169(七絵) 号令
ブロックする直前、右腕の付け根あたりに嫌な感触がした。ピンと張られた金属のワイヤーと、それを覆う白帯の感触。だから、タッチネットの判定を見た瞬間、私は味方に余計な動揺を与えないよう、片手を挙げて自己申告した。正しいジャッジである以上、主審に物申す気はない――と、そう言えば、試合中に主審に異議を唱えることができる選手は、キャプテンただ一人だったっけ。
それにしても……岩村さんの気迫は、凄まじかった。同じキャプテンという立場だから、よりそう思う。ただでさえ私が相手で、周りはほとんど一年生、そこにキャプテンとしての責任が加わって……合わせて一体どれほどのプレッシャーだったのか、今の私には想像もつかない。
その差が、つまり、この結果――私の自滅――なのだろう。私はいち選手としては岩村さんより優れていると思うけど、キャプテンとしては、まだまだ足元にも及ばないようだ。
現に、自分のミスで失点した今みたいなとき、どういう顔で何を言ったらいいのか、よくわからない。
「申し訳ない」
だから、率直に、そう口にしてみる。淡白過ぎるとは思う。これが星賀先輩なら、ちょっと指先に切り傷を作ってしまったときにさっと消毒して絆創膏を巻くような感じで(あるいは瀬戸さん風に喩えるなら初級の治癒魔法を唱えるような感じで)、手早くその場を取り繕えるのに。
「タッチネットとは、なんや珍しいですね」
内緒話をするみたいに声を掛けてきたのは、栄さんだ。一ローテ限定の攻撃参加のためにFRに構える私の背後に、セッターである栄さんが張りつく。
「確かにそんなに頻繁にはしないけど、珍しいわけでもないよ。私は、たまに、やっちゃう」
「そうなんですか?」
「うん」
私は一般的なセッターよりもブロックで活躍することを期待されている。そして全国では、時にもっと素早い動きや、難しい判断が要求される場面もある。私の身体は大きいので、意思と肉体との間にラグがあると、「あっ」と思ったときにはネットに触れていた、なんてことがたまにある。少なくとも、栄さんや仲村さんみたいなタイプのセッターよりは、その頻度が高い。
「それに、なんか、岩村さんがちょっと遠くなった気がして。フォローもいい位置にいたし、それで、少し、逸った」
「遠くなった――」
「まあ、ひとまず、ここはきっちり一本で切るよ。ありがとう、栄さん」
「あっ、いえいえ! ウチはなんもしてませんって」
屈託のない笑顔で、赤いリボンを揺らす栄さん。そして、「みんなカットしっかりなー!」と、カットさえ上がれば私が一発で決めるから、という意味合いで周りに声を掛ける。それに後衛の露木さんと今川さんが「「任せろ!」」と応じ、次いで瀬戸さんと西垣さんが「「おー!」」と返す。こういうムード作りも、本来はキャプテンの仕事だよな、と少し反省。でも顔には出さない。
サーブは、北山さん。緊張か、あるいは、何か狙っているのか、笛が鳴ってからかなり間を開けてから、ばしっ、とフローターサーブを放った。スピードに乗ったボールは、しかし、ごんっ、と惜しくもネットの白帯に阻まれ、こちらへは飛んでこなかった。
「うぎゃあああっス!?」
「どんまい、梨衣梨ちゃん!」
こんなのかすり傷だから大丈夫、とばかりに笑ってみせる、岩村さん。
スコア、18―24。
明正学園のセットポイント。ローテが一つ回って、サーブは、私。
この点差なら、よっぽどのことがなければ追いつかれないだろう。藤島さんはまだ後衛だし、彼女が前衛に上がる前に、こちらは露木さんと今川さんが前衛に揃う。そしてその時、あちらは二枚攻撃だ。だから、ここは適度な威力のサーブで様子を見つつ、ラリーの中で、落ち着いて得点のチャンスを伺えばいい……。
そう思って、ベンチの星賀先輩をちら見する。先輩は「ちっちっち、甘いね」とでも言いたげに人差し指を振っている。先輩の性格を考えると、その仕草の意味するところは「私で決めろ」ということだ。
厳しいな、と瀬戸さんなら思うかもしれない。けれど、これは先輩なりの優しさなんだと思う。作戦立ては星賀先輩、雰囲気作りは栄さんに任せっきりの私が、キャプテンとしての責任を果たそうと思えば、得点をしてチームの勝利に貢献するのが一番。先輩は今、そこに大義名分を与えてくれたのだ。
つまり、一つ前のローテ――北山さんのサーブミスで流れてしまった私の攻撃参加ローテ――で取り零した一周一点ノルマを、ここで果たせ、と。
とは言え、サーブで攻めるのは、さっき一度失敗しているからリスクが大きい。ならば、やはり、ラリーの中でチャンスを伺おう……。
ばしんっ、
と私はジャンプフローターを放つ。ボールはリベロのひかりんさんの守備範囲に行ってしまった。それなりに速度はあったはずだが、鮮やかにカットされる。そこから、城上女子は三枚攻撃。岩村さん・霧咲さん・宇奈月さん。一点失えば負けというこの場面で、まだ疲労が抜けきらない岩村さんへ上げるのは避けるだろう。となれば本命は今さっきコートに帰ってきたばかりの霧咲さん――そう思っていたら、そうなった。Aクイック。西垣さんがブロックに跳ぶ。私は素早くターン方向の空きスペースへ詰めた。
ぱんっ!
