幕間 破滅人の復活、九
ハクの奥の手は妃愛の物語で後々解説します。
妙に落ち着いていた。
今は耳の横を通り過ぎる風の音すらうるさく感じてしまう。
だが、一歩。また一歩と俺の足は着実に前へと動いていた。
それが。
その足音が静寂を壊していく。
頭が軽い。
腰まで伸びていたはずの髪は元の長さまで戻り、それでいてその毛束のいくつかが黒と水色に変色してしまっていた。そしてその髪は勝手にゆらゆらとなびいている。
これこそが。
この姿こそが今の俺が到達できる究極形。
妃愛の世界に招かれることとなった原因。次元境界の壁をいともたやすく突き破るその力は、静かな殺気を携えてそこに立っていた。
そんな俺の姿を見ていたレントが、フギトへの攻撃の手を止めて話しかけてくる。
否。
それは呟きのようなものだった。思わず口から漏れてしまった言葉。何かに驚くような表情を見せたレントがそこにはいた。
「……。そ、それが今のお前の……」
「……ああ。ここからは俺が引き受ける」
「た、戦いに集中してたのもあるが、お前、いつのまに変身したんだ? まったく気がつかなかったぜ……」
「前までは、他の変身みたいに気配を急激に高める必要があったんだ。でも今は、時間がかかりすぎるだけで、変に気合いを入れる必要もない。ま、それでもこの変身はもって三分だろうけどな」
レントとペトナがフギトを足止めしている間、俺が行ったのは自分の中にあるリミッターを切っただけ。神妃化や人神化のように全身の力を無理やり持ち上げるような強化は行っていない。
妃愛の世界に行くまでは、やたら時間がかかる上に大地は揺らすは、海は干上がるは、空は割れるは、いろいろ大変だったのだ。つまりそれだけ俺自身がこの変身に慣れていなかったということ。
だが今は違う。
依然として時間はかかってしまうものの、誰よりも静かに、誰よりも目立たず、そして誰よりも強い変身へと進化した。
人神化をさらに強化し、人間と神の力を完璧に融合させた一つの完成形。
それこそが。
「お前のその力もしかして人神化を……」
「『真・人神化』、俺はそう呼んでる。……もう時間がない。詳しい話はまた後で」
俺はレントに向かってそう言うと、同じく呆然としているペトナの横を無言で通り過ぎ、フギトの前に立ちふさがった。
見たところすでに自我はほとんど消失しているようだ。
であれば余計に早く決着をつけなければいけない。
「よう。待たせたな。こっちは準備完了だ。ここからが本番だぜ」
「黙れ黙れ黙れ黙れええええええええええ! 俺は、俺は! 誰にも負けん!」
「だったらそれを証明しようぜ。俺が相手をしてやる」
その直後、俺の肺に詰まっていた空気が全て口の外に吐き出された。同時にゆっくりと腰を下げ、足を引き、左手を前に突き出していく。
そして次の瞬間。
俺とフギトの足は同じタイミングで地面を蹴っていた。
「はああああああ!」
「だああああああ!」
真正面から拳と拳がぶつかり合う。
一撃、たった一撃だというのに、その余波だけで空間の壁に亀裂を走らせていった。
だが当然、攻撃が一回だけで終わることはない。
左手と左手。右肘と右肘。左ひざと左ひざ。
一進一退の攻防が続いていく。攻撃がぶつかるたびに大きな音が鳴り響き、世界を揺らしていった。
しかし、そんな攻防も長くは続かない。
いくら邪気によって人神化の効果を無効化しているとはいえ、先ほどの俺とは何もかもが違う。無効化されていたはずの人神化の効果が完全に復活し、今は俺の体から漏れ出る人と神の気配がフギトの邪気を圧倒していた。
「……ふっ!」
「がはっ!? だあああ!」
「遅い」
「かはっ!?」
突き出された拳を首を傾けるだけで躱した俺は、すぐさま空いていた右肘をフギトの顎に叩き込んでいく。とはいえそのダメージは大きくはないようで、少しよろけたフギトはすぐさま右足を振り上げて回し蹴りを放ってきた。
とはいえ、今の俺にはそれすら遅く見えてしまう。
通常の転移よりも数百倍早い転移を使用してそれを避けた俺は、フギトの鳩尾に左ひざを真上へ築き上げていく。
「な、何が、何が何があああああああアアアアアアアアアア!!」
