174(樒) 顧問《センセイ》
「ああ、坂木くん、今日はありがとう。唯文もあれで忙しいヤツでな、君が代わりに手伝ってくれると言い出してくれて、あいつも本当に助かったと君に感謝していたよ。もちろん私も大いに感謝している。
というわけで、これは心ばかりの謝礼だ。いや、そう言わずにもらってくれ。いやいや、遠慮せずに。元々唯文とそういう約束をしていたはずだろう。なっ、これで美味しいものでも食べなさい。
あっ、そうそう、美味しいものといえばだね。駅前の東口をちょっと行ったところに定食屋があってだな。君、お昼はもう買ってしまったかね?
そうか、ならよかった! ほら、ここの定食屋だよ。今ならピークタイムを過ぎているからさほど混んでいないはずだ。ぜひ行ってきなさい。美味しいものをお腹いっぱい食べられるというのは若者の特権だぞ。ほらっ、特別に餞別もつける。
えっ? 食べには行くけどそれはもらえない? はっはっは、まったく君は鈍いなあ。いいかね? 私はこう言っているのだよ、謝礼は謝礼で、その餞別は別口――つまり、それは山野辺先生にご馳走するのに使いなさい、と。わかったかね? これは、君を仲介にした私から山野辺先生への激励の気持ちだと考えてくれ。私が直接渡すと恐縮して受け取ってもらえんからな。
えっ? それは昼食に山野辺先生を誘えって意味ですか、だと? はっはっは、君は面白いなあ。なぜそんなわかりきったことをわざわざ確認したがるのだ。さあ、わかったら早いとこ誘ってきなさい! あっ、もちろん試合開始までには戻ってきてくれよ! なあに、あんまり話が弾むようなら試合後に第二セットの約束を取り付ければいいのさ! はっはっは!」
ぎゃー! なんか二人で駐車場のほうにこそこそ出ていくからどうしたんだろうと思ってついていったらまるっと全部聞いちゃったよー!? 神保先生のお心遣いは涙が出るほどありがたいです!! が、しかし!! こういうの、ほんと困るっ!!
「あっ、や、山野辺先生……ちょうどいいところに。その、お昼、まだでしたら、い、い、い………っしょにどっすか……?」
「……は、はい」
以上が事の起こりである。かくして、私と坂木さんは、坂木さんの運転する車で駅前の東口にあるアットホームな定食屋にやってきて、座敷で向かい合っているのだった。
「「…………」」
食事は既に終えて、膳も下げられている。机の上に残っているのは、二人分のお茶だけ。料理が目の前に並んでいる間は「これ美味しいですね」「はい本当に」「これも美味しいです」「ええ本当に」と言い合っていればよかったけれども、それらがなくなった今、会話をするには何か別の話題を持ってこないといけない。誘われた手前があるので、私は昨日のパン屋さんの時と同様、待ち作戦を決行していた。これで「このお茶美味しいですね」とか言われたらどうしよう。
「……このお茶、美味しいっすね」
どうしよう!? この手作りっぽい器も趣がありますよね、おほほ、とか返せばいいの!?
