13.役割と使命と
……いかにもやる気の無さそうな宿の主人に案内された3階の部屋は、これでよく宿を名乗れるものだと、逆に感心してしまいそうなほどに酷い荒れ具合だった。
だが――伊崎 晃宏は、それについてはまるで気にした風もなく。
ガラスも無い窓辺に腰掛けて、眼下の街並みをいかにも愉しそうに見やる。
「思ったより活気があるな。……良い街だ」
――旧インド北東部の大都市、コルカタ。
かつてはカルカッタと呼ばれた有数の貿易港は、当然〈暗夜〉以前とまではいかないまでも……郊外の雑然とした街並みを行き交う人々はそれなりに多く、一定の賑わいを見せていた。
「何の、こんなものじゃなかったぞ? 70年前は」
晃宏に並び、街を見下ろした老人が感想を添える。
顔に刻まれた皺は、老人が相当な高齢であることを窺わせるが……ぴしりと伸びた背筋と、鋭く深い眼光は、衰えとしての老いなどまるで感じさせない。
「へえ……ケン爺、そんな昔に来たことあったのか。
70年前ってことは、〈暗夜〉どころか〈その日〉より前だよな?」
ケン爺と呼ばれたその老人――。
晃宏の祖父彰人が、黄泉軍の一部隊を率いていた頃より、その右腕として活躍し……以来、50年以上もの長きに渡り彰人を支えてきたカタスグループ日本本部の重鎮、梶原 兼悟は。
険しさがすっかり凝り固まってしまったような表情を、少しばかり柔らかくほぐして、微かに笑う。
「私がまだ子供の頃のことだからな。
親の仕事の都合で立ち寄った際、迷子になったのだ。
車も人も、交通法規などまるで無いようにごった返す中、途方に暮れていたところを、親切な地元の人間に助けられた記憶がある」
「ほお? あの〈鬼の梶原〉に、そんな可愛らしい頃があったなんてなぁ」
「……ふん。抜かせ、洟垂れ小僧が」
微笑を浮かべたまま悪態を吐く老人を、オレももう20半ばだと、軽口で返しつつ振り返る晃宏。
……晃宏と梶原老人が、文明の衰退により現在ではまだまだ困難な渡海を成し、日本を出てこうしてインドまでやって来ているのは――。
かつて〈暗夜〉で連絡が途絶し分断された、カタスグループ各地の支部と再び連絡を取り合い、連携出来るようにするためだった。
彰人の跡を継いで新たな総裁となった父――その代理人として。
イクサの若き総括でもあった晃宏は、これからは日本のみならず、世界規模で社会の安定を図っていかなければならない――と。
各支部と直接話を付けるため、自ら、信頼出来る少数の部下とともにこの危険な旅路に乗り出したのだ。
ただ、だからといって世界中の支部を巡るのでは、あまりに時間がかかりすぎる。
そこで協議の結果、短距離の渡海で済み、危険性の少ない極東の支部から始め……そこから陸路で、重要拠点の一つとされてきた旧トルコの中東支部へ向かうのが、差し当たっての目標となっていた。
その成果如何によって、改めて、今後の展望を考えようというわけである。
「さて……インド支部はどう出るかな」
「事前情報とこの街の様子を見る限り、中国支部のようにはなるまいが」
梶原の推測に、晃宏は精悍な顔に僅かな陰を差しつつ「だといいけどな」と呟いた。
……以前より多少なりと連絡を取り合えていた韓国支部はともかく、そもそも時の政府との軋轢によって充分に機能を発揮していたとは言えない中国支部は、〈暗夜〉の混乱に沈んだかのように、活動規模を縮小、弱体化していた。
かろうじてグループの看板は残り、意志を受け継いだ人間もいたものの……既にして、組織とは呼べないほどの小集団となってしまっていたのだ。
あれでは連携を取る前に、まず組織としての立て直しから始めなければ――と、晃宏は内心ため息をつく。
「――おい、晃宏。
この先、グループを背負っていかねばならんお前がそんなことでどうする。
中国にしても、看板が残っていただけ儲けものだろうが」
幼い頃から、養育係のような形で世話をしてきた晃宏が垣間見せた憂いに、老人は巌のような声で発破をかける。
「ああ、分かってるよ。
……まだまだ、これからだもんな」
その想いに応えて、晃宏はにっと子供のような笑顔を見せる。
――しかし、そうかと思うと……。
何かそこには無いものを見ようとするような視線を、再び窓の外へ向けた。
「――なあ、ケン爺……。
確か、〈アートマン〉とか呼ばれた屍喰が確認されたのが、このインドだったって話だよな?」
「最後にその姿が確認されたのは、この国でももっと西の方になるがな。
それ以来、〈暗夜〉に阻まれたとはいえ、まるで噂を聞かないが……さて、今頃どうしていることやら」
「……そうだな……。
ま、生前殺人鬼だったようなヤツが暴れ回らず大人しくしてくれてるってンなら、何であれ悪いことじゃないだろ」
自分から振った話題ながら、あまり興味無さそうに答える晃宏。
……実際彼は、アートマンのことには――彼やイクサの活動を邪魔しようというのでなければ――さして興味は無い。
彼が興味――むしろ執着とすら言えるほどのそれを持つのは、屍喰は屍喰でも、全く別の存在についてだったからだ。
そしてそのことを、他の人間ならいざ知らず、梶原老人だけは誰よりも良く理解している。
「……掴めればいいな。
〈白髪の屍喰〉――その行方を」
ああ、と力強く答えて。
晃宏は、傾き始めた陽の光――その金色に、真っ正面から目を向けた。
「必ず、見つけてやる……時平 カイリ」