と霧咲さんの強打。しかし、詰めたおかげでほぼ正面だった。私はBCの栄さんが間に合うように高めにレシーブ。そこへ、ナイスカットですっ、と栄さんが走り込んでくる。
「ほな、颯、決めたってー!」
「任せろ!」
とんっ、
と平行に近い二段トス。切り込む今川さん。対するは霧咲さんと宇奈月さん。今川さんのポテンシャルを考えれば真正面に打っても六割方決まるだろう。これは私の出番はないかな、と成り行きを見守る。そして、
ばぢんっ!
と強打。偶然か必然か、やや力み過ぎたスパイクは、かえっていい感じに霧咲さんの指先を弾き、遥か後方へ飛んでいく。
「っ、ひかり、お願い!」
「委細承知、です」
わっ、スタート速いな――と感心する。リベロのひかりんさんは、コート外へ逃げていくワンタッチボールにぐんぐん迫る。それに二歩ほど遅れて藤島さんがついていく。ボールは、アップゾーンの手前に落ちるかというところで、滑り込んだひかりんさんに掬われ、辛うじて生きる。それを、藤島さんが懸命に繋ぐ。
「うわーん! さすがっスひかり殿ぉー!」
「ちょ、北山さん、寄るなです! 抱きつき禁止!」
「そんなっ!? なんでっスか!?」
「反則になるからですよ!」
その通り。ベンチメンバーがコートに侵入したりプレー中の選手に触れたりするのは、反則である。
「――ご心配せずとも、北山さんに挽回の機会が巡ってくるまで、私はボールを落とすつもりはありませんゆえ」
「うわーん! 大好きっスひかり殿ぉー!!」
「だから近寄るなです! あと藤島さん! 私に構わず早くコートに戻ってください!」
「うわわわっ、ご、ごめんなさい!」
なんて遠くでわちゃわちゃやっている間に、市川さんがラストボールを返し、こちらのチャンスボールで仕切り直しとなる。
「七絵先輩っ、もう一本!」
真っ先にトスを呼んだのは、やはり今川さんだ。しかし、霧咲さんの意識の大部分は今、彼女に向けられている。恐らくまた二枚ブロックになるだろう。今川さんなら六割方決められる――言い換えれば、四割方掴まってしまう恐れがある。なら、ここは一度、布石を打っておくのもアリだ。案外、この子なら、あっさり決めてしまうかもしれない。
ちょん、
と私は西垣さんにAクイックを上げた。一瞬、読みを外された霧咲さんの動きが止まる。が、すぐに頭を切り替えてブロックに跳んだ。よく集中している。またワンタッチを取られるかも――と思った直後、西垣さんは私でも予測できなかった動きを見せた。
「あっ、穴、見っけ」
つんっ、
と、いつ習得したのか、とても滑らかなタッチのフェイントを放った。ボールは霧咲さんの指先の上をすり抜け、その背後の誰もいないスペースへ落ちていく。これはいよいよ決まったか、と私はボールの行方を横目で追う。すると、
「後ろの次は前ですか……!」
たっ、たっ、たっ――と軽やかな足音が近づいてくる。またリベロのひかりんさんだ。BCから、水切りのようなテンポの良さでフロントゾーンへ。最後はフライングから、片手を突き出した。ボールは、蹴り上げられたように、ぼよんっ、と浮く。それはネットの上、ちょうど、フロントライトにいた瀬戸さんの頭上に来る。
「希和っ! ダイレクト行けるで! ええとこ見せてやー!」
「こんな千載一遇――! 決めなきゃ嘘よねっ!」
でりゃあっ! と瀬戸さんがすかさず叩き返す。が、
「おっと」
「嘘ぉー!?」
ばしーん、とさながらブロックのように、フライングレシーブから身体を起こしたばかりのひかりんさんが、スパイクの進路に掌底を翳して強打を塞き止めた。そればかりか、上がったボールは、ほどよい高さの軌道できっちりセッターの定位置に向かっている。一転、城上女子の攻勢だ。
「れふとぉー!」「速攻!」「ライトー!!」
三枚攻撃――「切り替えていこう」と主に瀬戸さんに向けてそう言って、私は守備位置のBRへ下がりつつ、赤いリベロゼッケンを翻す、私より四十センチほども小さな一年生を見つめる。
