172(万智) ぶいっ
――がざっ、
とサーブがネットに掛かった瞬間、えっ、と思わず思考が停止した。しかし、呆然としていたのはほんの数秒。私はすぐに何が起きたのかを理解し、練習後にネットを緩めるように、張り巡らせていた力を抜いた。
そっかぁ……負けちゃったかぁ。
ふぅ、と私は熱い息を吐く。これからだ、ってところで負けたことは悔しかった。しかし、緊張から解放された身体のほうは、どこか安堵するように、とくとくと少しずつ心拍数を下げて、ゆるやかに平常に戻っていった。
そのくらいでようやく周りを見る余裕が出てくる。振り返ると、ひかりちゃんが実花ちゃんに襲いかかり、チョップでみじん切りにしていた。あんなに大暴れしているひかりちゃんは初めて見る。それがなんだか可笑しくて笑ってしまった。
明正学園のほうはと言えば、最初こそみんなぽかんとしていたけれど、凛々花ちゃんと颯ちゃんが「うおおおっ!!」と歓声を上げたのをきっかけに、ぱちんぱちんとハイタッチの応酬をして盛り上がっていた。
ネットの向こうのその楽しそうな様子を見て、私は、よかった、と安心した。あちらの喜びが大きいということは、それだけこちらが手強かったということで、合宿の最終日に相応しいいい勝負ができたということで、私が心配したみたいな、合宿が台無しになるような結果にはならずに済んだ、ということなのだから。
そうしてひとしきり互いに勝利と敗北を噛み締めたところで、私たちはエンドラインに並び、その足でコートチェンジをした。選手は上から見て時計回りにコートを回り、ベンチの監督やマネージャーは副審側で交差する。これも公式戦予行演習の一環だ。
コートチェンジが済むと、私たちは先生と胡桃さんの元に集合した。ドリンクとタオルが配られ、各々簡単に息を整える。そして程よいところで、山野辺先生が「みんなお疲れ様でした」と明るい声で言った。
「このセットは負けてしまいましたけれど、みんな、手応えは感じていると思います。力の差は、先生には全然ないように見えました。しっかり気持ちを切り替えて、次のセットに臨んでください。私からは以上です」
「「ありがとうございました!」」
「じゃあ、あとは立沢さん、お願いね」
「はい。ありがとうございます、先生」
穏やかに微笑む山野辺先生。胡桃さんは一礼してから、私たちを見回す。
「次のセット、スターティングメンバーとラインアップに変更はなし。作戦は『先手必勝』。あちらの出方がどうであれ、序盤からどんどん攻めていく。一セット目も、みんないい感じにプレーできていたから、このままの勢いで畳み掛けよう」
「「はいっ!」」
「それと、由紀恵と静は後でわたしのところに来るように。あの天然娘をぎゃふんと言わせる方法を考えるよ」
「よっ、さすが胡桃! 大統領! 独裁者! 悪代官!」
「由紀恵の胡桃に対するイメージってやけに偏りがあるよね……」
「えー? じゃあ静ママは胡桃のことどう思ってるの? やっぱりパパ?」
「いや、パパではないかな。どっちかっていうと姑みたいな……」
「だってさ、胡桃おばあちゃん!」
「……二人とも、全部終わったら後で体育館裏に来るように。ちょっとわたしたちの今後に関わる大事な話をしようと思う」
「胡桃、顔が恐いよっ!」
「おばあちゃん、小皺増えるよ!」
「静さん? 明日、お暇かしら?」
「いやだからなんで私だけなの!? あとその口調すごく変だよ!!」
なんて三年生同士の団欒は、こほん、と胡桃さんが咳払いをしておしまいとなる。それからは、一時的な自由時間。既に、一年生は一年生、三年生は三年生でなんとなくまとまっていた。こういうとき、私はいつも、お好みで誰か近くにいる人を捕まえるのだけれど、今はちょっとそんな気分になれず、一人でぼんやりと落ち着けるスペースを探した。
と、そこへ、静ちゃんと由紀恵さんに断りを入れた胡桃さんが、やはりと言うべきか、やってきた。私は思わず口元が綻ぶ。胡桃さんは私の前に立つと、背伸びをして頭をさらさらと撫でてくれた。
