168(静) 高校生の部活の一つ上の先輩
最後まで万智で勝負する――その意思統一が図れてから、何人かのメンバーは、すぐに行動を開始した。
まず動いたのは、宇奈月さん。サーブカットの守備位置を深めに取った。栄さんのサーブによって攻撃は半ば封じられていたから、それならいっそレシーブに専念する、という意図だろう。それに従って私の出所も後ろになったが、急げば間に合わないほどではない。
次いで、三園さんだ。北山さんと藤島さんに、ブロックフォローの陣形について細かく指示を出す。それによると、万智のすぐ傍に三園さんが直々に入り、後方は藤島さん、ライト方面が北山さんの担当になるようだ。
最後は、万智。私のところへやってきて、ぎゅ、と手を握ってきた。小さいながらも、うちのチームで一、二を争う握力を持つはずの、万智の手。しかし、今は小さな身体に相応の、弱々しい力しか込められていない。
「……静ちゃん、お願いね」
「……うん」
私は頷く。それしかできなかった。けれど、万智は満足したように手を離して、よしっ、と頬を叩いた。
「さーぶからぁ、一本!! 頑張っていこぉー!!」
「「おおっ!!」」
万智と一年生たちはすっかり覚悟を決めているようだった。そんな中で、私はまだ、私が何をしたらいいのか、私に何ができるのか、うまく考えをまとめられずにいた。じくじくする胸の疼きもさっきより強くなっている。でも、試合は私の気持ちが整うのなんて待ってはくれない。
ばしんっ、
と栄さんの球威のあるジャンプフローターが打ち込まれる。またしても宇奈月さん狙い。しかし、宇奈月さんはもう攻撃参加を捨てて、しっかり地に足をつけて正面でカットした。これが、ゆったり、且つぴったり、ネット際に上がった私のところへ返ってくる。北山さんが囮のAクイックに入り、西垣さんを引き付ける。そこから私は、万智へトスを送った。
「フォローオーケーです」
「こ、こっちもオーケーですっ!」
「自分もーっス!」
「いっちゃってくださあああいまっちー先輩ー!!」
一年生たちの声が重なる。トスの軌道を見送りながら、私も心の中で叫ぶ。
万智……っ!! お願い、どうか決まって――!!
――ばごん!!
「っ、藤島さん!」
「はいっ、任せて!」
跳ね返されるスパイク――けれどもフォロー圏内。全員一丸となったことで、万智の背負い込んでいたものが多少なりとも軽くなったのだろうか、ボールは真下ではなく上に浮いた。それを、バックゾーンの藤島さんがチャンスボールにする。
「静ちゃん、もう一本っ!!」
「うんっ、行くよ――」
今度も一応、北山さんが速攻に入る。宇奈月さんもライトで待っている。でも、二人とも形だけだ。そもそも、私はもう、万智が望む限り、万智へトスを送り続けると決めている。
とんっ、
とセミ気味のトス。万智は再び小田原さんに立ち向かう。対する小田原さんは、呆れるほどに落ち着いている。トスの軌道と、万智の踏み込みと、こちらのフォロー陣形にまで目を光らせ、立ち位置を微調整してタイミングを計り、ぐわっ、と跳び上がる。
ばんっ!!
弾丸が心臓を突き抜けていくような、痛恨の衝突音。万智のジャストミートと小田原さんのシャットアウトが合わさった音だ。また抜けなかった――思わず目を伏せた、次の瞬間、
「――上がってます!」
いっぱいに張り詰めた弦を爪弾くような高く鋭い声。三園さんだ。見ると、床に片膝をついて右手を前に突き出していた。シャットアウトに反応したのだ――ボールは三園さんの見上げる先、レフトのネット際に上がっている。しかも、ぎりぎりネットのこちら側。ダイレクトの恐れはない。私は北山さんを追い越して落下点に入る。万智も既にレフトへ開いていた。
「っ、はぁっ、静ぁ――ちゃぁぁん!」
「万智……!」
息も絶え絶えにトスを呼ぶ万智。私は少しでも万智が呼吸を整えられるよう、なおかつ顎が上がって打ちにくくならないよう、ぎりぎりの高さのオープントスを上げる。万智は大きく腕を振って踏み込み、跳んで、ボールを叩く!
