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過労死サラリーマン、銀河の無茶振りに挑む 〜地球の存亡は10年後の星間会議(ミーティング)で決まるそうです〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第11話 人間の領域

 永田町、首相官邸。

 日本の政治の中枢であるこの場所は、今、外界の喧騒から完全に切り離され、国家の最高機密を扱うための要塞と化していた。あの日、全世界を震撼させた「空間拡張技術」の発表以来、この官邸の地下深くに設けられた危機管理センターの一室は、事実上、この国の、いや、この星の未来を決定する唯一の場所となっていた。


 的場俊介は、CISTの地下施設からたった一人、官邸へと向かう防弾仕様の専用車両の中で、固く目を閉じていた。彼の脳裏には、数時間前の介入者との定例会議の光景が、何度も繰り返し再生されていた。

『――私の存在を、他国へ開示してよろしいですよ』

 あの神々しくも、どこか悪魔の囁きのようにも聞こえた衝撃的な提案。それは、人類の歴史というチェス盤を根底からひっくり返してしまう、あまりにも強力で、あまりにも危険な一手だった。

 車が官邸の厳重なゲートを通過し、地下駐車場へと滑り込む。的場は、深く一度だけ息を吸い込むと、覚悟を決めた目でその重い扉を開けた。

 彼がこれから向かうのは、会議室ではない。戦場だ。神から授けられた究極の兵器の設計図を手に、人間の欲望という最も厄介な獣がうごめく伏魔殿へと、彼は足を踏み入れるのだ。


 官邸地下、最高レベルのセキュリティで守られた内閣危機管理監執務室。そこに、日本の運命を左右する男たちが、秘密裏に集められていた。

 上座に座るのは、内閣総理大臣、郷田龍太郎。その顔には、いつもの老獪な政治家の笑みはなく、歴史の分岐点に立つ指導者だけが纏う、張り詰めた緊張感が漂っている。

 彼の両脇を固めるのは、国家の屋台骨を支える重鎮たち。

 財務大臣の大蔵。常に国家の算盤を弾き、国益という名の数字を冷徹に追い求める男。

 外務大臣の犬養。国際協調と長年の日米同盟を、何よりも重んじる老練な外交官。

 そして、防衛大臣の鬼塚。日本の安全保障をその双肩に担い、あらゆる脅威に対して武力という最終手段の行使を決してためらわない猛将。

 そこに官房長官と国家安全保障局長が加わり、そして末席に、的場の席が用意されていた。

 部屋の空気は、まるで開戦前夜の作戦司令部のようだった。誰もが口を固く結び、的場がその重い口を開くのを待っている。

「……お待たせいたしました」

 的場は席に着くと、深々と一礼した。

「これより、先ほど行われました介入者メディエーターとの第5回定例会議の結果を、ご報告いたします」

 彼は、CIST本部から転送された最高機密の議事録データを、手元のタブレットに表示させた。そして、この一ヶ月の世界の混乱、日本の苦境を前置きとして簡潔に述べた後、意を決して本題を切り出した。

「――結論から申し上げます。本日、介入者は我々に対して、驚くべき提案を行ってまいりました」

 的場は一度言葉を切り、そこにいる全員の顔をゆっくりと見回した。

「介入者は、自らの存在を……地球外知的生命体の存在を、我々が世界に公表することを『許可』すると、そう明言いたしました」


 その言葉が、投下された瞬間。

 部屋の温度が、数度下がったかのように感じられた。

 誰も、声を発しない。ただ、そこにいる全員の呼吸が、一瞬止まったのが肌で感じられた。

 郷田、大蔵、犬養、鬼塚。

 百戦錬磨の政治家たちの顔から、表情というものが完全に消え失せていた。驚愕という生易しい感情ではない。理解を超えた情報に直面した人間の脳が、思考を停止させたかのような完全な空白。