「よく頑張ったね……万智」
「えへへ、ありがとうございまぁす」
至福の時間を堪能する私。さっきの三世代家族の喩えで言うならば、私は胡桃さんの実の娘かなって思う。そうすると、静ちゃんは義理のお姉さんで、由紀恵さんは年上の姪っ子という関係になる。
「……あのね、万智」
胡桃さんは撫でるのをやめ、上目遣いに私を見つめた。私は胡桃さんが次に何を言うのかがわかったので、しっかり見つめ返した。
「もし、何か困っていることや悩んでいることがあるのなら、わたしが必ず話を聞くから。抱え切れないものを一人で抱え込んでは……いけないよ」
胡桃さんは悲しげに目を潤ませ、重々しくそう言った。私は、胡桃さんを困らせてしまったことを反省しつつ、胡桃さんに心配してもらえたことを幸せに感じながら、こくん、と頷いた。
「……はい、わかりました。ありがとうございます、胡桃さん」
でも――ごめんなさい。あの子のことは……やっぱり、私が責任を持って胸にしまっておくべきだと思うので……今は、話すことはできません。
と、私が内心でそう考えていたのを、胡桃さんはなんとなく見抜いたのだろう。黙っている私の肩をぽんぽんと優しく叩いて、穏やかな声で言った。
「わかっているなら、よろしい。次の試合も、チームを任せたよ」
「はいっ、岩村万智、頑張りまぁす!」
「……ほどほどにね」
半ば呆れたように苦笑して、それじゃ、と胡桃さんは静ちゃんと由紀恵さんのところに戻っていった。すると、入れ替わりに、今度は実花ちゃんがやってきた。
「まっちー先輩、マッサージはいかがですか?」
「うん。じゃあ、お願いしよっかなぁ」
私は床に長座して、腕を横に伸ばす。実花ちゃんは私の隣に膝立ちになって、むにむにと私の腕や肩を揉んでくれた。今までにも何度かやってもらったのだけれど、これがうまいのだ。ふぅぅ、と私はゆっくり息を吐きながら、筋肉が程よくほぐれていく心地よさを感じる。そのことも含めて、私は実花ちゃんにお礼を言った。
「本当にありがとねぇ、実花ちゃん」
「なんのなんの! まっちー先輩こそお疲れ様でした!」
「そうだねぇ、へとへとになるまで頑張ったんだけどぉ、やっぱりナナちゃんは強いねぇ」
「でもでもっ! みんなで頑張ったら、最後はどうにかなりました!」
「……うん。本当にねぇ……本当に、ありがとう」
私が今こうして穏やかな気持ちでいられるのは、みんなのおかげだ。みんながいたから、あの時みたいに、行き過ぎた我儘で周りを傷つけずに済んだ。一人だけで頑張ってもうまくいかないときは、仲間の力を頼って、互いの気持ちを合わせて、一緒に頑張ればいいんだと――そのことに実花ちゃんが気づかせてくれて、静ちゃんや胡桃さんが背中を押してくれた。
そうして今回、私は、ちょっとだけキャプテンとして成長することができた。
もちろん、だからといってあの時のことがなかったことになるわけではない。
あの時の私は、全然、いいキャプテンではなかった。その事実は変わらない。
でも、だからこそ、私は思う。
これからも頑張らなきゃ、と。あの子の泣き顔を忘れないために。
これからも頑張りたい、と。この子やほかの子の笑顔を守るために。
どうあっても私はがんばり屋だから。それ以外にやり方なんて知らないから。
だから、私はこれからも、どんどん頑張っていこうと思う。大切な仲間と一緒に。
そうやって、いつか、ちゃんと私自身が堂々と胸を張れるようなキャプテンになって、それでもって、今度こそ、あのナナちゃんの壁を真っ向から超えてみせるんだ。
「じゃあ、まっちー先輩! 次は勝ちましょう!」
「そうだねっ、次はきっと勝とう!」
にこにこと笑い合う、私と実花ちゃん。その笑顔の横には、もちろん――。
「「ぶいっ!」」
ゴールデン合同合宿、最終日。
城上女子VS明正学園。
負けられない第二セット――プレー開始は、もうすぐそこまで迫っていた。