「何が? 簡単なことだ。隠していた実力に差がありすぎただけだ。たかが数十発。拳と足を突き合わせただけでこの有様だ。お前の邪気はもう俺には通用しない。となればいくらお前でも俺を倒すより先に、自分の体につけられていく傷で根を上げるはずだ」
フギトは邪気を扱えるという特異性を除けば、とてつもなく強い人間としか言えないレベルにいる。それでもレントやペトナでは対処することすら難しいレベルだが、俺を追い詰めることは不可能だっただろう。
となれば。
今のフギトにとってこの状況はあまりにも不利と言わざるを得ない。
先ほど以上に強くなった俺はダメージを一切負わないという特異性を取り戻した。こうなると仮にフギトが俺と同じ戦闘力を持っていたとしても、先に倒れるのはフギトだろう。
なにせ、打ち込んでも打ち込んでも倒れず、殴れば殴るほどかえってダメージを受けてしまうのだ。
例えるならそれは通常の人間が鋼鉄の壁をただひたすら殴り続けている行為に等しい。
つまり現時点で決着はついた。
しかし、まだ気は抜けない。
だからこそ戦いを早々に終わらせるため、俺は新たな一手を選んでいく。
「……お前が何者で、何のためにここにいるのか、どうして俺たちと戦っているのか。その理由はわからない。けど、これで終わりだ」
フギトに向かって真っ直ぐ右腕を突き出し、手のひらに気配を集めていく。それは音を立てず静かに凝縮されていき、最終的に水色の光球を作り出していった。
「……な、なんだ、あれは?」
「こ、これは本当に人のなせる技なの……?」
フギトとペトナがそんなことを呟いているようだが、今の俺には返事を返せる余裕はない。それどころか、この技を発動した瞬間から、自身の限界に気が付いていた。
……ちっ。
もう時間切れか……。
ホワイトワールドや真・気配殺しだと、その性質上絶対的な破壊を呼び込むことしかできない。だが今はそれだとダメなんだ。
なんとなく、なんとなくだが、フギトは殺してはいけない。
そんな気がする。
額に脂汗がにじむ。
息が上がり、体温が急激に落ちていく。
真・人神化を発動している時だけ、その刹那の時間に許される全てを虚無に還す技。それこそがホワイトワールドに次ぐ俺の必殺技なのだ。
なのだが、次の瞬間。
「……ぶっ!? ごがぁ、はぁ!?」
身体中から血が噴き出した。
血管が破裂し、皮膚を突き破って鮮血が噴水のように溢れ出した。あまりにも強力すぎる力は、その使用者すら蝕んでしまう。
だからこそ俺は決着を急いだ。
「……いくぞ、フギト!」
「ぐ、ぐあああああああああ!!」
そう息込んだ俺だったのだが、そこで思いもしなかったことが起きる。
「なっ!?」
「ぐるるるるるるる! がああああああああああああ!!」
俺の力の発動を恐れたのか、フギトの体の中に巣食っていた邪気の全てが噴出してきたのだ。そしてそれは俺に向かって真っ直ぐ突き進んでくる。
「し、しまっ……!?」
あまりにも不意に起きた出来事だったため、とっさに体の防衛本能が機能してしまう。右手に集められていた不完全な力を、その邪気に向かって打ち出してしまったのだ。
その瞬間、俺とフギトを中心に大爆発が起きた。この爆発がどのような被害をもたらすのかまったく想像できなかった俺は、自身の体を無理やり動かしながら、背後で戦いを見守っていたレントとペトナを抱えて爆発から距離をとった。
「お、おいっ!」
「ちょ、な、なに!?」
「……ぐっ。伏せろ!!」
そんな俺の言葉が二人に届く前に、大爆発の波は俺たちを巻き込んでいった。
空気を何重にも圧縮したように時が止まり、音さえも消え去って、最後には赤く染まった雹が辺りに降り注いだ。
もともと荒野だったからまだいいものの、それであってもここには金輪際生命は根付かないだろう。直感でそう感じてしまうほど、ひどい爆発だった。
「……けほ、けほ。お、おい! 一体何が……。……って、お前!」
「……ぃ! あ。あなた、その傷……」
どうやら二人は無事のようだ。
だが。
そんな二人の言葉が全てを物語っている。爆炎が晴れた今、二人をかばった俺の体は見るも無残な状態になってしまっていたのだ。
「は、はは……。ごめん、二人とも。ドジっちまった……。あの技を使うってだけでも負担が大きいのに、それを失敗させて挙句の果てに立てなくなるなんて……」
