145 逃避行
エレベーターを降りてややこしいエントランスホールを抜けると、ようやく外に出た。
サイファーが言った通りここは川越だった。駅まで徒歩10分くらいだろう。なんとタワーマンションの最上階にいたのだ。
わたしはまだ狐につままれたような気分のまま、アパートのほうに歩き始めた。
お金もなにも持ってなかったけれど、駅ふたつ分くらいの距離だ。1時間も歩けば到着するだろう。
あまりにも現実感に乏しかったから、わたしはとにかくアパートに戻りたかった。
川越市内はわたしの記憶とは微妙に違ってて、有るはずのものが無かったり古びたところが真新しかったり、どこか余所余所しくて、居心地が悪い。
たぶんもっと実感できるものが欲しかったんだと思う……
線路を越えて、なんとなく見知った通りをたどってまもなくJRの線路脇の国道に出た。いまはたぶんお昼まえ……だけどいまが何年何月何日の何曜日かもよく分からない。
平日だとしたら普通は働いてる時間だ。
わたしはこの「現実」ではニートなのだろうか?
二車線道路脇の歩道をとぼとぼ歩いてると、通りすがりのママに連れられた子供が言った。
「あ、猫のお姉ちゃん!」
「これ、指さすんじゃありません!」
わたしはあたりを見回し、「猫のお姉ちゃん」がわたしのことらしいと知った。
黒猫のハリーがわたしのうしろにくっついて歩いてる!
わたしは立ち止まってしゃがみ込んだ。
「ハリー?」
「ニャー」
たしかにあのネームプレートをぶら下げてる。わたしが両手を差し伸べると素直に歩み寄って、抱き上げても嫌がらなかった。
「ネコくん、わたしを見張ってるの~?」
「ミャオ」
「それじゃあ、いっしょに帰ろうか」
アパートはペット不可だけれど、かまうもんか……ミルクを御馳走くらいしてあげなきゃ。
ネコを抱いたまましばらく歩き続けると、見覚えのある姿が行く手に立っていた。
「鮫島、さん?」
「ハイ」
「なんで……」
「サイファーから連絡がありまして。迎えに行ってくれと頼まれました」
「そうなんですか……わざわざ、済みません」
「ニャー!」
ハリーがわたしの懐から飛び出して、こんどは先頭に立って歩き始めた。
わたしは鮫島さんと並んで、猫さんのおしりを眺めながら歩いた。
「僕の仕事はナツミさんの護衛なので、遠慮しないで良いです」
「護衛?」わたしはぶるっと身震いした。
やっぱりわたしなにか厄介なことに巻き込まれてるの?
「……なんでわたしなんかに護衛がつくのか、まだ分からないんですけれど」
「それはちょっと込み入ってるから……メイヴさんならなんとかしてくれると思ったんですが」
わたしは首を振った。
「時間が癒やしてくれるのを待つしかないみたいです……でもわたし、元に戻るのが怖いんです」
「元の記憶を取り戻すのが?」
「いえ、うまく言えないけれど、あの15年に戻るのもいや……わたし末期癌で余命わずかで」
「そんな夢を見せられたのか!ひどい話だ……!」
「そう、だから戻りたくないです。でもいまの現実も怖くて……ふと目が覚めたらあの病院のベッドに戻ってしまう気もしてなんだか混乱して……」
「ナツミさん」
乾いた温かい掌がわたしの指を掴んだ……最初はおずおずと、だけどしっかり。
わたしは鮫島さんを直視できなくて……でも手は繋いだ。
背の高い真面目そうな男性と手を繋ぐなんて……というか異性と手を繋いだのなんていつぶりだったかな。
「ふっ……」
わたしは発作的な涙をこらえきれず、嗚咽を漏らしてしまった。
鮫島さんはなにも言わず、だけどわたしの手を握る感触は力強くて、頼もしい。
恥ずかしいけどわたしは本格的に泣けてきてしまい……鮫島さんは立ち止まって、わたしの肩をそっと抱き寄せた。
背中をポン、ポンと叩かれた。
わたしはただただ彼の思いやりに感謝して、しばらく涙が溢れるままに身を任せた。
しばらくして、わたしは鼻をすすって、ハンカチで涙を拭い、なんとか昂ぶりを抑えた。
「……ありがとう」
「いえ……」
わたしたちはまた歩き始めた。
「あの……鮫島さんといると安心できるんです。ほかの人たちってみんな外人ぽくて、容姿もハリウッドスターみたいで……あ、鮫島さんももちろん素敵ですよ!……やだわたしなに言ってんだか」
鮫島さんは笑った。
「分かりますよ。僕もあの人たちの浮世離れ気味なところには当惑しますから」
わたしはうんうんとうなずいた。
「とても親切にしてくださるのは嬉しいんですけれど、わたしなんか、そんな待遇される理由がないし……」
「理由はありますよ!でもいま説明してもあなたには負担なだけでしょう。でも僕はえっとその――」
わたしはいぶかしんで鮫島さんを見上げた。
「あのその、ナツミさんは可愛いし……だから俺、いや僕はまも、守ってあげたいと……」
わたしは胸も頬も熱くなって、たぶん真っ赤になって、決まり悪げに赤面してる鮫島さんの顔も直視できなくなって、うつむいてしまった。
可愛い?
可愛いって言われちゃった。
わたし……わたし
どうしよう?
鮫島さんの手がわたしの手を探って、ふたたび握りしめてきて、それでわたしは二の腕にビリッときて、息を呑んだ。
めっちゃどうして良いのか分からない!
「あのあのっ……わたし鮫島さんといると、あ・安心、できます……」それだけやっと言った。
「そう言っていただけるとうれ、嬉しいです」
「ほかの人たちってみんな超能力みたいなのつかって、その、なんというかうまく言えないなあ……だけど鮫島さんはすごく真面目で、普通の人みたいだから……」
「そっ」鮫島さんは言葉に詰まった。「そんなに真面目で普通でもないんですけど、仕事が……いやたぶんナツミさんは知らなくて良いでしょう」
駅を過ぎて、馴染みのある景色にホッとした。アパートはもうすぐそこだ。
だけどわたしたちの行く手をまた妙な一団が阻んだ。
「ナツミさん、下がって」
「え?」
うつむいていたわたしが前を見ると、制服の中学生五人が通せんぼしている。
中学生たちはみんな同じ顔のように見えた。




