250(瑠璃) 利害
靴底が硬い舗道を噛む。膝が痛くなるので力は入れない。なるべく軽めに蹴る。羽が生えているイメージ。野球場の丸っこい外壁が見えてくる。このアングルももう三度目だ。
「なぁ、いつまで走んだよ」
不満を隠さず、ちょっと大きめの小石を投げるように、前を走る背中に言葉をぶつける。返事はない。振り返るそぶりも見せない。こいつのこういうところ、ほんと面倒くさい。
「……だっさ」
唾を吐くように、百パーセントの悪意で呟く。そこで初めて、藤本いちいは走る速度を緩めた。今まで徹底的に無視しておいて、悪口(しかも小声)になった途端に反応するあたり、こいつも人格が歪んでいる。
「さんざん偉そうなこと言って……負けてんだから世話ないよね」
ゆえに、気とか遣わない。そもそも私とこいつはオトモダチではないから猫を被る必要もない。二人きりだし、思ったことを思ったままに口にしてやる。
「役に立たないな、おまえ」
突き放すように言うと、いちいはついに足を止め、こちらに振り返った。刀の切っ先のような鋭い眼光。このニラミがあるから多くの一般ピープルはこいつを恐れる。しかし、私には通じない。なぜならこいつは暴君でありながら、そのくせどうしようもなく育ちがいいと知っているからだ。箱入りの獅子が凄もうと吼えようと、私にとっては塀の向こうの見世物でしかない。
「おまえがそんなんだから、しず姉にアピールし損ねたろ」
「僕の知ったことじゃないな」
ようやく言い返してきた。いちいは私の欲望なんて心底どうでもいいのだろう、蚤でも見るように眉根を寄せている。でも、それがどうした。私は別にこいつにどう思われようと構わない。言いたいことはどんどん言おう。
「おまえが千里さんを独り占めにすると、私の活躍のチャンスが減るんだよ」
「それも僕の知ったことじゃない」
ばっさりと断ち切って、はぁ、とうんざりしたような溜息。そしていちいは「大体さぁ……」と語り始める。
「瑠璃にトスを上げるより、僕に上げたほうが得点効率がいいんだから、まともな頭してたら僕にボールを集めるだろ」
「正論うっざ」
キレるほど理屈を捏ねてくるヤツ、今すぐ滅びろ。
「だが、事実だ」
「はいはい、そうだよね。事実だよね。事実、音成にはそれで負けたわけだ」
「それは僕に力が足りなかったからだ。次はもっとうまくやる」
「無理だね。今回のでよくわかった。四強におまえのやり方は通用しない」
実のところ今回の試合でわかったことなど特にないのだが、いちいの澄まし面がむかつくのでとりあえず全否定してみた。いちいは何か心当たりがあったのか、舌打ちするだけで反論してこない。私はすかさず畳み掛ける。
「そりゃおまえに任せて勝てるんなら多少の勝手には目を瞑ったっていいよ。そっちのが楽だしテキトーに遊べるし私は私で楽しむスタイルでまぁまぁ足りてるかなって――でもさ、そうじゃないなら、話は別でしょ」
遮られないようにぺらぺらと捲したて、最後の部分だけ、一語一語はっきり区切って言う。そうして内容はさておき私の悪感情を第一に伝える。いちいは、まるで鏡のように、私のむかつきと同量の不快感を露にして言い返してきた。
「それで? だから? どうすんの?」
「うっさいな。そんなんおまえが考えろよ」
「話にならない」
「私の知ったことじゃないね!」
よし……っ! 言いたいことは大体言った! 少しだけすっきり!
「ところで、瑠璃さ、佐間田さんに五、六回抜かれたよね」
「いきなり細かいな。おまえは徴税官かってんだ」
「…………は?」
いやなんでこのタイミングで今日一番のキレ顔してくんだよ!? こんなの「おまえってみんなの嫌われ者だよな! ぷぅーくすくす!」っていうちょっとしたジョークだろ!?
