かつて、オルレアンと呼ばれた地にて
――その地はかつて、オルレアンと呼ばれていた。
〈救国の乙女〉に縁ある都市として栄え……そして長い年月の果てに、新たな〈乙女〉を迎えた歴史を持つ地。
〈白鳥神党〉の解体後も〈乙女〉を慕う者たちが残り、純粋な信仰心を柱に、静かな生活を営んでいた地。
何かの『偶像』を、あるいは『教え』を奉ずるのではなく――隣人を、自らの命を、そして世界そのものを……ただ尊び、穏やかに心を寄せ、信じる――。
そんなあるべき信仰の心だけが、繋がり、伝えられた地。
その起点となった〈乙女〉を、誰も認識出来なくなっても……その信仰心だけは残り続けた地。
やがて、一人、また一人と、花の種子が風に乗って広がるように――人々が、あるべき信仰心だけを胸に、世界へと旅立ってゆき……。
その地の名も、由来も、知る者がいなくなってしまっても。
彼女にとっては、いつまでも変わらない――。
両親が眠る、大切な出会いと別れもあった、思い出の地。
――その地には、慎ましやかながら豊かな、花畑があった。
かつて〈乙女〉と呼ばれた彼女――メールが、両親の墓を彩るために植えたものが、長い年月の中、ゆっくりと広がったものだ。
そこにメールがいることを知っていたのは、遙か昔――〈白鳥神党〉の名がまだ残っていた頃の、ほんの僅かな人々だけ。
今となっては、それを伝え聞いたという者すらいないだろう。
両親が亡くなってから100年と経たないうちに――彼女を知る人々のことごとくが寿命を迎えるのを機に――メールは、自らの気配を完全に断ち……誰からも認識されないようにしたからだ。
〈屍喰〉という超越者たる自分が、再び『偶像』とならないように。
ようやく正しい形に立ち返ろうとしている信仰の心が、再び歪まないように。
そうしてメールは、ただ、この地に住まう人々を見守り続けてきた。
この地を訪れる者が、腰を落ち着け、何世代にも渡って命を繋ぎ……やがて再び旅立つまでを。そんな、人の自然な営みを。
ただ、ずっと――見守り、寄り添ってきた。
――それは、どれほどの年月だっただろうか。
彼女には分からない……そもそも数えてなどいなかったのだから。
なぜならそれは、彼女にとっては。
つらくも寂しくもない、満ち足りた時だったからだ。
安息の中、人々を見守るうちに――ただ、時が過ぎていただけだからだ。
……そしてそんな、信仰の心を宿す、この地に慎ましやかに住んでいた人々でも……命を終え〈生屍〉となった者は、隔離せざるを得なかった。
ただしそれは、当時の世界的常識であった〈冥界〉への『遺棄』とは、趣を異にした。
既にして、生屍の凶暴化が沈静に向かっていたことも一因だろう――彼らは暴力ではなく、儀式を以て厳かに、死して生屍となった者たちを隔離区域へと運んだのだ。
そう――いつの日か再び、その魂と再会する日が来るのだと信じて。
その様はまさしく、〈冥界送り〉とでも呼ぶに相応しいものだった――遙か遠い神話の時代、冥界と現世が一続きになっていた世界のように。
メールは――人知れず、少しずつ……そんな生屍たちを、〈星の廻り〉に還していた。
いずれきっと、彼らの願い通りに――その魂たちが、再会出来るように。
しかし……住む者がいなくなれば、還すべき生屍たちもやがていなくなるのが道理。
そして今日、遂に最後の生屍を還したメールは……一つの決意を以て、両親の――もう一見して墓には見えなくなった場所の間に、今一度、小さな穴を掘る。
そこにそっと横たえたのは――ずっと、彼女とともにあった〈お人形さん〉だ。
母から贈られた、彼女の宝物。彼女と人を繋いでいたもの。
そして――彼女にとっては、かけがえのない友人。
何度も何度も、補修を重ねながら……長い長い間、ずっと彼女に寄り添ってくれた。
〈お人形さん〉がいなければ、こうして穏やかな時間を生きることもなかったかも知れない。
だからこそ――と、メールはそっと〈お人形さん〉を撫でる。
いかに補修しようとも……もうそれは、存在としての限界にあるのは明白だった。
彼女と違い、もう充分に生き、年老いていた。
だから……この子も、もう、星に還してあげないと――。
心からの『ありがとう』を、何度も何度も繰り返しながら……名残を惜しむように、ゆっくりと、土を被せていき。
やがて出来た小山に手を置いて、別れを告げて立ち上がり――振り返れば。
そこには、一人の少年がいた。
いつの間にか、という驚きなどない。
なぜならそれは――予感していたものだったから。
彼女にとっては、いわば、あるべきことだったから。
《おかえりなさい――カイリ》
メールは、屈託の無い笑顔で、白い少年を迎えた。
永い時間の果てに彼女は、以前別れたときには分からなかったことを……彼女自身と彼のことを、より深く理解していた。
だからきっと、心が紡いだのはこの言葉だったのだ。
それに対してカイリは、ほんの少し驚いた後……やわらかく微笑んだ。
「……ありがとう。
そして、ただいま――メール」
メールは、静かに小さく頷く。
……カイリに、僅かながら哀しげな色が見られたのは――間違いではないだろう。
世界は――人類はまた、自ら、大きな滅びを招いたからだ。
それぐらいのことは、ここに居続けたメールでも分かった。
――人は、決して愚かなばかりではない。
様々な苦難を経て気付きを得、より正しい道を選ぼうとしているはずだった。
だが――やはり、未だ幼かったのだ。
これまでより、正しくあろうとしても……それが性急に過ぎれば、新たな歪みとなるのだ。
幼いがゆえにひたむきに前を見た人は、いつしか、立ち止まって顧みることを怠り――そして幼いがゆえに、その変化だけは早いものであり。
やがてそのうねりは、誰にも止められないほどに肥大化し、正しさも歪みもすべてを呑み込んで……今一度、人の営みを流し去ってしまったのだ。
「だけど……ううん、だからこそ」
メールの思考を察したらしく、カイリはそう切り出した。
「――人はきっと、成長を続けるよ。
これまでに得たものを、いろんな『善いこと』を、心の中に種と宿して……。
それをいずれ、彼ら自身の選ぶ、最も正しい道の先に――花と咲かせるために」
《それを……これからも、見守るの? 寄り添うの?》
「そうだね。
メール――キミが良ければ、一緒に」
言って、カイリはそっと手を差し伸べる。
それは彼らが、互いに『人』として生きてきたがゆえの、一つの形式だ。
……なぜなら、二人にとって――答えは、決まり切っているのだから。
《うん。一緒に。
……どこまでも。いつまでも》
カイリの手を取り、握り返し……メールは。
《――最初に、海を見てから》
〈海〉という名を与えられながら、ついぞこれまで海を見ることがなかった彼女は。
そんな、小さなわがままを告げて――優しく、微笑んだ。