「あの――」
というのは、しかし、坂木さん流の間の取り方だったようだ。
「山野辺先生のところの……レフトの、岩村さん、ですけど……」
坂木さんは湯のみの一点をじっと見つめながら、低い声で言う。
「……すごい、ですね」
すごい――その一言には少なくない尊敬の念が込められていた。やっぱり、主審の立場から見ていても、あの岩村さんには感じるものがあったんだ……と、私も午前中の試合を思い返す。
第一セットの終盤。岩村さんは小田原さんに完璧に抑え込まれた。三十センチもの身長差があったことに加えて、岩村さんの持ち味であるパワーが、体格相応の筋力を持つ小田原さんには通じなかったのだ。
シャットアウトの本数は、都合四本。スパイクが通らなかった本数はその倍にもなる。普通、そんなに徹底的に抑え込まれてしまえば、いくら負けん気が強いといったって、立ち向かう気力を保つのは難しい。しかも岩村さんはキャプテンで、周りの一年生たちの精神的主柱でもあったのだ。そんな自分が原因でチームがどんどん追い込まれていくプレッシャーとは、一体どれほどのものだったのだろう――想像するだけで、胸が苦しくなってくる。
それでも、岩村さんは、最後まで果敢に小田原さんに挑み続けた。そしてついには、小田原さんのミスという形だったけれども、しっかり意地を通してみせたのだ。
結果的にそのセットは落とすことになってしまったけれど、チームの士気はむしろ高まった。そして続く第二セット、第三セットと、城上女子は勝利をものにした。その間も、岩村さん個人は小田原さんに完封され続けたのだけれど、周りがそれをフォローしたり、攻め方を工夫したりして、第一セットのように『掴まる』事態は避けることができた。
これらの戦果は全部、何から何まで、生徒たちが自分たちで考え、行動して得たものである。岩村さんが窮地に陥ったときも、その対処で意見が食い違ったときも、私は弁解の余地なく見ていることしかできなかった。
「……そうですね。本当に、あの子たちはすごいです」
私は生徒たちの強さを誇りつつも、同時に自分の至らなさを恥じた。
「私は……だから、顧問として、本当に自分が情けなくて。私にはできることがないなんて……坂木さんには、泣き言を聞いていただきましたけど……でも、そうじゃなかった。ただ単に、私が今まであの子たちのことをちゃんと見ようとしてこなかっただけ――本当に、私は、ダメな先生です」
「そ、そのことっ、なんすけど!」
急に坂木さんが大声を上げる。周りのお客さんがこちらを見る気配を感じた。坂木さんは、あっ、と目を泳がせて、口元を手で隠し、ごにょごにょ、と何事か呟く。それは、しかし果たして、今回はちゃんと聞き取れることができた。
「……山野辺先生が、ダメ、とか、そんなこと、ない、っす……」
そして坂木さんは、ついにごにょごにょをやめると、別人かと思うほど強く光る瞳で、きっ、と私を見つめ、つっかえつっかえながらも言った。
「山野辺先生、昨日……あの左利きの、油町さんのこと、話してくれたじゃないっすか。油町さんと、北山さんと、西垣さんの組み合わせが、三姉妹みたいで、いい……とか。他にも、組分けでそれぞれの得意不得意がって話を、色々。そんで……おれ、そんとき、感動したんす。山野辺先生は、ちゃんと生徒さんのこと、一人一人、よく見てて、考えてて、すごいなって。先生に見てもらえる生徒さんは、だから、幸せもんだなって」
坂木さんは私から目を離さないで、胸の奥に沁みこむような低い声で、ぽつぽつと言う。
「山野辺先生は、ダメなんかじゃ、ないっす。自信を持ってください――なんて、おれが言うのも変かもっすけど……とにかく、山野辺先生は、ちゃんと生徒さんたちのこと真剣に考えてて、そのことは、きっと生徒さんたちにも伝わってると思うんす。これ、あの、テキトーに言ってるんじゃないっす。マジメな話。合宿中、おれ、ずっと山野辺先生のこと、見てて……それで、思ったっす」
