45.それが病ならば
「…………ふむ…………」
アララト山頂から、遠くウラルトゥの方角を見下ろしていたヨトゥンは……。
この母なる〈星〉を通して『視た』、〈回帰会〉と〈出楽園〉を巡る危機的状況の顛末に――小さく一つ、思案顔で鼻を鳴らす。
……人は、ともすればそのまま破滅へと転がり落ちかねない道を回避した。
それも――人が、人による行いを以てして、だ。
大洪水の果て、方舟に乗った者だけが永らえるのではなく――。
そもそもの大洪水を起こさずに済んだのだ。
そのことについては、人が愚かなばかりではない、という何よりの証左だろう。
技術ばかりが進歩しても、むしろ人を人たらしめる精神性については退化しているかのようだった人類が――それでも、まだ前へと進めるという証明だろう。
それは、ヨトゥンとしても喜ばしいことだった。
結果として、彼の予測通りではなかったが……むしろ、だからこそ。
そう、彼は人間というものを――その愚かしさすらも呑み込んだ上で、慈しんでいるのだから。
〈星〉がそうであるように……彼もまた。
人間を、この星に生きる命の一つとして。
いや、あるいはそれは当然のことなのかも知れない――〈屍喰〉たる彼は、即ち〈星〉そのものの一側面とも言えるのだから。
「……しかし――」
……同時に、彼は知っている。
分水嶺とも言えるだろうこの事変を、同じ人間でありながら、最悪の方へ転がすことを望んだ――そんな者もまた、一定数いたことを。
その者たちが、密かに、更なる戦火の拡大のための準備をしていたことも。
こうして事態が両陣営の和解に落ち着いた以上、それらはいずれ潰えるだろう。
そしてともすれば、そんな事実がまた『学び』となり、人間の進歩を僅かなりと促すことにもなるかも知れない。
だが――それはあくまで、この切り取ったほんの一時代のことでしかない。
はるか先を見据えたとき……果たして今回の選択は、吉凶どちらへと転ぶのか。
「…………」
ヨトゥンはゆったりと、視線をぐるり周囲に巡らせる。
彼が見えずとも視るのは、どこまでも広がりゆく大地。そしてそこに生きる人々……。
病気というものは、患部・病巣を見ているだけでは、全てを正しくは把握出来ない。
また、直接的にそれらを治し、取り除いただけでは、根本的な治療とはならない。
ときに精神的なものも含めた、そうなるに至った経緯・状態……そこまで見据え、改善してこそ、ようやく完治に至るのだ。
――命とは、繋がっているものなのだから。
「果たしてこれもまた、その場凌ぎの対症療法に過ぎないのか……。
それとも、ようやくの根治への確かな足がかりとなるのか……」
人というものに、『在れ』と願ったのは何より、この〈星〉そのものだ。
いかに人がこの星を汚し、壊そうとも。
〈星〉は――延いては彼は、人そのものを『病巣』などとは見なさない。
だが――同時に彼は、人を『健康体』とは見ていない。
言うなれば人は、病を抱え続けているのだ――己が手によって自らを滅ぼしかねない、悪病を。
そしてそれを人は、今回の事態と同じように、これまでは何とか取り返しのつかない状態になる前に対処してきたが――。
「劇薬はあくまで劇薬でしかない……といったところか。
この上なおも、小康を保つばかりか増悪に傾くのならば――」
〈その日〉と〈暗夜〉は、いわば緩やかに悪化していた症状への、劇薬のようなものだった。
それは確かに一定の効果はあったのだろうが……根本的な治療に至っていないのは明白だ。
己を滅ぼしかねない人の『愚かさ』は、今回のようになおも顔を出す。
そして、彼は危惧しているのだ――かつての人がそうであったように。
豊かになり、生活が安定するほどに……皮肉にもその『愚かさ』が、再び加速度的に増悪することを。
やがて、取り返しの付かない事態になることを――。
「……いや……」
ヨトゥンは、小さく首を横に振る。
そうして、改めて……ウラルトゥへと真っ直ぐな視線を戻した。
「人よ、願わくば――」
自らに拠って、自ら救われんことを。
自ら〈星〉とともに在る者とならんことを――。




