196 オーディナリィライフ
明くる年のクリスマスにわたしは鮫島さんのプロポーズを受け入れて、六月に結婚しました。
少女漫画信奉者諸氏であれば喪に服す期間が短すぎでないの?と仰るでしょうけれど、まあいろいろとあったの。結婚式の次の月にはわたしは30歳になってしまうし、それにおなかには赤ちゃんがいたから。
わたしは「鮫島ナツミ」と相成ったわけだが、タカコいわく、「夏はサメ映画よね」というコメント。
たぶん似合ってるという意味じゃないかな?
赤ちゃんが生まれると、世界は彼を中心にまわる。まあわたしはさんざん振り回されましたわよ。
ちびのお世話でわたしは余計なことを考える余裕がなくなった。しっかりした旦那様がいてメイヴさんから頂いたとんでもない大金があっても大変さは変わらない。
だけど……「ボクいっしょうけんめい生まれたからくたびれちゃったよ」って顔で無心に眠ってるちびすけを眺めるたびに、わたしは愛情で胸がいっぱいになる。
わたしは旦那様と子供を愛せることにどこかホッとしていた。
けじめをつけるため、サイとの思い出の品はすべてお山の庭に埋めた。
世界は刻一刻と変化してて、おカネを持ってても不便なことに変わりはなくなってた。
三年間で世界人口は2/3に減った。それで社会インフラのそこかしこが機能しなくなったのだ。
そう、イグドラシル移住が本格的になった。
極端なところではベトナムとアフガニスタン、サモアで、一夜にして全国民が姿を消した。インドは人口の半分。ロシアとアメリカは1/4。
いっぽうほとんど誰も移住していないのはフランスと北欧ぜんぶ、アラブの一部、イスラエル、そして我が国日本。
ひどい話だけれど、日本で最初にポータルをくぐったのはなんらかの身体障害を抱えて国にいても改善を見込めないひと、同じく終末医療患者、そして生活困窮者だ。人道的配慮で警察や自衛隊のボランティアが付き添ったけどそれでも総勢3万人に過ぎない。
そして見送り側はじつに冷ややか。
「異世界に行くのはバカ」みたいな風潮だ。
あれほど異世界転生が流行ってたのに。
芳村さんによると、この段階でぐずぐずするのは想定内だという。
いまはマンガもソシャゲもない世界に行くことに二の足を踏んでるだけで、じきに世界に目を向けて右に倣えしはじめるだろう……。
アメリカと中国はもっとも計画段階的に移住を進めている。あっちでもパックス・アメリカーナ(とチャイニーズ・ヘゲモニー)を維持する意気込みで。
ただし、例の「銃と大砲」の件が社会を変貌させていた。
銃を取り上げられてもっと腹を立てるものと思ってたけれど、アメリカ人ほか多くがあれを天啓と捉えていて、対外的な再軍備を考え直していた。
メーカーは弾丸を再生産し始めたけれど、アメリカ市民は銃の所持を放棄するようになって、やがてウォルマートの売り場も消えた。
とはいえ、別の悪質な動きもあった。
世界的大企業のいくつかは独自に移民計画を立ち上げたけど、これがまるっきり〈貴族による奴隷募集〉という内容で、アズラエルさんにすっぱ抜かれて叩かれた。
手厚い庇護と引き換えに従属雇用を結べ愚民ども!という動きは多かった。向こうで国を作る気満々の億万長者も。
アズラエルさんと世界の神様はそういう動きを逐一監視した。
移住計画を円滑に進めた立役者は彼らだろう。身長3メートルで翼を生やした大天使が一歩うしろに控えているだけで、人々は大統領の演説をとても真剣に拝聴するようになる。
収監中の犯罪者はどうすべきなんだ?という議論もあったけれど、それもですぴー方式でほとんど解決した。
文字通り霊的体験によって犯罪常習者もテロリストも悔い改めた。
ある一定数を割り込むと人々の犯罪志向は社会の害とならないほどに影を潜めるらしい……それにむしろ、そういう人間は嬉々として異世界移住を望むそうな。
わたしはふたりめを授かり、また男の子だった。
してみると、わたしは旦那様をしっかり愛せていた、ということかな……