言い終えると、坂木さんは湯のみを手にして、中身を一気に飲み干した。そして湯のみを机に戻すときに、かたかたかた――と小さく音がした。たぶんずっと緊張で震えていたのだろう。それでも坂木さんは、私の目を見てきちんと気持ちを伝えてくれたのだ。私はそのことに――こんなことを言ったら坂木さんには悪いけれど――その情けなさと不器用さと健気さに、そこはかとない親近感を覚えた。
「……ありがとうございます、坂木さん」
「い、いえ……おれは、何も、その、なんか、すいません……」
あの胸が締め付けられるほどに強かった眼差しはどこへやら。元のへにゃへにゃに戻った坂木さんは、そわそわと店内を見回す。自分の腕時計も携帯もあるのに、お店の壁時計を探しているのだ。私はその不意を突くように、ずいっ、と身を乗り出して、切り込んだ。
「坂木さん、お願いがあります」
「んひぇ?」
なにその声どっから出したの!? 笑っちゃうからやめてください……!! 私は渾身の気合で真顔を維持して言った。
「坂木さん、お願いです。相応のお礼はしますので……私を『大人』にしていただけませんか?」
「ぶふっんぶ――っ!?」
坂木さんが盛大に鼻水を吹き出した。一瞬、頼る人を間違えたかしら――とわりと本気で頭を抱えそうになるも、こんなの学年主任の厳しい先生がとある飲み会の席で旦那さんからの電話に「なあに、ダーリン、どうしたのお?」と猫撫で声を出したときの破壊力に比べればどうということはない、と見なかったことにして、私は続けた。
「……私は、みんなの先生で、部活の関係者の中でただ一人の大人ですから。私は、大人の私にしかできないこと、先生でないとできないことをして、生徒たちをサポートしていきたいと思うんです」
「あ、な、なるほど……大人ってそういう……」
鼻におしぼりを当てながら、坂木さんは目に涙を浮かべて独り言のように呟く。私は「『そういう』ってじゃあ『どういう』のだと思ったんですか!?」と言いたい気持ちを脇へうっちゃって、続ける。
「そんなわけで、私、ちゃんと大人の先生らしいとこ、生徒たちに見せたいんです。そのために、坂木さん、ぜひとも一役買っていただけませんか?」
私がそう言うと、坂木さんは、内容も聞かないうちに「ああ――」とやけに嬉しそうに目を細めて、頷いた。
「もちろん、です、はい、おれなんかでいいのなら」
そうして、端から見ればさぞ頓狂だったに違いない私たちのランチは終了し、それから二時間もしないうちに、三泊四日のゴールデン合同合宿はその全行程を終了したのだった。
――――――
いよいよ、私が大人になる瞬間がやってくる。
最後の全体集合も終わり、あとは生徒たちは見送り見送られ、私は神保先生へのご挨拶を残すのみとなっていた。城上女の生徒たちが体育館の入口にまとめていた荷物の山へ向かう。そこで、私は岩村さんを呼び止めて、一つの確認をした。
「みんな、このあとは電車で帰って、途中で学校に寄っていくんだよね?」
「はぁい、そうです。学校には、ボールとかを置いていかないとですからねぇ」
屈託のない笑顔で答える岩村さん。私はすかさず、用意していた台詞を口にした。
「そのことなんだけど、帰りは、私が用具を持っていくよ。まとめて全部、部室に入れておけばいいんだよね?」
岩村さんは「えっ?」と目を丸くして、不思議そうに首を傾げた。
「でも、確か先生の車には、全部は入らないというお話では――」
「それは、そう。でも、実は、協力してくださる方がいて」
岩村さんは「ええっ?」とますます目を丸くする。そのタイミングで、遠くからこちらの様子を伺っていた坂木さんが、手はず通りに私たちのところへ近づいてくる。
「あの……よければ、おれの車も、使うんで」
岩村さんはとうとう「え」とも言わずに口をまん丸にして固まった。私はその肩に手を置いて、とびきりのキメ顔で言った。
「そういうわけだから、ここは先生に任せて!」
「え、ええっ!? そんなっ、いいんですかぁ?」
「うん。みんな疲れてるだろうから。これくらいは私に任せてよ」
突然のことに、喜びつつもちょっと恐縮している岩村さん。そこへ、坂木さんが台本にない(!)フォローを入れた。
