『”同期”について』
「横に着けたぞ!ここからどうする!」
豆腐の言葉によって、ニラヤマは我に返ります。
まるでアパートの隣部屋のように、ぴったりと横に着けた方舟は、しかし外ならぬミズナラの意志によって、向こう側に行くことのできない『壁』が残っていました。
「ワールドに植えた私の『知恵の実』はまだ残ってる、呼びかければ聞こえるはずなんですけど……」
と言いながら、ニラヤマは隣部屋のミズナラのアバターが、ぐちゃっと潰れたような奇妙な姿勢で寝そべってるのを見ます。
「もしかしてアレ、ヘッドセット脱いでんじゃないですか?」とニラヤマが言って、初めて豆腐はその事態の重大さに気付きます。
「トイレとかなら戻ってくるかもだけど、ショックでPC落とすのも忘れて泣いてるとかなら、私たちEDENの方から意志を伝える手段は……」と、ニラヤマが言い淀むのを遮って「ここに居ないミズナラの場所を知り、一方的にでも声を伝える手段はある」と豆腐は告げました。
恐らくは一度きりになるだろう、実名のLINEは喧嘩した時にブロックされて、そんな相手にSNSの裏アカウントまで見られていたとなれば嫌悪されるのは当然で、それでも一文、一言でも伝えてEDENに引き戻せればいい。
男性の声へと変換させるボイスチェンジャーを切り、SNSで送ったメッセージと同じ言葉をインスタンスの先へと語り掛ける。
『運営の使者』という役割の仮面がなければ何度も吃り、上ずって、それでも周囲に強制されてではなく。ただ今までは上手く行っていた方法を捨ててでも、自分から歩み寄る必要があると感じたから、豆腐はミズナラに声をかけます。
――神は六日目に土くれから人を創った、とその出来事はきっちり六分目に起こりました。
カタンと小さな音がして、ひしゃげたミズナラのアバターの左手がまず上がり、そして右手と一緒にヘッドセットが被り直され「……○○?」と周囲を見回します。
それが、豆腐の本名であると推察しながらも、ニラヤマは黙って待ちます。
ミズナラはアパートの一室に変化している大聖堂のワールドに驚きながらも、そこに植え直された『知恵の実』を介して豆腐やニラヤマの居る本会場の景色を見ていました。
この光景を創ったのが自分であるとは分からないだろうなと思いながら、豆腐はミズナラに抱いていた想いを口にしていきます。ワールドに植え直した『知恵の実』はインスタンスを越えて、しかし誰が喋っているのかは分からない状態で音声を共有する、それは今の豆腐にとっては好都合なことでした。
「話したことや描いた漫画の内容に共感してくれて、社会に適合して皆に好かれている人でも、わたしと同じような想いを抱えることはあるんだって分かった。そういう人に向けてわたしは漫画を描けばいいんだって、何時もきみに読んでもらうことだけ考えてたんだ」
ワールドを、そしてインスタンスという『方舟』の浮かぶ海を見ながら想いを告げる豆腐とは対照的に、ミズナラは本会場を映す『知恵の実』から豆腐の傍に居るニラヤマの横顔だけを見て「あの人のことを好きになったのは、笑顔の素敵な人だったから」と呟きます。
それは豆腐の胸にするどい痛みを感じさせる光景でしたが、ニラヤマは誰についてミズナラが話しているのか先に分かっていました。
「不登校なのに引き籠らず、それ以外の場所から笑顔になれるものを見つけてきて、心の底から嬉しくて笑えるような反社会的な子だった。誰かの為に、何者かであるために笑うんじゃなくて、自分が嬉しいから笑えるような自閉的な子だった」
と、そこに居るのかも分からない相手に、ミズナラも同じく想いを告げていたのです。
「ニラヤマさんのことを好きになってしまったのも、性別関係なく○○さんに似ていたからかもしれない」と。
「わたしがプロの漫画家として交友関係を作ろうと、きみと一緒に居た時のわたしを形作っていたものが、わたしの中から消えて無くなるわけじゃない。だけど、きみは『プロの漫画家のわたし』から遠ざかって行った。だから寂しかったんだ。あの時のわたしが、今のきみに置いていかれたような気がして……でも、きみも同じように感じていたのかもな」
それらの声はヘッドセットのマイクから、ユーザーの声としてインスタンス内に発信された後に、それを『知恵の実』がインスタンス全体から聞こえる音声として、異なるインスタンスへ伝達するタイムラグが生じます。
遅れてミズナラの居るインスタンスから聞こえてきた声は、恐らく現実世界ではほとんど同時に口にしたものでした。
「ここに居る人たちとは、別に好き合っていない。一緒に遊ぶ、性欲を解消する、仕事の愚痴を聞いてもらう、喜びを分かち合ってつらいことがあれば慰める、お互いに在りたい姿で居ることを肯定して、ただ――自分の現実での生活には、何も関係することがない相手。誰かと慰め合い、互いの存在を肯定し合うという行為が好きな同士で、一緒に居るだけ。あの人達はそれすらも好きではなかったから、慰めることも肯定も受け取ってはくれなかった」
お互いの声を聞いた瞬間、ワールドや周囲の景色ばかりを見ていた豆腐は初めてミズナラ自身のアバターを見て、一方のミズナラもアパートの一室に同じ構造をした『方舟』が横着けされていることに気付きます。
そして豆腐もミズナラも相手のアバターの素振りから、お互いに自身を見ていることに気付いたのでした。そして豆腐とミズナラが「「あ、」」と同時に何かを言おうとして互いに手を伸ばしかけた時に初めて、ニラヤマを含めた三人で同じインスタンスに集まっていることに気付きます。
「「ど、どうして」」と閉じ籠っていたはずのミズナラと、聞かれていないと思っていた豆腐が狼狽えますが、ワールド製作者としての知識を持つニラヤマは、それが決して有り得ないことではないと理解していました。
そもそもEDENにおいて各プレイヤーは、サーバーに繋がった各自のPC上で動作するワールドに一人で佇んでいて、そこにバスケットボールのようなオブジェクトや他のアバターの座標を共有して動かすことで、皆で同一の空間に居ると錯覚しているに過ぎません。
インスタンスという繋がりの中、その『同期』と呼ばれる状態の共有はSDKという共通言語を介して行われ、それらはワールド側の不備やアップデートで簡単に崩れ去ってしまう。つまりインスタンスという機能は、決して交わることのない個々の世界線の中で、他者の存在という幻影を見ているに過ぎない。
逆にVRSNSのインスタンスという脆弱な繋がりで共に時間を過ごすには、同じ場所に居るという錯覚さえ与えられれば十分なのです。
「私は現実での本業に専念するために、近々VR-EDENを去らなければならない」
とニラヤマが言ったのは、豆腐が去ろうとしていた時でした。
あとはミズナラ自身にも制御しきれなくなった『知恵の実』で共有された願いを、その機能ごと刈り取ってしまえば災厄を止められる。そこに自分は不要だと、豆腐は考えていたのです。
「だからミズナラは、私が理想とする場所を実現させようと、色々頑張ってくれてたんだ」
ニラヤマの言葉に目を閉じて、それから少ししてミズナラは話し始めます。
「少しくらい分かってるつもりです、ニラヤマさんが“カナン”の滅びを願っていた理由。自分が行くことのできない閉じた場所を破壊して、理想郷を自分の手で創り直す――そうならないと最初から分かっていたことくらい。別の意図が、あったんでしょう?」
それは、豆腐の聞いたことのない事実でした。




