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143 子守歌


 その夜はサイファーがどこからともなくLサイズのピザを調達してくれた。

 月一のマックが唯一の贅沢、という貧困生活をながらく送っていた身としてはたいへんな御馳走だ。


 そのあとは信じられないくらい寝心地のいいマットレスに横たわってなんとかリラックスしようとしたけれど、わたしは眠るのが怖かった。

 目を覚ましたら病院で闘病してるかもしれない。

 夢なら醒めないで、とわたしは願い続けたけれど、メイヴさんの説明によれば「あれ」が夢だったのだという……

 にわかには信じがたい。

   

 部屋で横たわっていたのはわたしだけで、サイファーもメイヴさんも外に出てる。鮫島さんが帰ってしまったらしく、日本人はわたしだけなのでちょっと心細かった。

 「ニャオ」

 「ああごめん、あんたがいたか……ていうか君も日本人?……ま、日本猫か」

 「フニャ」

 黒猫さんはずっとわたしにくっついてた。彼もわたしのお友達なのかしら?

 マットレスの枕元に丸まった猫の首筋に手を添えて搔いてあげた。彼は眼を細めてプルッと首を振った。

 首輪はしてなかった。代わりに金のネームプレートを吊してる。

 「サージェント……ハリー?どういう意味かな」

 わたしは溜息を漏らして身を起こすと、立ち上がって上着に袖を通した。


 ガラス戸を開けて縁側に並べてあった靴を引っかけ、夜の庭先に出た。


 雪はやんで、青みがかった星空と雪のおかげであたりは明るい。黒々とした山の輪郭が鮮明だ。

 猫のハリーも庭に飛び出してうろつき回っている。

 電灯の明かりは見当たらない。いったいここはどこなんだろう?

 「う~やっぱ寒いな」

 それでも自由に立ち上がって歩けるのが嬉しい。比較的健康だったときでも40を過ぎるとあちこちガタがきて、それに比べたらいまは体が軽くてバネがある。

 庭先の焚火はまだ燃えていた。不思議な炎がオーロラのように揺らめいていた。見た目より暖かい。

 わたしはしゃがんでしばらく焚火にあたった。熱くなった掌を口元にあて、冷えた鼻を温めた。なんとなく楽しい。焚火も、猫さんと戯れるのも久しぶりすぎる。


 「ナツミ」

 背後から声をかけられてわたしは立ち上がった。

 「サイファーさん」

 絶世の美女は痛みを感じたようにくちびるを結んだ。

 「サイと呼んでくれていい」

 「サイ……」わたしはその言葉をたしかめた。「わたし、あなたをそう呼んでたの?」

 「そう」

 サイはわたしの両手を大きな手で包み込んだ。あったかい。

 「急いで教えたくはなかった……あなたは一杯いっぱいだろうから」

 「わたしなんかにとても気を遣ってくださるんですね……」

 「それは……そうさ」

 もっとなにか言いたげに感じた。

 「猫さんを外に出しちゃった……大丈夫かしら」

 「ハリー軍曹なら大丈夫だ。とてもお利口だから」

 サイはわたしをディレクターチェアに座らせた。膝に毛布を掛けてくれた。

 「眠れない?」

 「うん、その、携帯忘れてきたから時間が分からなくて……」

 「いま9時だ。アパートから携帯を持ってきてあげようか?」

 「ああ、そんないいです、一日くらい我慢できますよ」わたしは首をかしげた。「わたしのアパート、知ってるんですか?」

 「そりゃあね……一緒に住んでるから」

 「えっ!?」

 「あ、と言うかほら、ナツミもドアをくぐってここに来ただろう?ほんの少し歩く距離で繋がっているんだ。スマホを取りに行くのだって――」サイは言葉を途切らせた。

 「……やっぱり困惑させてしまうな」

 「そ、そうですね。ごめんなさい」

 「ゆっくり行こう」

 「あの、メイヴさんはどこにいるんです?」

 「下で神社の建立を手伝ってる」

 「神社……?」

 「二交代で突貫工事しているのでね、現場の人間を奨励しに行ってるのだ」

 サイファーは手を差しだしてわたしを立ち上がらせ、毛布を肩に羽織らせた。

 手をつないで崖っぷちまで歩いた。

 「気をつけて、下を見てごらん」

 わたしはサイに肩を支えられてソーッと崖下を覗いた。

 「わあ……!」

 200メートルほどほとんど直角に落ち込んで見える崖の麓で、工事が行われていた。

 作業灯に照らされているのはとんでもなく大きな鳥居と、幅の広い階段のようだ。

 途中の踊り場に神社らしき施設が作られているけれど、敷地に比べるとごく小さい。

 大階段はそこからさらに50メートルほど登って、山肌にぶつかって途絶えていた。

 「冥奉大社と呼ばれるそうだ」

 「こんな作業してるなんてぜんぜん気付かなかった……」

 「いまは雪かきしてるようだ。建築作業中はもっと騒々しい」

 「メイヴ大社」わたしは言った。「あのメイヴさんのために神社を作ってるんですか?」

 「まあ、そういう趣旨らしい」


 ますます非現実な話ばかりだ。


 でもこれが「現実」なら良いのにな、とわたしは思い始めていた。

 誰かに手を握られただけで、わたしの心はポカポカしてくる。ながらく馴染みのなかった感触。

 親切な人たち。

 

 「さあ、身体が冷えちゃうよ」

 サイに肩を抱かれて、わたしは回れ右して家に戻った。

 一緒に家に上がって、わたしがマットレスに横になると、サイファーはその傍らに寝そべった。

 (えっ!?ちょっとこれ距離近すぎません?)

 わたしはどぎまぎして、毛布を口まで引き上げた。同性なんだからそんなにドキドキすることないんじゃ?という気もするけれど相手は美の女神だ。

 いい匂いがするし。

 わたしがこの人と一緒に住んでるですって?


 「子守歌を歌ってあげようか?」

 「わっわたし子供じゃないし――」近すぎる美女の顔をなんとか勇気を奮い起こして見た。「……でも、歌ってくれると、嬉しい……です」

 サイファーは心底嬉しそうな顔になって、それから不思議な言葉で歌い始めた。

 

 この歌、聞いたことがある……


 なぜかつい最近、聞いた気がするんだけれど、記憶の糸をたぐってもはっきりしない……

 だけど前より不安は感じなかった。


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