「本当に……遠慮しなくて、いいから。おれも、きみたちからは、元気もらったから。その、お礼」
岩村さんは目をぱちくりさせて、坂木さんを見、私を見る。私は坂木さんのファインプレーを無駄にしないためにも、自信たっぷりに頷く。すると岩村さんは、ほっとしたように目尻を下げ、ぺこりと礼をした。
「どうもありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
私と坂木さんは顔を見合わせ、微笑みを交わす。作戦は大成功だった。
――――――
かくして、私は大人への一歩を踏み出した。その後、岩村さんがメンバーに声を掛けて、ボールや用具は駐車場にある私と坂木さんの車に詰め込まれた。それが済むと、みんなは校門へ移動していった。私はそこで、再び岩村さんを引き止めて、合宿の初日には言えなかったことを改めて伝えた。
「……岩村さん。部活や、それ以外のことでも――もし何か困ってることがあったら、遠慮せずに言ってね。私じゃ、ちょっと頼りないかもしれないけど――」
私がそう言うと、そんなことないですよぉ、と岩村さんはゆっくりと首を振った。
「山野辺先生が掛け合ってくださったおかげで、私は去年、音成女子の練習に混ぜてもらえたんです。それだけじゃない……私の学年は私一人で、先生はそのこともずっと気にかけて下さいました。今回の合宿だって、お休みなのに毎日来てくださって。練習も、お忙しい中、ちょくちょく見にきてくれて……。頼りないなんてこと、ないです。いつもたくさん頼らせてもらってます。本当にありがとうございます」
まさかのべた褒めだった。深々と頭を下げる岩村さんを前にして、私は小さな子供みたいにはにかんでしまって、独り言のようにぼやく。
「そんな……でも、もし神保先生だったら、もっと――」
すると、ふふっ、と岩村さんは苦笑に肩を震わせて、顔を上げた。
「さぁ、どうなんでしょうねぇ。私にとっては、顧問の先生は入部以来、ずぅっと山野辺先生でしたから。それで不満に思ったことなんてぇ、一度もないですし。だからぁ、その『もし』は、私にはちょっとぉ、よくわからないですねぇ」
とぼけるように視線を斜め上に向けて、岩村さんは悪戯っぽく微笑んでみせる。私は涙を堪えるのに精一杯で、うまい返事をすることができず、ただ、こくりと頷く。岩村さんはそこへ、すっ、と手を差し出してきた。私はその手を両手で包む。彼女の手は、とても暖かく、柔らかく、そしてどこまでも瑞々しくて――やっぱりどんなにしっかりして見えてもこの子はまだ高校生で、だからこそ大人である私の役目はこの子たちを支えることなんだと、私の胸を強く打った。
「……ありがとう、岩村さん。これからも、一緒に部活、頑張っていこうね」
「はぁい。これからも、私たちのことをよろしくお願いします、先生」
ぎゅ、と私たちは固く手を握り合って、やがてどちらともなく離した。そして岩村さんは、次に坂木さんとも握手を交わす。
「この度はお世話になりました。坂木さんも、もし機会があれば、またよろしくご指導ください」
「あっ、うん。機会があれば――機会が……うん、そう、そうだね、うん」
では、と岩村さんは最後まで丁寧に一礼して、仲間の後を追って走っていった。私はその後ろ姿を見送る。これで少しは、彼女の肩にかかるものを、軽くしてあげることができただろうか――もしそうなら、よかった、と私は心から思う。
私と坂木さんは、それから神保先生のところへご挨拶に向かった。用意していた菓子折りを渡すと、神保先生は大喜びして(スペシャルデザートの件から薄々気づいていたが、やはり神保先生は大の甘党だった)、ぎゅうぎゅうと抱き締めてくれて、また何かあったらいつでも声を掛けてくれ、と有難いお言葉をくださった(ただそれはそれとして私をちらちら見ながら坂木さんに謎の目配せをするのは本当にやめてください!)。
神保先生と別れ、私と坂木さんは校舎を出た。このあと、私たちは車で城上女子に向かい、荷物を下ろして帰るのだ。
が、その前に一つ、私にはやらなければならないことがあった。先延ばしにするほど言い出しにくくなるから、言うなら今だ。私は駐車場へ戻ろうとする坂木さんを呼び止め、この荷物運びの『お礼』の件を切り出した。