右手は完全に吹き飛んでいた。
加えて顔の左半分が潰れ、下半身は皮膚一枚でくっついているような状態。
端的に言えば、人間であればまず間違いなく死んでいると断言できる姿だった。
加えて。
このダメージはイレギュラーな攻撃同士がぶつかった結果が生んだものだ。真・人神化の最強技と、人神化の無敵性すら打ち消してしまう邪気の激突。それは俺の真・人神化を無理やり解除させ、事象の生成でもなかなか治癒できない傷を残したのだ。
つまり今の俺たちはあまりにも危険な状態に置かれていた。
フギトがもしまだ戦える力を残していたら、それは俺たちの敗北を意味する。俺が今から全力で傷を治癒することに注力したとしても、半日はかかるだろう。絶理剣のような魔力の貯蔵があれば話は別だが、それも今は手元にない。
となれば、フギトが今の爆発で瀕死であることを願うしかないのだが……。
「……う、ううぅ。が、ああ……」
「ば、馬鹿な!? あ、あの爆発を受けて立てるのかよ!」
「お、お願い、フギト……。もうやめて、もうやめてよ!」
「……くっ。だめか……」
フギトは立ち上がった。
見たところかなり深手を負っているようだが、体の部位が欠損しているような致命症はないらしい。溜め込んでいた邪気は消え失せているが、それでも圧倒的なまでの魔力はまだ健在だった。
万策尽きた。
もし仮にもう一度、真・人神化を発動することができれば可能性はなくはないが、それも今は不可能だ。
レントやペトナの特異眼では、フギトを殺すことはできても無力化させることはできない。
そう。
この場にいる誰もが絶望と恐怖を感じていたその時。
かろうじて発動していた気配探知が「ある存在」の気配を俺に知らせてきた。
「ぁ……」
地面に倒れている俺の目に映ったもの、それは。
荒れ果てた大地を癒すような柔らかな日差しだった。
時が止まったように感じだ。
俺も久しぶりに目撃した。隠蔽術式を使用せず、ありのままの姿を晒したその存在を。
俺も、レントも、ペトナも。
そしてフギトさえもその存在に目を奪われる。
純白の髪。
空と海を溶かしたような青い双眸の中にひときわ強く輝く真っ赤な光が見て取れる。
己の身長よりも長く伸びた髪がふわりと中を舞い、圧倒的な気配を携えて降臨したその存在は、まさしく。
女神だった。
「……あなたはもう十分苦しんだんだね。だからその力は私が封印してあげる。今度は力だけ。だからあなたはもう自由なんだよ」
「ぅ、ぁ、ぁぁ……」
そして始まる。
この世で最も美しい救済が。
「……カラバリビア、封印執行」
「がっ!?」
瞬間。
フギトはその場に倒れ伏した。
そして知覚する。今のフギトに邪気は扱えないと。この場にいる誰もが本能で、その事実を感じ取っていた。
だが、誰も動き出せなかった。
レントはその場に立ち尽くし、ペトナは震えながら両目に涙を溜めていた。
そして俺は一人、顔に小さな笑みを浮かべていた。その「少女」がこちらに向かって近づいてくると同時に、体の傷が癒えていくその感覚を感じながら。
「……神姫化、か。本当に強くなったな、アリエス」
「もう! ハクにぃは無茶しすぎなの! 私が来なかったらどうするつもりだったの!」
「あはは……。還す言葉もない。でも、今ようやく実感したよ」
「何が?」
「アリエス。お前はもう俺に守られるだけの存在じゃないんだなって」
「わかればよし! というかみんな心配してたんだから! ハクにぃの力がこっちの世界まで伝わってきてて……。この後みんなからお説教だよ、多分」
「か、勘弁してくれ……。こっちはくたくたなんだから」
そう少しだけはにかんで。
俺は目の前まで歩いてきたアリエスを抱きしめる。
どうやら、今回も俺たちの平和は守れたらしい。だけど、その結果は俺の想像していた斜め上へ向かっていった。
ま、結果オーライってことなんだけど……。
とりあえず、フギトとペトナが引き起こしたこの戦いは幕を下ろした。
そしてようやく二人の時間が動き出すのだ。
アリエスの鍵がフギトに通用したのは、星神がフギトを鍵によって封じ込めていた過去があったからです。
いわゆるトラウマってやつですね。




