175(ひかり) 姉
しゃりしゃり、と小さな氷同士がぶつかる音。目の前の彼女がアイスコーヒーを掻き混ぜる音です。慣れた手つきでガムシロップ二つとミルク一つの蓋を開けた彼女は、彼女の瞳と同じ艶めく黒色をしたコーヒーの中へそれらを注ぎ、ストローを上下に動かして掻き混ぜていきます。私の手元には、特に投入や撹拌の必要のないトロピカルマンゴージュース。
「お休みのところお呼び立てして申し訳ありません」
私がそう言うと、正面にいる彼女――宇奈月実花さんは、媚びるように上目を遣い、語尾にハートマークがつくような甘ったるい口調で囁きました。
「二人っきりでこんなところ……とーるうに見られたら言い訳できないね、うふふっ」
「なぜ言い訳の必要がありますか。あと至近距離でその笑い方やめろです。生暖かい息がかかって不快です」
「向き合って五秒でいきなり罵倒! でもそれでこそ私のひかりんだよ!」
「私の名前に許可なく所有格をつけるなです」
「許可制だったの!? じゃあその許可はいくらで売ってますか!?」
「一回につき三百円です」
「嫌にリアルな価格設定!! 夢を買うお値段と一緒!!」
「一括三千円払いなら十一回にオマケしますよ」
「それもう三千円出すしかないやつだ! やり口が汚いよっ!」
「ちなみに、0.1パーセントの確率でスーパーレアが出ます」
「悪魔の囁き! やめて! 注ぎ込むから! 自己破産するまで注ぎ込んじゃうから!」
「これに懲りたら私からは足を洗うことですね」
「うぅ……ひかりんへと至る道が険し過ぎるよよよ……」
泣き真似をする宇奈月さんから視線を外し、私はジュースで喉を潤して一息つきます。
今日は連休最終日。ここは石館駅からほど近い喫茶店で、私と宇奈月さんは小さな丸テーブルを囲んでいるのでした(しかし、この手のお店の椅子と机はなぜかくも高いんでしょうね。足がつかなくて困ります)。
事の発端は、昨日。明正学園とのゴールデン合同合宿を終えて帰宅したのちに届いた、一通のメッセージ。差出人は北山さんで、一年生グループ宛に「打ち上がりたいっス!」との言が花火のアニメーション付きで送られてきました。それは「このストレスフルな社会でこの先何十年も生きていくくらいならいっそ夏の夜空の塵になりたい!」という悩み相談では無論なく、休日にみんなで遊ぼう、というお誘いでした。反対意見はなく、ほどなく、五人の自宅から集まりやすく、かつ北地区の中心地で遊ぶ場所も多い石館駅に集合することが決定しました。集合は二時からで、ぶらぶら遊んで夕方頃になったら最寄りのファミリーレストランに落ち着き、日が暮れるくらいで解散という予定になっています。
現在は、その集合時間より一時間早い、午後一時。私が宇奈月さんを個人的に呼び出したのでした。用件は、二つ。そのうちの一件を、私は切り出します。
「まあ、雑談はこれくらいにして、本題に入りましょうか」
私は宇奈月さんに視線を戻します。入口のほうを眺めながらアイスコーヒーを啜っていた宇奈月さんは、私の視線に気づくと振り向いてにこにこしました。私は、できることなら、私が見ていないときの真顔の宇奈月さんを眺めていたいのですが、宇奈月さんは私の視線にすぐ気づく上、気づくとすぐにこにこするので、なかなかこれだという絵を捉えることができません。
「本題って?」
「とぼけないでください。栄さんと私の賭けの話ですよ。昨日はタイミングがなくて聞きそびれてしまいましたが、私は有耶無耶にする気はないですゆえ」
「ああっ、私のウフフなヒミツのことね! なんかゆーりんに話したからもうすっかり終わった気になってたよ!」
「やはりあの別れ際の立ち話はそうでしたか……。まあ、あなた自身のことですから、私が口を出すことではありませんが」
「ゆーりんに関しては、ゆーりんがその気になったらいずれ正解に行き着いちゃうからね。こちらから情報を開示することで守られる秘密もあるってことで」
「とことん喰わせ者ですね、あなたという人は――さておき。なら、栄さんにしたのと同じ話を、私にも聞かせていただけますか?」
「もちろん、そういう約束だったからね」
あなたの意思そっちのけで結ばれた約束でしたけどね。
「ではでは、ご清聴。大親友のひかりんには特別サービスで物語形式にしちゃうよ! そう……あれは五年前――私が小学五年生の春のことだった……」