 その異様な沈黙を破ったのは、郷田総理の低く、かすれた声だった。

「…………ほう……」

 彼はただ一言そう呟くと、テーブルに置かれた高級な葉巻の先に、ゆっくりと火をつけた。紫煙がゆらりと立ち上り、部屋の重い空気に溶けていく。

「……面白い。実に面白いことを言うじゃないか。あの神様は……」

 その言葉が、引き金だった。

 他の大臣たちも、まるで金縛りが解けたかのように次々と我に返り、そしてその口から、堰を切ったように言葉が噴出した。


「ば、馬鹿な!」

 最初に声を荒らげたのは、外務大臣の犬養だった。彼は顔面を蒼白にさせ、わなわなと震える手で額の汗を拭った。

「そ、総理! お聞こえになりましたか!? 地球外生命体の存在を、公表しろだと!? そ、そんなことをすれば世界はどうなる!? パニックだ! 間違いなく、世界規模の取り返しのつかない大パニックが起きるぞ!」

 彼の脳裏には、ニューヨークの株式市場が暴落し、ロンドンの街頭で暴動が起き、メッカやバチカンに絶望した信者たちが殺到する、終末論的な光景が広がっていた。

「人類の数千年の歴史、宗教、価値観、その全てが根底から覆るのだ! 我々は宇宙で孤独ではなかった。そして我々は、神が作った特別な存在でもなかった。その事実を、全世界の七十億の民が一度に突きつけられた時、この文明社会がその形を保っていられると、本気でお考えか!」

 その魂からの叫びにも似た警告に、しかし、財務大臣の大蔵は、冷ややかな氷のような視線を向けた。

「……落ち着きたまえ、犬養大臣。君の言うパニックとやらは、確かにリスクの一つではあろう。だが、物事には常に裏と表がある」

 彼は指先でテーブルを、コンコンとリズミカルに叩いた。それは彼が、巨大な利益の匂いを嗅ぎつけた時の癖だった。

「考えてもみろ。もし我々が、世界で唯一その『神』と対話できる窓口となったらどうなる? この日本という国が、どういう立場になる?」

 大蔵の目は、もはやパニックに怯える民衆ではなく、その先に広がる莫大な国益という名の宝の山だけを見ていた。

「世界の富は、どう動く? 安全な通貨は、どこになる? 奇跡の情報を、一足先に得られる国はどこだ? ……答えは、言うまでもあるまい。全ての富と情報と、そして権力が、この東京に集中する。我が国は、人類史上どの帝国も成し遂げられなかった、絶対的な中心地となるのだ。その利益の前では、一時的な社会の混乱など、許容すべき誤差の範囲に過ぎん」

「国益だと!?」

 犬養が、激昂した。

「君は、人類の存亡よりも目の前の金の勘定を優先するのか!」

「金がなければ、国は守れん! 理想だけでは、腹は膨れんのだ!」

 二人の大臣が、激しく睨み合う。

 その緊迫した空気に쐐を打ち込んだのは、今まで腕を組み、黙って目を閉じていた防衛大臣、鬼塚だった。

 彼はゆっくりと、その猛禽類のような鋭い目を開いた。

「……二人とも、少し黙れ」

 その地を這うような低い声には、有無を言わさぬ凄みがあった。

「……話が早い。メリットだの、リスクだの、そんなものは後でいくらでも議論すればいい。俺が聞きたいのは、そこではない」

 鬼塚は、その視線を的場にまっすぐに向けた。

「的場大臣。……俺は軍人だ。回りくどい話は好かん。単刀直入に、聞かせてもらう」

 彼は、テーブルに身を乗り出した。

「その介入者とやらは……『敵』か? 『味方』か? ……それだけを答えろ」

 そのあまりにも根源的で、あまりにも本質的な問いに、部屋の空気が再び凍りついた。

 全ての視線が、的場に集中する。

 的場は一度唇を固く結び、そして正直に答えるしかなかった。

「…………分かりません」

「何?」

「敵か、味方か。……それは現時点では、誰にも判断できません。彼らは我々に、神の火とも言うべき強大な技術を与えてくれました。その点では、『味方』と言えるでしょう。ですが……」