――だんっ!!
それはまるで、スパイクをスパイクで返したような激しい音だった。ネット越しに横っ面を平手打ちされたかと錯覚したほどだ。私は振り仰ぐ。そこにいたのは、昔話の鬼のように両腕を頭上に掲げ、鋼のように揺るぎない立ち姿でこちらを見下ろす、小田原七絵さん。ボールはこちらの床に落ち、万智の足元に転がって、こんっ、とそのシューズの先に当たった。
「……これでも、はぁ、まだぁ、通らないのかぁ……っ!」
「……うん、通さないよ」
すっかり息の上がっている万智。膝に手をついて、今にも倒れてしまいそうだ。私は万智に手を差し出した。万智が私の手を取る。その手は――三度も連続でスパイクを打って表面に熱を持った万智の右手は――かたかたと震えていた。筋肉疲労だろうか。いや、万智は私と違って身体を鍛え抜いている。だとしたら、この震えの主な原因は、疲労ではなくて……。
「はぁ、ふぅ……静ちゃん、ありがとぉ」
深呼吸をした万智は、私に笑いかける。私を迎え入れてくれたときのような暖かな笑顔で。私はずきりと胸が痛んだ。
「万、智……」
「最後まで、トス……ちょうだいねぇ」
私の手を離れ、ふらふらとレフトへ向かう万智。その姿を見つめながら、私は意識がばらばらに散らかったまま定位置に戻る。
現在のスコアは、17―23。猶予はあと二点だが、実質、今が明正学園のセットポイントと言っていいだろう。なぜなら、私たちがここからサイドアウトを取ると、ローテが回り、北山さんのサーブになって、守備の要である三園さんが抜ける上、あちらは例の小田原さんが攻撃参加するローテでレセプションとなるのだ。連続得点をしようにも、限界があるのは目に見えている。
ここで切られなければ、いよいよ命運が尽きる。でも……じゃあ、一体どうすればいい……? タイムアウトでみんなの気持ちを合わせることはできた。でも、万智と小田原さんのミスマッチについては何も解消していない。どうすれば万智が小田原さんを超えられるのか――そのために、何か、私にできることは――。
「しずしず先輩、一つお願いが」
私のすぐ前でサーブカットの構えを取る宇奈月さんが、ふと小さな声で囁いた。いきなりで私が相槌を打てずにいると、宇奈月さんはすらすらと続けた。
「まっちー先輩へのトスなんですけど、あともうボール半個分だけ、ネットから離しめにできますか。高さや柔らかさは今のままで」
「それは、どういう――?」
宇奈月さんは答えずに、私に振り返って、何かの確信があるようににこにこと笑った。それで何が変わるのか、私にはわからない。けれど、宇奈月さんはさっき、万智のために真っ先に声を上げてくれた。いずれにせよ私には何も思いつかないのだ。ならば、ここは、彼女の笑顔に賭けてみよう――。
「……わかった。半個分、離しめね」
「ありがとうございますっ、しずしず先輩!」
ぶいっ、と宇奈月さんがピースサインをしてみせたのと同時に笛が鳴り、プレーが始まった。栄さんのサーブ。執拗なまでの宇奈月さん狙いだ。宇奈月さんは、それをどこか楽しむようにレシーブする。私はぴったり返ってくるボールを横目にセットアップ。そしてオーダーを再確認――ボール半個分、離しめ。サイドへの平行トスでその精度の調整となると、技術というより感覚の範疇だ。セットアップの動き、腕の高さ、力の入れ方、抜き方、そしてボールタッチ――あらゆる感覚を研ぎ澄まし、求めるトスの軌道をしっかりと思い描く。あとは反復練習で培ったパスの感覚を信じて、そのイメージをなぞるように、ボールを、運ぶ。
しゅる、
と、リリースした瞬間にはもうわかる。ちょうどさっきよりボール半個分――指二本くらいの誤差はあるかも――の位置へ、トスが上がった。
「ひかりんっ、もいっぽまええー!」
宇奈月さんがそんな指示を出す。直後、
――だんっ!