「過剰演出はいいので要点だけ手短にお願いします」
「うわーん! ひかりんが冷たいっ!」
――――――
「……そうですか。小学五年生のときに、全国優勝。しかもあの〝女王〟とともに……」
「ひかりん、あんまり驚かないんだね?」
「いえ、驚いていないわけではありませんよ」
しかし、それ以上に、納得の気持ちのほうが大きいのです。宇奈月さんはあの鞠川先輩に脅威認定されたほどの選手。環境さえ整っていれば、全国優勝は十分『ありうる』範囲内と言えるでしょう。
「まあ、なんといってもあなたのやらかすことですからね」
この一ヶ月、私はただ漫然と宇奈月さんと一緒にプレーしていたわけではありません。この人の強さやパーソナリティーについて、多少は、理解したつもりでいます。
その上で、私はこの人になら、そうしてもいいと思ったのです。そうするのならば、この人しかいない、と思ったのです。
私は声に緊張が表れないようにジュースを飲み、二つ目の用件に移る準備をします。宇奈月さんは何かを察しているのか、にこにこしながらコーヒーを飲み、黙っています。
「……秘密を教えてくれたお礼に、というわけではありませんが」
私はそう切り出して、またジュースを飲みます。私は宇奈月さんから宇奈月さんの話を聞きました――だから、今度は、私の番。
「私も、あなたに聞いていただきたい話があるんです」
私はグラスを置きます。なにかな、と宇奈月さんも同じようにグラスを置きます。私は一度周囲を見回し、少しだけ声を落として言います。
「私の、姉のことです」
うん、と宇奈月さんはにこにこ顔で頷きます。私は言葉に抑揚をつけずに続けます。
「私には、二学年上に、姉が一人います。その姉は法栄大立華という、この県の第一代表である高校のバレーボール部で、正リベロを務めています。名前は、三園ひより。世間では〝天頂〟と称される――『全国最強のリベロ』です」
「うん、知ってるよ」
そうです。ここまでは、音成女子との試合後に既に宇奈月さんも聞き及んでいること。そして、これから話すことこそ、本題。あの時は話すのを躊躇った、私のプライベートなことです。
「……私は、姉とは、もう半年以上、絶縁状態にあります。私は、そんな姉に会うために、城上女子でバレーボール部に入りました」
私は、姉が法栄大立華で寮生活をしていること、去年の秋の国体後に一度顔を出したきり実家に帰ってきていないこと、両親とは連絡を取り合っているが私とはそうでないことを、搔い摘んで話します。
「直接会いに行くことも考えましたが、しかし、それではダメなのです。今の私が姉に会うとすれば、バレーボールの大会でなければなりません。つまり、夏のインターハイ県予選に出場して、法栄大立華と試合をする――それも一回戦や二回戦ではなく、もっと上の舞台で――最高なのは、インターハイ県予選の決勝戦です。全国大会出場をかけた大舞台で、私は姉と相見えたいのです」
それは、少し前まで、あまりに無謀な考えでした。しかし幸運にも、私はこの城上女子で良き出会いに恵まれました。立沢先輩や岩村先輩、藤島さんや霧咲さん、北山さんや市川先輩や油町先輩――頼れる仲間といくつかの練習試合を経た今、インターハイ県予選の決勝戦で姉と会うという私の望みは、もはや絵空事ではなくなりました。そして、その実現可能性を最も高めている選手こそ、目の前にいるこの方――。
「宇奈月さん。あなたの〝強さ〟を見込んで、お願いがあります。どうか私に力を貸してはいただけませんか。あの〝天頂〟に届くだけの力を……。私は、どうしても、私にできうる限り最も高いところで、姉に会わなければならないのです」
言って、私は宇奈月さんの瞳をじっと見つめました。それは少々ずるいやり方だったかもしれません。なぜなら、この人は破天荒な性格のようでいて実はとても押しに弱いことを――正面切ってお願いすれば断れない人なのだということを、私はこの一ヶ月の間に知りえていたのですから。
「もっちろん! おっけーに決まってるよ! それでひかりんがバレーを楽しめるのならねっ!」
宇奈月さんは、果たして、にこにこ笑ってそう答えました。ぶいぶいっ、と両手でピースを作り、それを交互に顔の横に持ってきて、首を左右に振ってみせます。私は安堵に目を細め、ありがとうございます、と普段はあまり見せない微笑を浮かべました。
彼女の頭の後ろでは、ポニーテールが揺れていました。