 的場は、一度言葉を切った。

「……彼らの真の目的は、今も完全に謎のままです。我々をより高次な文明へと導こうとしている善意の存在なのか。それとも、我々人類をモルモットか何かのように観察し、壮大な実験を楽しんでいるだけなのか。……あるいはその両方か。私にはまだ、何も……」

 そのあまりにも頼りない答えに、鬼塚は失望したように、ふんと鼻を鳴らした。

「……分からんか。まあ、そうだろうな。神の御心など、人間には分かるはずもない。……だがな、的場大臣。軍事の世界では、『意図不明の存在』は全て、『潜在的な脅威』と見なす。それが鉄則だ」

 彼は、ゆっくりと続けた。

「俺は反対だ。その神様の正体が完全に明らかになるまで、その存在を公表すべきではない。もし奴らが、悪意を持って我々に接触してきているのだとしたら? その存在を世界に公表した瞬間、我々は奴らの壮大な計画の片棒を担がされることになる。人類を混乱に陥れるための道化として、利用されるだけだ。そんな危険な賭けに、この国の未来を乗せることなど、断じてできん」

 三者三様。

 外交、経済、安全保障。

 それぞれのプロフェッショナルたちが、それぞれの立場から、全く相容れない意見をぶつけ合う。

 議論は、完全に紛糾していた。

 このままでは、朝まで結論など出はしないだろう。

 その混沌とした空気を支配し、そして一つの方向へと導き始めたのは、やはりこの国の最高権力者、郷田龍太郎だった。

 彼はゆっくりと葉巻の灰を灰皿に落とすと、静かに、しかしその場にいる全員の魂に直接語りかけるような、重い声で口火を切った。


「――まあ待て。お前たち、少し頭を冷やせ」


 その一言で、部屋の喧騒が嘘のように静まり返った。

「……犬養。君の言うリスクは正しい。全面開示など、ありえん。そんなことをすれば、世界は君が言う通り自滅するだろう。それは、愚者の選択だ。……まずこれが一つ」

 郷田は、犬養に静かに頷いてみせた。

「鬼塚。君の言う懸念も正しい。相手の正体が分からん以上、最悪の事態を想定するのは、危機管理の基本中の基本だ。軽率に全てを晒すべきではない。……これも一つ」

 彼は、鬼塚の警戒心をも肯定した。

「そして大蔵。君の言う国益もまた、正しい。この千載一遇、いや、万載一遇の好機を、ただ恐れて何もしなければ、我が国に未来はない。リスクを恐れてリターンを放棄するのもまた、愚者の選択だ」

 彼は、三人の意見を全て一度受け止めた。

 そして、まるで複雑に絡み合った知恵の輪を解きほぐすかのように、その本質を指し示した。

「……つまりだ。お前たちの言うことは全部正しい。そして、全部矛盾している。……リスクを管理しつつ、リターンを最大化する。……そんな虫のいい話があるのか、ということだ」

 郷田はそこで初めて、にやりと、いつもの老獪な狐のような笑みを浮かべた。


「――あるのだよ。それがな」


 彼は、葉巻をゆっくりと口から離した。

「お前たちは、物事を『全か無か』『白か黒か』で考えすぎている。全面開示か、完全秘匿か。そんな二者択一で、この歴史的な難局を乗り切れると思うか? ……違うだろう」

 郷田は、立ち上がった。

 そして部屋の中をゆっくりと歩き始めた。まるで舞台の上で、独白を語る名優のように。

「いいか、よく聞け。我々が取るべき道は、ただ一つだ」


「――まず、介入者の存在を世界に全面的に開示するという選択肢。これは、ありえん。犬養大臣の言う通り、影響が大きすぎる。これは却下だ」


 郷田はまず、最も危険な選択肢を断固として切り捨てた。

 犬養が、安堵の表情を浮かべる。


「だが、では今まで通り完全に秘匿し続けるか? それも、もはや不可能だ。鬼塚大臣、君は諜報戦の現実を甘く見ている。我々がいくら守りを固めても、いずれ情報は漏れる。アメリカも中国も、馬鹿ではない。彼らがCISTの存在を嗅ぎつけるのは、時間の問題だ。そして、情報が我々の意図しない形で中途半端に漏れた時こそ、最悪の事態を招くことになる。『日本は、世界を騙して宇宙人と裏取引をしていた』とな。そうなれば、我が国は全世界を敵に回すことになるぞ」