またしてもシャットアウト。目の前が暗くなりかける。しかし、三園さんがやってくれた。
「市川先輩っ!」
上がっている。繋がっている。私は急いで落下点へ駆け込む。
「万智!」
「静ちゃんっ!」
私たちの声掛けに呼応するように、わあっ、と一年生たちの声がすぐ近くから上がる。メンバーのほぼ全員がレフトサイドに集まっていた。コート外へ開いた万智。セットアップする私。フロントゾーンのフォローに三園さんと北山さんが入って、バックゾーンには藤島さん。宇奈月さんだけがライトサイドに残っている。
とーん、
と私は再び、さっきと同じ位置へボールを上げた。トスの軌道は違えど、万智の打点はそのままに。万智が自然なタイミングで入れて、いつも通りに打てるように。もちろん、ボールはとことん柔らかくして。
「万智っ!!」
「だああああーーっ!!」
ばん!
またブロック――! どうしても小田原さんを抜くことができない。しかし、
「まだまだです……っ!!」
「はあわわわわっ!?」
「さっすがひかり殿ぉース!!」
「ひかりーん、その調子ぃー!!」
首の皮一枚。三園さんに掬われて、ボールはまだ生きている。
「っ、だああっ、静ちゃぁぁーんッ!」
獣が唸るように声を絞り出す万智。万智っ、と私は叫び返して、万智にアイコンタクトを取る。瞬間、
「――――!?」
私の目に、『それ』は唐突に、飛び込んできた。
レフトに開く万智の向こう、ベンチでノートを握り締めながらこっちを見ている――胡桃の姿。
まるで全身が雷に打たれたように震えた。私はようやく『そのこと』に気づいた。
万智は元々しっかり者で、たった一人でも音成女子に馴染んでしまえるくらいのがんばり屋で、しかも、そんな万智の傍には、私がいない間も、戻ってからも、ずっと、胡桃がいた。
だから、もう、それで十分だと思っていた。私が入り込む余地も必要もないんだと思っていた。そうしてなんとなく身の置き所がないまま、宙ぶらりんで、私は万智のことを遠くから見ていることしかできなくて、私にできることなんてそれくらいしかないんだって、いじけていた。
でも、違った。そうではなかった。
万智は確かに、しっかり者で、がんばり屋で、キャプテンとしてもアタッカーとしても大体のことは一人でできる。けれどもそんな万智にだって、当然、一人でできないことがある。誰かの助けが必要なときがある。
そして、そういう『いざ』っていうとき、胡桃では万智の傍にいられないのだ。なぜなら胡桃はマネージャー――コートに立つことはできない。
だから、試合中、プレー中、苦しいときや辛いとき、震える万智の傍に寄り添って、彼女を支えられるのは、マネージャーの胡桃でも切り札の由紀恵でもなく、セッターとして常にコートに立っていられる――私だけなのだ。
つまり、それが、私にできること。
私にしか、できないこと。
私が今いるこの場所が――コートの内側で、万智と直に触れ合うことができて、この手で万智にトスを送ることができるこの場所こそが、私の、私だけの――。
「静ちゃんっ!!」
「万智っ!!」
互いに名前を呼び合いながら、ボールを通して気持ちを合わせる。私は最高のトスを上げる。万智はそこへ向かって思いきり腕を振りかぶる。
「わあああああああ―――っ!!」
「…………っ!」
万智の気迫に、小田原さんもより圧力を高めてきた。彼女の呼吸のリズムが変化する。深く吐いて、大きく吸う――そしてぴたりと止めた、次の瞬間、巨体が宙に跳び上がる。
――ばんッ!!
ボールは、果たして、真下へ落ちた。
私たちのコートに、叩きつけられた。
そんな……と私は膝が折れそうになる。万智もぜえぜえと息を乱している。そして万智を完璧にシャットアウトしてみせた小田原さんは――、
「っ…………」
僅かにだが、その瞳が揺らいでいた。でも、なぜ――? 理解が追いつかない。なぜ完封したはずの小田原さんの表情に、困惑の色が浮かんでいるのだろう……。
ぴぃ、という笛の音に、私たちは振り返った。すうっ――と主審の方の『左腕』が『私たちの側』に伸ばされる。得点したのは私たち、という意味だ。しかし、なぜ――ブロックされたのに――そう思って見つめていると、主審の方は遠慮がちに、ちょん、と右手でネットの上端に横から触れた。そのハンドシグナルが意味するところは――。
「タッチ、ネット……?」
まさか、と私が呟くと、さっ、と小田原さんが礼儀正しく片手を挙げた。つまり、今のブロック時に、小田原さんの腕かどこかがネットに触れたのだ。
まさか、そんなことが……いや、でも、今はそれより――!
