2. 離別
一面が雪で覆われていた。山も、木々も、川すらも灰色がかった白。唯一色彩を持っていたのは、地平線まで続く一本の線路、そして高台の上からそれを見下ろす一人の男だけだった。
「アリシレラ」言って彼は振り向き、雪焼けした精悍な横顔を見せる。「これから見せるのが、俺たちの〈意味〉だ。倭人のお零れを貰って生きている今と比べて、どちらがいいか考えるといい」
鼻持ちならない言葉に、アリシレラは苛立った。
「偉そうに。あれから私がどうやって生きてきたか、知りもしないくせに。今更兄貴面しようっての?」
「毒を吐いて気が済むなら、そうすればいい。けど一度だけだぞ? それ以上は時間の無駄だ」
「どういう意味よ」
「俺たちが一緒にいたなら、すぐに捕まっていただろう。だから別れる必要があった」そこでふと、笑みを浮かべる。「まさか本気で俺を恨んでるのか? だとしたらお前は、相当に頭が悪い」
言われるまでもなく、頭で理解はしていた。だがそれで、十歳かそこらで一人路上に放り出されてからの苦痛は誤魔化せない。とはいえ反論できずに黙り込んでいると、彼はため息を吐きつつ双眼鏡で地平線を眺めた。
「釧路でのことは大変だったろう。あの養父母はいい人たちだと思っていたんだが――結果的には、いい人だったのが徒になってしまった」
「知ってたの? 私が何処にいて、どんな暮らしをしてたかも?」
「別にいい格好をしたい訳じゃないが、それくらいのことはしていた」
「それでも私を放置してた? それでなんで今更――」
「四六時中見張っていられた訳でもないからな。そのままお前が平穏に生きていけるのならば、二度と関わるつもりはなかったが――あの二人が倭人に浚われた事を知った時には、もう手遅れだった。それは謝る。だが彼らを失ってわかったはずだ。〈帝国〉は蝦夷の――〈親〉を気取ってる。いい意味でも、悪い意味でもな」
「子を殺す親なんて、滅多にいない」
「だから事件になって、捜査も行われ、連中は逮捕された。知ってるか? 倭館の役人たちが黒幕だと暴いた少年は、帝国警察の創始者、川路利良の子孫だそうだ。その利良は面白いことを言っている。『警察官は人々のための勇気ある強い保護者であるから、威信がなければならない。その威信とは人々がどう感動するかにかかっている』。いかにも帝国らしい、傲慢で不遜な言葉だ」
「――悪い言葉じゃないように思えるけど」
「感動というのは――」そう、彼は地平線から近づいてくる黒い煙に目を細めた。「感動というのは、言葉で説明した時点で死ぬ物だ。それをあえて説明しようとするのは、相手を見下している以外の何物でもない」
「それは誰の言葉?」
「俺のさ」ニヤリと笑って、彼は指笛を吹く。途端に白い丘に身を隠していた男たちが腰を上げ、近づいてくる蒸気機関車に身構えた。「だから、これからすることを説明するつもりはない。見て、感じろ」
アリシレラは、彼の言っていることがよく理解出来なかった。川路利良という男の言葉は、警察官という仕事の意味を的確に示しているように思える。人々というのは――アリシレラの養父母となったあの二人も含めて――基本的に愚かで救いがたい。自分はそんな連中と関わらずに済む道を探し続けていたが、そんなのは仙人にでもならないかぎり不可能なことだと悟りはじめていた。結局は彼らの引き起こす様々な問題ごとにアリシレラは巻き込まれ、釧路での事件のように、馬鹿馬鹿しい騒ぎに翻弄されてしまう。
ならばむしろ、それを制御し統制し、掌握できる立場に立つ方がいいのではないか――そう思い始めたきっかけは、まさに釧路での出来事にあった。あの少年は――それこそアリシレラとそう変わらない年頃の彼は――鈍い警察官たちを上手く利用して動かし、出来事を整理し分類し、その裏の裏まで見抜き全てを暴いた。
だが、この兄は――数年ぶりに再会し無頼漢のようになっていた兄は、また別の道を示そうとしている。
それが一体、どんなものなのか。
黒煙と汽笛を上げる長大な車列が近づいてくる。見ただけでも三十両くらいはありそうだ。それが眼下を過り半ばまで通り過ぎたところで、唐突に鈍く低い轟きと共に爆発が起きた。さほど大きな物ではなかったが、貨物車を脱線させるには十分な物だった。ある物は前方に追突し、ある物は雪の中に突っ込み、ある物は互いに折り重なる。そうして殆どの動きが止まると、高台の各所に身を伏せていた一団が姿を現した。彼らはライフル銃を抱えながらかんじきで雪の上を走り、貨物が散乱している一帯に集まっていく。