「あっ、あの、坂木さん。このあとなんですけど――学校に寄ってもらったあと、その、晩御飯を、ご馳走しようと考えているんですが」
「晩……御飯っ!? なっ、いや、いきなりそんな! 若い女性のお宅に突撃するなんて――!!」
「もちろんどこかのお店でです」
「でででですよね!!」
「……でも、そうですね。私は別に、私の家でも、構いませんよ」
「そそそそれは……っ!?」
「だって、うちの母の手料理、とても美味しいですからっ!」
「まさかの実家!?」
「さすがに独り暮らしだったら家には呼びません」
「そ、そうですよね……。いや、でもいきなり親御さんにご挨拶となると……ううっ、こ、心の準備がががが……」
「あの、家に云々というのは、そもそも冗談ですからね?」
「でででででっすよねえー!!」
「…………ちなみに、坂木さん、好きな料理とか、ありますか」
「えっ? 好きな料理……? えっと、なんですかね……卵料理、とか、好きですけど――って、ああっ、すいません! お店選びの話ですよね! そのっ、山野辺先生の選んだお店なら、どこでも喜んで!」
「……卵料理……オムレツ的な……? それなら私でもなんとか……んー……とりあえず目玉焼きから始めてあとはお母さんに……」
「山野辺先生? 目玉焼きがどうかされました?」
「えっ!? ああいや、こっちの話です! 目玉焼き――そう、ハンバーグ! 目玉焼きハンバーグが食べたくなってきました!」
「あっ、おれも好きです、目玉焼きハンバーグ! お子様舌っておふくろには言われるんすけど」
「あっ、それ私もよく言われます! でも別にいいですね、美味しいものは美味しいんですから!」
「そうですそうです! オムライスとか親子丼とかロコモコとか照り焼き月見バーガーとかが好きで何がいけないんだって感じっすよね!」
「オムライス親子丼ロコモコ照り焼き月見バーガー――私も大好きです!! あっ、じゃあもちろん、かに玉も!?」
「神っす!! かに玉はマジ唯一神っす!!」
「わかりますっ! かに玉は唯一神! かに玉イズゴッドです!」
「あとぶり大根に入ってるゆで卵はプリンセスっすね!」
「わかるわかるっ! じゃあじゃあ、あれはどうですか! 王道のたまごサンド!」
「たまごサンド!! また唯一神が来ましたね!!」
「いや唯一神が乱立しちゃダメでしょうっ!!」
なんて言って、私たちは声を上げて笑う。そしてふと目が合って、今度は照れ臭くなってはにかむように微笑する。
「お、おれたち……なんか、好み合うっすね」
あっそれダイレクトに言っちゃうんだ!? 視線と笑みだけで気持ちが通じ合うみたいなのじゃないんだ!? そして自分で言っといて今さら「やばいやっちゃった」みたいに項垂れてるし……っ!! なんだかなあ!!
「――こほんっ。とにかく、食べ物の嗜好が一致するのは、色々と助かります。そ、その、お店選び的な意味で!」
「あっ、はい……。そっか、お店選び的な意味で……」
いやなんで目に見えてがっかりしてるんですか!? 駆け引きを楽しむみたいな気概ゼロですか!? やる気あるんですか!?
「本当になんだかなぁ……」
と私は坂木さんに聞こえないようにひとりごちる。これはちょっとばかし長い戦いになりそうだ。でも……まあ、私の料理スキルの成長速度を考慮すると、多少は長引いてくれたほうがいい……のかな?
「あっ、山野辺先生、そこ窪みが」
「えっ? う、うわわっ――――」
上の空で歩き出した私は見事に躓いた。身体がゆっくり前に傾いていく。と、次の瞬間、何かやたら強い力でそれが食い止められた。
「えっ?」
「あっ」
ちょおおお待っえええええ!! 確かに躓きそうになったら抱き止めないまでもせめて手を取って支えるくらいはしてくださいよって思ってましたけどッ!! だからってなんでいきなり色々すっ飛ばして抱き締めるんですか!? しかも後ろからっ!! 後ろからぎゅうって!! なんなのこのっ不意打ちくぬうううううー……っ!!