「――って、いうか……あの腹黒には貴様も抜かれてたはずだが?」
「そうだな。どうも速攻屋の潰し方が甘いらしい」
ごきっ、と右手の骨を鳴らすいちい。そして急に手近な心臓でもくりぬきたくなったのか、その手を私の胸元に伸ばしてくる。
「瑠璃、暇だろ。練習に付き合え」
「あのさぁ、きみ、人に物を頼むならそれなりの態度ってものがあるでしょ?」
「そうだな……練習の間は、お前に柳さんを貸してやってもいい」
「『態度』って『対価を提示しろ』って意味じゃないよ! あと、ナチュラルに千里さんを私物化するのやめろし!!」
「……で、どうなんだ?」
はんっ、と鼻で笑って私はいちいの手を払った。貴様の気紛れになんぞ付き合ってられるか、ばかばかしい。
「そうか。じゃあ、柳さんには僕から伝えておく。時間は十五分もあればいいな」
あれぇ!? なんで今ので承諾したことになってんの!? わりと強めにぶっ叩いたつもりなんだけどな!?
「……何を見てる」
「いや、別に……なんか、明日の天気とか」
言って、私は空を仰ぐ。無駄に青い。無駄に澄んでいる。仕方ないな、と思わせるのにうってつけの空模様。
結局、いちいとは多くの場面で利害が一致する。
こんな面倒の塊みたいなヤツと付き合うのに、それ以外の、それ以上の、理由などない。
「さて……もういいか」
ふいっ、と踵を返し、いちいは走り込みを再開した。一度足を止めてしまったからか、軽く流す程度の速度。だらだらと小走りでついていくと、やがて体育館が見えてくる。運動公園の周回コースから逸れ、スタート地点へ。こうして今日の空のように果てしなく無駄なランニングは終わる。そして――、
「本当に走っていたとは……」
体育館の正面まで帰り着くと、階段の上に知った顔が突っ立っていた。
「あれー、郁恵? 何してんのー?」
「君らを探していた」
「へ?」
意外な答え。色々と気になるが、他人から見下ろされるのが何より嫌いないちいが猛加速して階段を駆け昇り始めたので、とりあえず同じ高さまで上がり、それから会話を再開する。
「探してたって、何か用? 明晞さんにでも頼まれた?」
「いや、特に用はない。個人的に探していた」
は? 用はないのに探す、って意味わからなくない? しかも個人的に? なに? 郁恵ってもしかして私のこと大好きだったりすんの?
「そういうことではないのだが……」
「ってか、よく外にいるってわかったね」
「ああ、それは市川さんに聞いたんだ」
「しず姉に訊いた!? しず姉に会いに行ったのか!? 貴様、郁恵、私がいないのをいいことに……この泥棒猫がっ!」
「いや、会いに行ったわけではないし、特に何も盗んでいない。市川さんとは自販機の前でたまたま会って、二人のことを尋ねただけだ」
それから――、と郁恵は片手で蓋部分を持っていた二本のペットボトルを、私といちいの前に差し出した。
「これは、市川さんから。差し入れだそうだ」
しず姉から私に差し入れ!? グッジョブ過ぎるぜメッセンジャー・郁恵! えっと、二本あるってことは、一本は飲用用、もう一本は保存用だな!!
「って、こら貴様いちい! しず姉の私への愛を半分も掠め取るとは何事だ!?」
「いや、普通に一本は僕の分だろ」
「んなわけあるか! ふざけるな貴さ――ああっ、飲むの早っ!?」
よっぽど喉が渇いていたのか、いちいはペットボトルの中身を一瞬で空にした。まったく物の価値がわからんヤツめ、私が正しい飲み方を教えてやる!
「いいか? まずしず姉の控えめな笑顔を思い浮かべながら、ペットボトルを拝む! 次にしず姉の照れ顔を思い浮かべながら恭しく蓋を開ける! そしてしず姉の恥じらう顔を思い浮かべながら、その中身をしず姉だと思って、一口一口舌の上で転がし舐るように味わい喉の奥へと流し込んでいくのだ!!」
くぅぅぅ、しず姉の愛が沁みるぜぇ……っ!!