「ま、万智っ、大丈夫!?」
「はぁっ、さすがにぃ……連続だとぉ、大変だねぇ。でも、はぁ、頑張った甲斐があったよぉ……!」
肩で息をしている万智。私は思いきって、その背中に手を回して、抱き締めた。ばくばくしている心臓の鼓動が伝わってくる。わわっ、と驚いて身動ぎする万智。でも、今はこの子を離したくなかった。
「万智は……本当に、がんばり屋だね。エースやったり、キャプテンやったり……」
小学生の頃から、そうだったんだ。万智はがんばり屋で、それゆえに、ちょっと危ういところもあった。
「そんな万智から見たら……私は、全然頼りないところも多いと思う。でも……私はセッターで、しかも、三年生だからさ……」
万智は時々、すごく我儘だ。そしてそれはたぶん、私よりもずっとたくさんのことを我慢しているってことだ。でも、二年生で、がんばり屋で、しかもキャプテンの万智は、そんなこと一年生たちの前では決して見せはしない。
でも、私なら。
三年生で、先輩である、私なら。
私は万智に代わってキャプテンをすることはできない。万智のように、一年生の先頭に立って呼び掛けたり、気にかけてまとめたり――そういうのは、私より万智がやったほうが断然うまくいくだろう。一年生だって万智についていくほうがやりやすいのは先刻承知の上。けれども、だからこそ――。
「……だからね、万智。一人で頑張るのが大変なときは、いくらでも私に甘えていいんだよ。私はいつだって万智の力になるから、どんどん頼っていいの。私は……だって、万智の先輩なんだから」
同じ三年生でも、由紀恵は気ままに走り出すし、胡桃は殿を守らなきゃいけない。
だから、先頭を行く万智のすぐ隣に付き添えるのは、その手をぎゅっと握って支えてやれるのは、チームにただ一人、私だけ。
不謹慎かもしれないけれど、私にはそれがたまらなく嬉しかった。こんな情けない私でも、万智のためにできることがある。私にしかできないことがある。
「……ありがとぉ、静ちゃん」
万智はそう言うと、ふっと身体の力を抜いて、私の胸に寄りかかってきた。そして小さな声で言う。
「これからも……よろしくお願いします、静さん」
あっ――と、私は意表を突かれて顔が熱くなった。そっか……そういうことに、なるのか。小学生のクラブの一つ上のお姉さんから、高校生の部活の一つ上の先輩になる、というのは。
「なぁんて。えへへ、なんだか、ちょぉっと、不思議な感じだね」
「私も……。なんか、こそばゆいと言うか……あっ、でも、二人きりの時は、今まで通りでいいからね?」
なんて言いながら、そっか、礼亜ちゃんが礼亜先輩と呼ばれることにやや不満げだったのは、こういうことなのか――と思い至る。確かに、なんだか昔より距離ができてしまったみたいで、少し寂しいような気分だ。でも、いくら寂しくても、やっぱり『頑張ってる後輩の力になるのは先輩として当然の務め』だから……こういうことにもちょっとずつ慣れていかないとな、と前向きに思う。
試合は、スコア、18―23。
崖っぷちであることに変わりはない。けれど、なんとか、喰い下がった。まだ可能性はゼロじゃない。
「みんなも、私の我儘に付き合ってくれて、ありがとぉ。大分開いちゃったけど、まだまだここから! 巻き返していこう!」
「「おおお!!」」
万智が私に笑いかける。私は頷いて、万智の頭をぽんぽんと撫でた。胸の中が暖かいもので満たされる。あのじくじくとした疼きはすっかり消え去って、もうどこにもなかった。