 その指摘に、鬼塚がぐっと言葉を詰まらせた。


「つまりだ。完全秘匿も全面開示も、どちらも破滅への道だ。……ならば、答えはその『中間』にしかない」


 郷田はそこで、ぴたりと足を止めた。

 そして外務大臣の犬養に、その鋭い視線を向けた。

「……犬養君。君が常々口にしている、この国の外交の基本理念はなんだ?」

「……は? あ、はい……。それはもちろん、自由、民主主義、法の支配といった基本的価値を共有するG7諸国との連携を基軸とし……」

「――それだ」

 郷田は、犬養の言葉を遮った。

「G7だ。……まず我々は、この神の存在を、G7首脳に限定して開示する」

 そのあまりにも大胆な提案に、部屋の空気が再び震えた。

「なっ……!?」

 犬養が、息を飲む。

「総理、お待ちください! それは……それはあまりにも危険な賭けです! アメリカはともかく、他の国々がこのとんでもない事実を秘密にし続けられるとお思いですか!? そして何よりも、この話から外された中国とロシアがどう反応するか……! 彼らはこれを、G7による世界支配の陰謀だと見なすでしょう! 世界は、米欧日と中露という二つの陣営に完全に分断される! 新たな冷戦の始まりですぞ!」

 それは、外務大臣として当然の、そして的確な懸念だった。

 だが、郷田は動じなかった。

「分断? 新冷戦? ……上等じゃないか」

 彼は、せせら笑うかのように言った。

「犬養君。君はまだ、古い時代の外交観に囚われている。これからの世界は、もはやG7だの国連だの、そんな既存の枠組みでは動かん。動かすのは、この介入者という圧倒的な上位存在だ。そして、その唯一の窓口である我々日本だ。……中露が反発するだと? 結構。させておけばいい。彼らがいくら騒ごうとも、神の声を聞くことができなければ、いずれ時代の潮流から取り残され、沈んでいくだけだ」

 そのあまりにも傲慢で、しかし揺るぎない確信に満ちた言葉に、もはや誰も反論できなかった。

 郷田は続けた。財務大臣の大蔵に、向き直る。

「そして、ここからが肝心だ。大蔵君。我々はG7に、神の存在という究極の『情報』は開示する。だが……」

 彼はそこで、悪魔のように笑った。


「――『技術』は、決して開示しない」


「……ほう。と、申しますと?」

 大蔵が、待っていましたとばかりに身を乗り出した。

「言い訳は、いくらでもあるだろう。的場大臣、君がさっき言った通りだ。『我々もまだこの技術を完全に理解しているわけではない。介入者から学んでいる最中なのだ』と。……これは真実だ。嘘ではない。真実だからこそ、最強の交渉カードになる」

 郷田は、満足げに頷いた。

「そうだ。我々はG7に対して、こう持ちかけるのだ。『我々はこの人類の存亡に関わる重大な情報を、同盟国である君たちだけに特別に打ち明ける。共に、この未知との遭遇という危機に立ち向かおうではないか』と。……恩を売るのだ。最大限にな」

 そして彼は、最後の、そして最も重要な一手を告げた。

「その上で、こう提案する。『介入者との対話の窓口を、我々G7で共同で持とうではないか』と。……もちろん、表向きはな」

 外務大臣の犬養が、はっと顔を上げた。

「……表向きと、申しますと……?」

「そのままだよ」

 郷田は、当然のように言った。

「G7共同の公式なコミュニケーション・チャンネルは、開設してやる。月に一度、各国首脳が揃って介入者のありがたいお言葉を拝聴する定例会議でも開いてやればいい。……だが、それはあくまで表の顔だ。……我々日本政府が、これまで通り独自に介入者と一対一で対話できる非公式の秘密の窓口は、当然、残しておく」