機関車は後方の異常に気づいて急停車していて、銃を携えた数人が飛び降りてくる。途端に彼らとの間に撃ちあいが始まった。純白の雪原に灰色の煙が上がり、次々と弾薬を装填する金属音、そして火薬の破裂音が鳴り響く。
しかし、敵は明らかに多勢に無勢だった。襲撃側は雪の上を自在に動き回り、貨車の上にもよじ登り、瞬く間に包囲していく。やがて数人が打ち倒され戦意を失った彼らは、銃を投げ捨て膝を突き、両手をあげた。
白い息を吐きながら銃口を突きつけ取り囲む仲間たちを押し分け、降伏した三人に近づいていく。蝦夷の鉄道は開通した当初から帝国の物で、運営しているのも全て倭人だ。北海鉄道のコートと制帽を被った彼らは見るからに十代そこそこの若い倭人たちで、取り囲む蝦夷たちを怯えた瞳で見上げている。
どうするつもりか。そう見守るアリシレラの前で、彼はおもむろに三人に近づき、取り出した拳銃で手早く眉間を撃ち抜いていった。
「残りもいたら片付けろ」
彼が言うと、すぐに手下たちは機関車や貨物車に入り込んでいく。そして数発の銃声が響き渡ったあとは、十数人の蝦夷たちが黙々と貨物を改め、値打ちのあるものを一カ所に集める作業が続いた。アリシレラも用心して銃を携えつつ、散乱している貨物に近づいていく。散らばっているのは石炭、毛皮、そして壊れた木箱からあふれ出ているのは、藁に埋もれた金の延べ棒だった。
金塊なんてものを見るのは初めてで、どれほどの価値があるのかもわからない。しかし蝦夷の男たちは慣れた調子でそれを拾い集め、予め用意していた大型のソリに積み込まれていく。
全てが終わるまで、ものの十分といった所だろうか。アリシレラの座るソリは、未だ黒煙と白煙を上げ続けている一帯から離れていく。加わった色彩は、十数人の倭人たちの身体から流れる赤い血の色――
「何故殺したか?」
特に声に出して尋ねる気にもならずにいた事を、隣に座る彼自身が口にする。仕方なくアリシレラは言葉を継いだ。
「どうせ何かしら、ご立派な理屈があるんでしょ」
「そういう、あまり感傷的じゃないところは変わってないな。いや、薄情と言ってるわけじゃない。理屈や道理が通っているかどうか、それをお前は一番に考える」
「そういう兄さんは、相変わらずヒトの感傷を利用してる」そう、私語もなく黙々とソリを引く男たちを顎で指す。「どうやってあの人たちを洗脳したの」
「洗脳だって?」
「私はそれで散々酷い目に遭ったから、理屈で武装するようになった」
「待て。それはお前の思い違いだ。別に俺はお前を利用しようとした事はない。単に物には別の見方が必ずあるというのを――」
「それが間違ってる。現実を直視しなきゃ、結局いつか打ちのめされる。例えば、皆に見捨てられて一人になった時とか」
「愚痴は一度だけだと言ったはずだぞ」
「兄さんはいっつもそう。偉そうに、何でもかんでも上から命令する」アリシレラは思い切り、遠ざかっていく車列に手を振り下ろした。「だいたい何よ、あれが兄さんの示したい物? ただの列車強盗、ただの殺しじゃない。こんなことしたって、蝦夷も、帝国も、何も変わりはしない」
「いや、変わるさ」と、周囲の蝦夷たちに目を向ける。「見てみろ。彼らもそれを信じている。そして信じていればいつか必ず――」
「はっ、止めて。連中は騙せても、私はもう騙されない」
ソリから飛び降り、アリシレラは別の方角に歩み始めた。すぐに彼が、その背中に向けて叫ぶ。
「それでどうする! お前はまた、倭人のお零れをもらって生きていくのか?」
立ち止まり、振り返って叫び返した。
「まさか! もう誰かに振り回されて生きてくのは散々よ!」
「なら、どうする!」
「物には別の見方がある! 別の道が必ずあるんでしょ!」
彼の言葉を借りるのは癪だったが、他に適切な言葉を思いつかなかった。しかし、現にアリシレラは、うっすらと彼とは別の道が見え始めていた。
自分の道は自分で切り開き、誰からも足を引っ張られないよう、全てを制御する。
ひょっとしたら川路利良という人物の言葉は、それを実現する何かを与えてくれるかもしれない。
しかしきっと彼は、また面倒な言葉を駆使してくる。そう身構えていたが、彼は思いのほか簡単に、アリシレラの言葉を受け入れた。
「――そう。同じ場所を目指すとしても、道は様々だ」そしてこちらに背を向け、片手を挙げる。「お前ならやれる! さらばだ、アリシレラ!」
応じようとしたが、言葉が見つからなかった。ただ見つめている間に彼の背中は遠くなり、やがて雪原の中に消えていった。




