68 第3イニング
主なる神は言われた
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。
彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を
耕させられた。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、
命の木の道を守らせられた。
サイの話はあまりにも途方もなくて、わたしは飲み込むことができなかった。
その夜は眠れず……
……という訳でもなくって。
だって姪のお世話でくたびれてたし、それでもサイは容赦なくストレッチを施すし(毎日やんないとダメなんだって)。
そう、わたしたちの仲はあの程度で本格的に壊れたりしない。わたしはサイの言葉をじっくり考える必要を感じたので、ひとまず次に持ち越し、となった。
サイはまず、中国に捕らわれてる昔のお仲間、メイヴを救出しなきゃならない。元の世界に戻れるかはそれ次第だという。彼はなにかを探り続けているけれど、その「なにか」がまだ分かっていないのだ。
そしてわたしは、わたしひとりだけサイの世界に連れて行ってもらいたくない。
親やユリナや友達を……というか地球人全員「地獄」に置き去りなんて無理。
サイもわたしがそう言い出すはずだと分かっている。
そこまで考えたところでわたしは寝オチした。
それからわたしはそれなりに忙しい日々を過ごした。
サイの言葉は心の隅に引っかかってたけれど、ピンとこない、というのが正直なところだ。
サイがもともと居た世界がもっと楽園に近いというなら、なぜ争ってこの地球に飛ばされたのだ?というのも引っかかる。
あまりにも知らないことが多すぎる。
7月も半ばを過ぎて、ハワイの日焼け跡も消えた。
休日、夕食の買い物に出掛けたわたしは、久しぶりに藍澤さんと遭遇した。
彼女はスーパーの手前で待ち伏せていた。
「あら、藍澤さん」
「あら、じゃないですよ!サイが学校に来なくなったんです!いったいどこに隠したのよっ!」
「学校行ってないんだ……」
わたしは彼女の横を素通りしようとしたけど、通せんぼされた。
わたしは立ち止まって溜息をついた。
「サイがどこに出掛けてるのか、わたし知らないから」
これは半分本当だけど半分は嘘だ。
デスペランさんとのところに行ってメイヴを探す算段をしてる、くらいの見当はつく……が、それを彼女に言うわけがない。
「知らないじゃ済まされないからね!あんた保護者じゃないの!」
「尾行して巻かれちゃった?」
「びっ尾行なんか、してません!」
「そう?うちにピッキングしようとしたりいろいろやってるみたいだけど」
「そっ……そんなこと……!」
「してない?防犯カメラに写ってるけどなぁ……」
「カメラなんか無いって……!」彼女はハッと口を押さえた。
チェックメイトのようだ。
わたしは努めて抑えた口調で言った。
「藍澤さん?忠告しとくけどあなたがつるんでる尾藤と探偵事務所の人、付き合うのやめたほうが良いよ。ヤバい人だからね。あなたのためにならないから」
「う・うるさい!」
わたしはまわりを見渡した。店の前の広い駐車場だ。半分くらい車で埋まっていた。
「尾藤はどこかに隠れてる?」
「もう!」藍澤さんは地団駄を踏む勢いで激憤していた。「なんであんたいつもそうなのよ!」
「いつもそうってなんのことだか」
「妙に落ち着き払って、人馬鹿にしてるみたいに!」
「それはね」わたしは藍澤さんに一歩詰め寄り、顔を寄せた。
「わたしがサイを信頼してるから」
藍澤さんの顔に嘲笑が浮かんだ。
「あんた知らないだろうけど、サイファーはわたしにキスしたんだから!」
「知ってる。サイが話してくれた」
「ちきしょう!」藍澤さんはキレた。「ふざけんな!あんたみたいなババアなんかサイファーくんに相応しくないっての!身の程を知りなさいよ!」
わたしは黙ってうつむき、好き勝手な罵倒を聞き流し続けた。酷い言葉の羅列も聞くに堪えないし、憤怒に顔を歪ませた女の子も見たくない。
この子にはきっとなにも理解してもらえないと分かっていた。
彼女にとってサイはトロフィーなのだ。わたしはサイをモノかなにかのように思わないし、誰かと分かち合うことはできない……
どちらかが倒れるまで終わらない。
「――なに黙ってんだよ!大人のくせに反論できないの!?馬鹿なんじゃないの?こっち向けよ!こっち向けってんだよ!」
藍澤さんがわたしの肩を押した。さすがにこれにはわたしも抑えがたかった。
「ちょっとやめてよ――!」
「うっせえババア!あたしのダチに頼んで痛い目に遭わせてやっから覚悟しな!」
藍澤さんが今度は両手でわたしを強く突き飛ばして、わたしは駐車スペースから車道に転げ出てしまった。
藍澤さんが驚愕に目を見開いて口に手を当てていた。
アスファルトに尻餅をついたわたしに、車のフロントグリルが迫った。