 そのあまりにも狡猾で、二枚舌な戦略。

 部屋にいる全ての人間が、その本当の意味を理解し、そして戦慄した。

 G7諸国に情報を共有し、協力体制をアピールする。

 だがその裏で、日本だけは神とのホットラインを独占し続ける。

 つまり、G7という新しい枠組みの中でも、日本は一段高い、特別な指導者としての立場を確保するのだ。

 与えるのは、情報だけ。

 実利である技術は、決して渡さない。

 そして主導権は、永遠に手放さない。

 これこそが、郷田龍太郎という老獪な政治家が導き出した、リスクを最小限に抑え、リターンを最大限に享受するための、究極の回答だった。

「……これでしょうな」

 最初に沈黙を破ったのは、財務大臣の大蔵だった。

 彼の顔には、もはや何の迷いもなかった。あるのは、この国家規模の壮大な謀略に対する賛意と興奮だけだった。

「G7に貸しを作り、中露を牽制し、技術の優位性は保ち続ける。……完璧ですな、総理。これ以上の戦略は、考えられますまい」

「……ううむ……」

 外務大臣の犬養は、まだそのあまりの権謀術数ぶりに眉をひそめていたが、もはや反対できる材料はなかった。

 防衛大臣の鬼塚も、難しい顔で腕を組んでいたが、やがて重々しく頷いた。

「……まあ、いいだろう。G7という首輪をつけておけば、アメリカもそう無茶な軍事的圧力はかけてこられまい。情報の管理は徹底する必要があるが……現時点では、これが最もマシな選択か……」


 大筋は、決まった。

 日本は、神の存在をG7にのみ開示する。

 そして、共同の窓口という名の元に、世界に対する主導権を完全に掌握する。

 その歴史的な意思決定が下された、重い、重い空気の中で。

 郷田は最後に、ずっと黙ってその議論の行方を見つめていた的場に、その視線を向けた。

「――的場君」

「……はい」

「君にはこれから、とんでもない大仕事をしてもらうことになる」

 郷田の目は、もはや一人の大臣に語りかけるそれではない。これから歴史を動かす最も重要な駒に、指令を下す王の目だった。

「君が、我が国の、いや、G7の全権大使として、介入者との全ての交渉の窓口となれ。そして、この我々が今決めた国家戦略を、君のその手で、寸分の狂いもなく実行するのだ」

 それは、命令だった。

 そして、究極の信頼の証でもあった。

「君の双肩に、この国の、いや、西側世界の全ての未来がかかっていると思え。……いいな?」

 的場は、静かに立ち上がった。

 彼の胸に去来するものは、恐怖か、高揚か。

 もはや、彼自身にも分からなかった。

 ただ一つ分かっていることは、自分がもう後戻りのできない歴史の奔流の只中にいる、ということだけだった。

 彼は、深々と頭を下げた。


「……御意。この的場俊介、この身命を賭して、必ずやその大役を果たしてご覧に入れます」


 その声は、驚くほど静かで、そして冷徹だった。

 もはやそこには、政治の濁流に翻弄される哀れな学者の姿はなかった。

 いるのは、神と悪魔の両方と同時に交渉する覚悟を決めた、一人の交渉人ネゴシエーターの姿だけだった。

 日本の、そして世界の運命を左右する壮大な外交戦の幕が、今、静かに切って落とされた。

 その数日後。

 ワシントン、ロンドン、パリ、ベルリン、ローマ、オタワ。

 G7各国の首脳の元に、日本の郷田総理からの最高機密レベルの親書を携えた特使が、極秘裏に派遣されることになる。

 その歴史を動かす特使の名は。

 ――的場俊介。

 世界はまだ、その男の名も、そして彼がもたらす衝撃の神託も知らずに、いつもと変わらぬ朝を迎えようとしていた。




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