拠点防衛に隙がない上に、攻勢防御でも無類の強さを発揮する。彼女は県大会には出たことがないみたいなことを本人か誰かが言ってた気がするけど、こんな子が三年間も埋もれていたなんてなかなかに信じがたい――まあ一つ上に藤本さん、同期に藤島さんや霧咲さんがいたなら、いくらリベロ一人が優れていても勝ち上がるのは厳しいのかもしれないけど、それにしたって――、
と、そこまで考えたところで、ふと一つの疑問が頭に浮かぶ。
藤本さんは確か石館X中。藤島さんは落山とか言ったかな。霧咲さんは今川さんが霞ヶ丘だと言っていた。で、市川さんと岩村さんは、藤本さんと近所の、やはり石館X中。
はて、じゃあ、ひかりんさんの出身はどこの中学だったっけ――? 記憶を浚うが、思い出せない。というか聞いていないかもしれない。なんとなく北地区のマイナーな中学なのかな、と思っていたけど、彼女の基礎力は小学生の頃からやっていないと身につかないレベルだ。そして中学バレーの勢力図とは、ほぼ小学生のクラブチームの勢力図と等しくなる。クラブ上がりの経験者がまとまって進学する中学が、そのまま地区大会の覇者になるのだ。また、県庁地区がいい例だけれど、小学生クラブの数は、バレー部のある中学校の数よりも少ない。
つまり、小学生クラブ出身者が進学する中学は、地区大会レベルで言えば、無名校になることはまずないのだ。
ゆえに、ひかりんさんの中学も、ひかりんさんの代では地区大会止まりでも、過去に県大会出場を果たしている可能性が高い。こんなことならどこかのタイミングで聞いておくんだったかな……。
というか、そもそも。
ひかりんさんって、名字は、なんて言うんだったっけ? 練習中に何度か藤島さんが呼んでいた気がするけれど、意識して聞いていなかった。なんとなく、星賀先輩を含めてみんなが「ひかりん」と呼ぶのに、私も合わせていたけれど――。
ぞくっ、
と、なぜか背筋に悪寒が走る。なんだこれ……私、何かとても大事なことを見落として――聞き逃しているんじゃないか――?
ぱぁんっ!
と軽快な打音で現実に返った。打ったのは、ライトの宇奈月さん。狙いは私だ。器用に二枚ブロックの横を抜いてきた。私はそれをほとんど反射でカットし、同時に栄さんに目配せをする。
ここから逆転はないだろう、と悠長に構えていたけれど、なんだか下手に長引かせるのは危険な気がしてきた。この土壇場でリベロが存在感を出しているというのが、どことなく鶯谷さん――聖レを思い起こさせるのも良くない感じだ。あるいは、星賀先輩が私に「決めろ」と示唆してきたのは、こうなる前に仕留めろということだったのか――。
まあ、それなら、それで、私は私の仕事をしよう。
「栄さん」
目配せに加え、小声でそう呼び掛ける。意図が伝わったのを空気で察しつつ、カットしたその場から数歩下がって、アタックラインまでの距離を計り、相手の陣形を確認。
レフトブロッカーは、岩村さん。私にとってはさほど障害にはならない。そしてストレート方向のレシーバーは、藤島さんだ。彼女は一年生だけれど、私と同じ全国経験者――この際、手加減は、無用。
「締めの一発お願いしますっ、キャプテン!」
セットアップに入った栄さんがノリノリでそんなことを言う。キャプテン――そうだ、私は、キャプテン。星賀先輩不在の今は私がコート内の最上級生で、私の仕事は、得点でチームに貢献すること。
――ここで、このセットを、終わらせる。
とーん、
と高過ぎず低過ぎず、ぴったりのタイミングで入れる絶妙なトス。ずんっ、と私は強めにコートを蹴る。七割か、八割か、否――決めるからには、思いきり。身体全体を使って踏み込み、溜めた力をジャンプの瞬間に解放、斜め前方へ跳ぶ。そして解放した力のいくらかを反った背中と振り上げた右腕へ流し、腰から上のエネルギーを全て掌に凝縮するようなイメージで、体重を、運動量を、目の前のボールへまとめて押し付ける――。
ずどんっ!!