「うわわあっ!? す、すいません! なんか、そ、その、勢い余って! ここここの責任は取ります! な、なんでもしますっ!」
私を抱き起こすや否や飛びずさってぺこぺこ腰を折る坂木さん。振り返った私は両腕を胸の前で交差させ、きっ、と上目で睨みつけて、低い声で言う。
「……なんでも、ですか?」
「ははは、はいっ! なんでもっす……!」
「じゃあ……一つ、相談があります。けっこう、坂木さんの生活や人生に関わる、重たい、真剣な、相談が」
「おれの生活や人生に関わる、重たい、真剣な、相談……!? そ、それは――」
「はい……坂木さん。もし、坂木さんさえ、よければなんですけど……」
私は、ごくりと喉を鳴らしてから、告げた。
「付き合っていただけませんか?」
「!?!?!」
瞬間、驚愕に目を見開いた坂木さんは、オンボロのパソコンみたいにぴたりとフリーズしたのであった。
――――――
――――
――
ここからは、後日談というか、いわゆるオチである。
「あら、何をしているの、樒ちゃん?」
「あっ、いえ。ちょっと部活のことで。んー……やっぱり外部の人を招くのって大変なんだな……」
「外部――? もしかして、外部コーチのこと?」
そうです、と私は机の上の書類から顔を上げて、隣に立つ花丸陽子先生に頷きを返した。
「他校との合宿を経験してみて……やっぱり、きちんと技術的な指導をできるコーチが、あの子たちには必要だと痛感しました」
一年生たちの入部以降、生徒たちはよく考えてしっかりと練習に励んでいる。しかし、それにも限界があるのは、合宿の練習を見れば明らかだった。例えば、ポジション別練習で三園さんと星賀さんが唯文さんのスパイクを受けていたのがそう。高い実力を持つ選手の指導には、それ以上の確かな実力を持つ大人が必要不可欠なのである。それに、公式ウォームアップの様子を見比べても、コーチの在不在の差は大きいと感じた。
まして、彼女たちは『全国大会出場』を目標にしているのだ。あの川戸さんたちでさえ八強に止まったことを考えれば、半端な練習で結果が出せるはずもない。外部コーチ招聘は急務であった。
「……でも、ただバレーが上手い、ってだけじゃ足りないんです。きちんと生徒たちに向き合って、最後まで付き合ってくれる人じゃないと……」
「樒ちゃん、もしかして、どなたか心当たりの方がいらっしゃるの?」
「はい、一応。全体的に頼りない感じなんですけど……根は優しいですし真面目ですし、生徒たちの名前をちゃんと覚えていたのもポイント高いっていうか、まあ私としてもちょっと気が弱いくらいのほうが主導権握れて色々安心ですし、でも時々は強引な一面も見たいというか、ただ背後からの不意打ちは勘弁してほしいんですけど、まあいずれにせよ同じかに玉教信者だってわかったのは収穫というか、だから私は一刻も早くかに玉を焦がさずに作れるようにならないといけなくて、できればかに玉の素に頼らず一から自分で味付けもしたくて、だから今度かに玉の美味しいお店を探して実地調査に行こうかと――」
「樒ちゃん、なんか話がどんどん明後日のほうにいってるみたいなのだけれど……」
「ああっ、すいません! と、とにかく、頼めそうな人がいて、目下交渉中なんです。今はそのための根回しとか、先方に説明するための資料を集めていて……」
私はがさごそと机の上の書類を整理する。と、花丸先生は、ふふっ、と優しく微笑した。
「頑張ってるのね、樒ちゃん」
「頑張ってる……」
私は岩村さんの手の感触を思い出しながら、ぐっ、と手を握った。
「……そうですね。受け身でいては、見えるものも見えない、って気づかされましたから。だから、これからはもっと色んなことに目を向けていこうって思うんです。そうやって、私にもできることを見つけて、あの子たちと一緒に頑張っていけたらいいなぁ、って……」
花丸先生は、そうね、と深く頷く。そして私の足元に目を留めた。
「樒ちゃん、その紙袋は?」
「あっ、これですか? えへへ、実は新しいジャージ買ったんですっ! 前のは膝のとこに穴が空いて、ネコのワッペンで塞いでたんですけど、例のコーチを頼もうとしている人がそういうの目敏く見つけてくるんでもっと見た目に気を遣わなきゃ――じゃなかった、大人として最低限の身だしなみは整えなければ、と」