わたしたちはけっこうイチャイチャして、端から見ればバカップルに近かっただろう。彼は魔法の絨毯を使えたから、わたしたちはいろいろな場所にこっそり出掛けてデートした。
わたし自身は〈魔導律〉を溜め込んでいるわりには視力がよくなる程度で、魔法はついぞ使えずじまいだった。
メイヴさんならなにか説明してくれたかもしれない……
だけど、おかげで歳も取るようだ。
わたしは旦那様といっしょに歳を重ねられることが嬉しかった。
息子たちとはいつか、たぶん成人式まえにお別れになるだろう。その日を考えると胸が張り裂けそうだったけれど、仕方がないことだ。
日本で本格的に移民が始まったきっかけは、ある人気アイドルが突然失踪したためだ。
政治家やネット芸人、テレビ畑の人間がちらほら移住してしまうと、あとはドミノ倒し状態になった。
国際航空便が極端に減って、外国旅行はほとんど不可能になった。
世界はインターネットで繋がってるだけになったけれど、通信販売網も崩壊したからSNSの交流程度しか使い途がない。
物流がとにかく減った。もう極端に安い衣服や食べ物はない。石油も鉄鉱石も生産数を減らし続けた。外食産業とコンビニが激減した。
そうなるといままで移住を渋ってた人たちも考え直しはじめて、世界的に第二次イグドラシル移住ブームが始まった。
きのうまで居たひとが急に姿を消しだすと、インフラの維持はますます困難になった。
自衛隊は各国の軍隊同様解体されて、まだ残っているひとは警察消防の一部に編入された。ウシオさんは魔導救難隊の司令官に就いた。
学校が減り、病院が減り、電車の数が減り、自動車が減って……
残った人々は上下水道や道路、送電設備の整った大都市に集まり、都市の周囲をすべて農地にして凌いだ。
これ以上不便になったらもう留まる理由もない。
わたしは立派なティーンエイジャーになった息子ふたりをイグドラシルに送り出した。心配で、パパにも同行してほしかったけれど、旦那様はずっとわたしと居るとはっきり言っていた。
おかげでわたしはなんとか耐えられた。
息子たちはあちらで元気に過ごしてくれると思う……わたしの親も妹の家族も、タカコも社長も、Aチームとですぴーとメイヴさんも――サイもいる。
鮫島さん――ウシオさんにはいくら感謝してもしきれない。
わたしが時折なにか思い出すように空を見上げていても、彼はなにも言わず、わたしの中にサイがいることを許してくれた。
子供たちを送り出すと、わたしたちはメイヴさんのお山に移り住んだ。
妙なもので、冥奉神社周辺は人口を減らし続けている日本でもっとも賑やかな地となっていた。
イグドラシル世界に旅立つひとたちが最後に過ごす場所として立派な旅館がいくつも建ち並んで、大階段の両脇には土産屋の屋台が軒を並べている。10年以上まえから新しい道路も鉄道も作られなくなってたけど、唯一整備されたのがここだ。
初代宮司の芳村さんが亡くなって、天草さんが冥奉神社の宮司を務めていた。
いつしか、お山の家は旅立ちまえに訪れる場所となったらしく、わたしたちは峠の茶屋みたいなのを始めてお客さんをもてなすようになった。
最盛期には一日何百人も訪れ、わたしや、歳を取らない不思議な巫女――アルファに会って不安や希望を打ち明けた。
その頃になるとわたしが何者か知ってるひともほとんどいなくなってた。
やがて、そういうひとたちもだんだん減って、わたしとウシオさんはお山の上で、静かな余生を送った。
ひとがいなくなって砂漠化が進んだおかげで、夜明けと日没がとても鮮烈だった。
∮ ∮ ∮ ∮ ∮ ∮ ∮
あいつがわたしのアパートに現れたのは、もうずっと昔の話。四月初めの、肌寒い雨の夜。
いっしょに過ごした時間はわずか一年にも満たなかった。そのあと別の長い長い人生を送ったけれど、あなたへの想いは消えなかったわ。
サイ、わたしは幸せだったよ。
わたしの物語は、これでほとんど、おしまいです。