「飲み方が気持ち悪過ぎる」
「やかましい! 人の楽しみに水を差すなっ!」
中身を四分の三ほど残して、蓋を閉める。うん。あとは帰ってから一人でじっくり堪能しよう。
「……もういいか?」
なぜかちょっと呆れ顔(のように見えなくもない気がする)の郁恵は、きびきびとした動きで体育館の中へと戻っていく。不意のしず姉成分摂取で軽い禁断症状が出た私は、郁恵の隣に並んでおかわりをねだった。
「ねえねえ、郁恵、しず姉はどんな感じだった?」
「どんなと言われても――普通、だった」
「貴様の目はガラス玉か!? もっとなんかあるだろ!? 髪が伸びたとか肌に艶が出たとか色香が増したとか!!」
「そうだな……強いて個人的な見解を述べるなら、以前より明るくなったように思う」
「へえ、館商の練習に出てた頃より?」
「ああ。部活に復帰されたと聞いてから、地区大会の時にちらっと見たきりだったが、どうしているか気になっていたんだ。けれど、杞憂だったな。チームメンバーとも打ち解けていたし、あの様子なら何も――」
ん? ちょい待ち、チームメンバー?
「しず姉は一人じゃなかったの?」
「うむ、そうだな。宝円寺も知ってるだろう、館二の岩村さんと――」
「は? なに、しず姉、万智ちゃんと二人でいたわけ?」
「いや、二人ではない。あともう一人、三年生の……ほら、柳さんと同中だという」
「油町さんだな」
「そう、その方と三人だ」
「いや、そんなオマケとかどうでもいいから! それよりも、しず姉が万智ちゃんと――どうしてたって!?」
「どうって……普通に、楽しそうにしていた」
「お楽しみでしたぁ!? 貴様なぜ止めなかったし!?」
「そんな不躾な真似ができるか」
「これは由々しき! 由々しき事態だ……っ!」
なんということ! 恐れていたことが現実に……万智ちゃんのあんちくしょうめ、私のいない間にしず姉とお近づきになるとか――これぞまさしく泥棒猫だろ!?
「由々しい、か。確かに、市川さんが本格的に復帰した以上、城上女子は手強い相手になるだろうな」
「そう言えば、霞ヶ丘の〝白刃〟もいたな」
「ああ、そちらにも会った。私の知る頃よりも精悍になっていた」
「……知る頃よりも、か――」
「どうかしたのか? 城上に館三出身者はいなかったと記憶しているが」
「別に、大したことじゃない」
「おい、そこな鉄仮面ども! なにをぼさっとしている! さっさと戻って城上女へ破壊工作に行くぞ!」
「佐々木、準々決勝はどうなってる?」
「四強の勝ち上がりだ。どちらもストレートでな」
「無視すんなコラあああああッ!!」
渾身のダブルラリアット! が、いちいから無言の蹴りが飛んで――危なっ!? 外履きで上段蹴りとか正気かよ!? ぷわっ、なんか目に細かい砂が……地味に涙出てくるやつこれ……!!
「どこもストレート――取れて一セットさえ遠いか……」
「やはり、四強との間には差があると言わざるをえない」
「現時点ではな」
「私も……もっと力をつけなくては」
「僕の練習に付き合うなら、柳さんを貸してやるが」
「願ってもない。よろしく頼む、藤本」
「二十分だけだ」
「二つほど言わして!! まず貴様らって意外と会話弾むよな!? あとなんで郁恵のが私より五分長いんだよ!?」
っとにどいつもこいつも! 祟ってやろうか!? 猫の恨みは七代続くんだぞ!?
「その無駄なエネルギーは次のために取っておけ」
「貴様に言われるまでもないわ!」
準々決勝が終わり、名実共に四強へと勝ち名乗りを上げる四強。
ヤツらは続く準決以降、さらにはブロック大会へと戦いの舞台を移していく。
敗れ去った八強は、それより一足先に、次の照準をインターハイ予選へと定める。
三度目の正直の、打倒四強。
そしてその前に決着をつけなければならない相手が一つ。
「せいぜい今はお楽しんでるがいいよ、城上女子――」
しず姉の隣にいていいのは私だけ。誰にも譲るつもりはない。
「特に万智ちゃん――キミにだけはね……っ!」
涙ぐむ目をごしごしと擦って、私は館内へ突き進んでいった。




