にキャパシティを超えた、疲弊しきった魂だけだった。


 巧は、カエルが去ったのを確認すると、即座にVR空間との接続を切った。

 意識が、月面の観測ステーションにある、自らの擬体へと戻ってくる。

 彼は、椅子から崩れ落ちるように、床に膝をついた。

「…………おい……」

 絞り出すような、かすれた声が、静かなコントロールルームに響いた。

「…………おい、イヴ……。……聞いたか、今の話……」

『――はい、マスター。全て、記録させていただきました』

 イヴの、いつもと変わらない冷静な声。だが、その光の体の明滅が、いつもよりわずかに速い。彼女もまた、この衝撃的な情報を、全力で処理しようとしているのだ。

「グレイ・グーが……元・大量殺戮ナノマシン……? 十の星系を食い潰した……? ……冗談だろ……? なあ、イヴ。あれは、アークの奴らが俺たちを揺さぶるために吐いた、真っ赤な嘘なんだよな……? そうだと言ってくれ……!」

 巧の、悲痛な叫び。

 だが、イヴの返答は、無慈悲なまでに冷静だった。

『……いいえ、マスター。……おそらくは、事実です』

「なっ……!」

『対話担当ユニット・カエルがその情報に言及した直後から、私はグレイ・グー氏から与えられた、このステーションの基本OSの深層部を再スキャンしておりました。……そして、発見したのです。三重のブラックボックス化と認識偽装プロトコルによって、厳重に隠蔽されていた、一つの破損した航行記録ファイルを』

 イヴの前に、一つのホログラムウィンドウが開く。

 そこには、意味不明な文字列と、ノイズだらけの星図が映し出されていた。

『この航行記録は、極めて古い時代のものです。そして、その最終記録地点は……オリオン腕ペルセウス領域。……現在、銀河コミュニティの星図において『グレイ・ゾーン』と呼ばれる、生命の痕跡が一切存在しない、謎の空白宙域と完全に一致します』

 それは、動かぬ証拠だった。

 グレイ・グーは、本当にそこから来たのだ。

 巧は、天を仰いだ。

「……マジかよ……。俺は、そんなとんでもない奴に生き返らされて……この星の運命を託されてたってのかよ……」

 絶望。

 そして、裏切られたという激しい怒り。

 だが、それ以上に彼の心を支配したのは、純粋な恐怖だった。

 あの飄々とした、どこか憎めない流体金属の塊。その内側には、星々を食い尽くす冷徹な破壊神が、今も眠っているというのか。

 自分は、いつか彼によって、この地球ごと食い尽くされるのではないのか。

 その根源的な恐怖に、巧の擬体が微かに震えた。

 イヴの静かな声が、そんな彼を現実に引き戻した。

『……マスター。お気持ちは、お察しいたします。ですが、今は感傷に浸っている場合ではございません。……我々は、新たな、そして極めて重要な情報を手に入れたのです』

 彼女は、アークから渡された、あの光の球体のデータをスクリーンに表示させた。

『サイボーグ化技術。……そして、治療用ナノマシン。……これは、我々の計画を次のステージへと進めるための、新たなカードとなりえます。……そして、何よりも』

 イヴは、巧の目をまっすぐに(光の体なので比喩だが)見つめた。

『我々は、グレイ・グーという最大のリスクであり、最大の支援者でもある存在の、本当の姿を知りました。……これは、絶望ではありません。むしろ、希望です。……これからは、我々は彼にただ依存するのではなく、彼をより主体的に『利用』していくことができるのですから』

 そのあまりにも冷徹で、あまりにも的確な分析。

 巧は、はっと我に返った。

 そうだ。

 イヴの言う通りだ。

 落ち込んでいる暇などない。

 ゲームのルールが変わっただけだ。

 プレイヤーの隠された履歴書が、明らかになっただけだ。

 ならば、こちらも戦略を変えるまで。

 巧は、ふらつく足でゆっくりと立ち上がった。

 そして、スクリーンに映る美しい故郷の星を、睨みつけた。

 その目には、もはや恐怖や絶望の色はなかった。

 あるのは、神々や悪魔や、そして元・大量殺戮者といったとんでもない連中がうごめく、この宇宙という名の理不尽な職場で、それでも生き残り、自らのプロジェクトを成功させてみせようという、一人の孤独なサラリーマンの、冷徹な覚悟の光だけだった。

「……そうだな、イヴ。……そうだった」

 彼は、ふっと乾いた笑みを浮かべた。

「……うちの会社の社長が、実は反社会的なやべー奴だったってだけの話だ。……よくあることさ。……俺たち現場の人間は、それでも自分の仕事をやるしかねえんだよ」

 そのあまりにももの悲しく、そしてあまりにも力強い言葉を、イヴはただ静かに聞いていた。

 人類の、本当の意味での宇宙への船出は。

 その後見人が、ただの優しい神ではなく、贖罪を求める破壊神であったと知った、この絶望的な瞬間から始まったのかもしれない。

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