それに、考えてみれば、私は今までずっとスーツのままで練習に顔を出していた。さすがに運動部の顧問としてそれはいかがなものか、と思ったのも理由の一つだ。
「あと、そう、ジャージを新調したついでに、家でも軽く運動することにしたんです」
「運動っていうのは、ダイエットの話? でも、それならご飯はちゃんと食べなきゃダメよ」
「それは、もちろんです。むしろご飯は前より食べるようになったというか――焦げかに玉の始末をつけなきゃなんで――とにかく、私、美味しいものを食べるとやる気が出るので! それで運動すると、頭もすっきりするし仕事も捗るしで、最近ほんと調子がいいんですっ!」
私は大袈裟に腕をぐるんと回してみせ、ぐぐっ、と椅子に座ったまま背筋を伸ばす。
「それに、これから夏になったらもっと暑くなりますから、体力をつけないと。練習を見ているだけで熱中症になっちゃうようじゃ、あの子たちにはついていけませんからね」
私がそう言うと、花丸先生は丸眼鏡に手を添えて、小さく呟いた。
「いい笑顔ね」
「え?」
「樒ちゃんは、立派な顧問だって言ったの」
花丸先生は軽やかな足取りで、自分の席――私の正面の机に戻る。「あ、ありがとうございます……」と私が顔を赤くしていると、「ねえ、ところで――」と急に話題を変えて、丸眼鏡の奥の瞳を見たこともないほどきらきらさせて、こそっと訊いてきた。
「――その、外部コーチを頼もうとしている方っていうのは、樒ちゃんの『いい人』なの?」
「そそそそそんなんじゃないですからッ!!」
がたんっ、と思わず立ち上がってしまった。ごほん、と学年主任の先生の咳払い。ううぅ……と私はさっきとは別種の熱を頬に感じながら席につく。
「その方とは、お休みの日にデートとかしないの?」
「だからっ、そういうのでは断じて……! それに、今週末は――」
「あら、何かご用事?」
「いえ……用事というか。生徒たちが、日曜日に県大会を見にいくって言ってるんですよね。ちょうど予定空いてるし、私もついていこうかな、どうしようかなって」
「あら、いいじゃない。せっかくだから、その人も呼んで。ほら、正式に迎えるまでに、なるたけ多く生徒たちと顔を合わせていたほうがいいでしょう? で、観戦が終わったら、あとは二人っきりで夜の街に――」
「もうううっ!! だからあの人はそんなんじゃないんですってば!!」
ごほんごほん、と二度目の咳払い。さすがに悪いことをしたと思ったのか、ごめんね、花丸先生は肩を竦めて片目を瞑り、内緒話を終わりにした。私も色々な恥ずかしさを紛らわすために、自分の仕事に戻る。
――この書類に目を通したら、部活に顔を出そう。ボール拾いくらいなら私にもできる。そうして練習が終わったら、外部コーチのこと、岩村さんと立沢さんにはそれとなく話しておこう。あと問題のコーチ――もとい坂木さんには、早ければ、偵察後の来週から練習に来られないか聞いてみよう。そして私はそれまでに焦げてないかに玉を会得せねば――。
たくさんのやるべきこと、いろいろなやらなきゃならないこと、加えていっぱいのやってみたいこと――目の前に山積みになっている仕事。ついこの間まではそれらに圧し潰されてそうになっていたのに、今はなんだか、さあやるぞっ、と楽しく感じられる。
それは、あの頃に思い描いていた理想と、ぴったり一致するわけではないけれど。
それでも、仕事をしながら、溜息ではなく、こうして自然な笑みをこぼしている私は、ちょっとくらいは近づけたのではないかな、と思う。
とは言え、まだまだ花丸先生や神保先生、それに学年主任の先生には全然及ばない。もっとしっかりしなきゃ。学生気分を脱したくらいで満足せず、生徒たちの笑顔のために、もっともっと先へ進んでいこう。
なんたって、そう――今の私の職業は、学校の先生なのだから。
ご覧いただきありがとうございます。
これにて長かった第八章もほぼほぼおしまいとなります。雑感は活動報告に書くと思います。
あとちょっとエピローグ的な話が残っておりますので、しばしお待ちください。