と我ながらやり過ぎたと思う一撃を放つ。もし顔とかに当たったらごめんわざとじゃないんだ藤島さん――なんて言い訳が頭に過った、刹那、
「おいでませ、ですッ!!」
ごふっ――!
と肋骨の具合が不安になるような鈍い音がした。はっ、と私は目を見張る。私が打ち込んだバックレフトに、いつの間にスイッチしたのか、赤いリベロゼッケンを着たひかりんさんがいた。ひかりんさんは、ライフル銃で撃たれた兵士みたいに、ゆっくりと後ろへ倒れていく。だが、果たして、ボールはまだ生きていた。ふわりと、バックゾーンの上空に漂っている。
「すごいすごいっ!! 三園さん、すごーい!!」
藤島さんの興奮しきった黄色い声が、耳から耳へと突き抜けていった。びりっ、と脳髄が痺れる感覚。
なんだって――? 今なんて言った――三、園……?
「七絵っ! 立て直せ!」
ベンチからの一喝で、意識と身体の硬直が解ける。はいっ、という声は、しかし生返事になってしまった。私はどうにか気持ちを切り替え、ボールの行方に集中する。レシーブボールの落下点へ走り込んでいるのは、市川さん。その視線の先にいるのは、もちろん、彼女だ。
「静さんっ! れふとお願いしまぁーす!!」
「任せて――今、持っていくね……っ!」
ふわっ、
とジャンプトスで、レフトへの二段トスが上がる。一瞬時が止まったかと思うような優しいトスだ。そこへ、笑顔満点の岩村さんが、重戦車の如き気迫で突っ込んでくる。対するブロックは西垣さんと瀬戸さんだが、これは止まらない気がする。特に気迫に当てられた瀬戸さんのほうがかなり危うい。だとすると、抜けてくるのはストレート――BRの私のレシーブが、最後の砦。
「だああああっ!!」
小さな身体を目一杯に使って、岩村さんが跳び、打つ。だあんっ、と強烈な破壊音がして、ボールはワンタッチでホップし、やはりストレートへ。私はその場でジャンプ――右腕を限界まで伸ばす。指先にボールの感触。捉えた。あとは引っ掻けて、押し返す――!
――がりっ、
と爪が弾かれる音がして、不意にボールの感触が消えた。まずいっ……と冷たい汗が頬を伝い、直後、ぼむっ――と遠く後方でボールが跳ねる音がした。
「…………なんと、まあ」
わあああっ、と大盛り上がりするネットの向こうに目をやって、次に、私は自分の右手に視線を落とす。……よかった。私の指先――爪も、ちゃんと、くっついてる。
――って違う。今はこんなことをやっている場合ではなく。
「…………いや、そんなまさか……」
放心したような呟きに、振り返る。いつも細かいところまで気を配ってくれる栄さんが、ボールを拾いに行くのも忘れてぽかんと口を開けている。そして私と目が合うと、ぱくぱく、とその口を開閉した。私は首を縦に振る。
――えっ? マジですか?
――たぶん。私も、今、知った。
と、気持ちの整理がつかずに佇む私たちに、涼やかな声が届いた。
「さてさて。俄然面白くなってきたね」
ベンチに立つ星賀先輩は、心底楽しげに微笑していた。この人は間違いなく『知っていた』な――と思った瞬間に、主審の笛が鳴り響く。振り返ると、その手はTの字を作っていた。
「七絵」
優しげに目を細める星賀先輩。あっ、と私はややあって自分の立場を思い出し、慣れない号令を掛けた。
「しゅう、ごう」
スコア、19―24。
明正学園は、一度目のタイムアウトを取った。




