167(樒) 私より十歳も若い女の子
二度目のタイムアウト。形式的に私の周りに集まったみんなに、開口一番、立沢さんはすっぱりと言った。
「何か別のやり方を考えよう」
無理もないと思った。それほどに、小田原さんの壁は堅固だった。素人の私の目にも明らかなのだから、実際にプレーしているみんなはもっとよくわかっているだろう。
しかし彼女は――岩村万智さんは、真っ先に、ほとんど反射的に、立沢さんの方針に異を唱えた。
「待ってください! 私なら大丈夫ですっ! まだ頑張れます!」
「いや、万智の気持ちは、わかるけど――」
「私はまだ頑張れますッ!!」
肩をいからせ、顔を真っ赤にして立沢さんに詰め寄る彼女を間近にして、私はまたしても思った。
本当に、私は一体、この子の何を見ていたのだろう、と。
岩村さん――がんばり屋の岩村万智さん。穏和で優しくて、何事にも一生懸命で、素直で、面倒見のいいしっかり者のキャプテン――そんな女の子なんて、現実には、どこにもいなかった。
「胡桃さんっ! 本当に、私なら大丈夫ですからっ!!」
「お、落ち着いて、万智……。わたしも、できることなら万智に頑張ってほしい。でも、点差もあるし、ミスマッチなのは事実だよ。こういう場面はいつかやってくる――だったらなおさら、みんなで協力して、乗り切っていくやり方だって、試してみないと――」
立沢さんは早口で捲し立てた。いつになく狼狽している。彼女もまた、岩村さんの反発が予想外だったのだろう。私も、立沢さんの出す指示なら、岩村さんもすんなり受け入れるとばかり思っていた。
「っ……わかってる、つもりです。点差も、ナナちゃんの強さも、わかってます……でも、私は、だって……」
岩村さんはぐっと拳を握って、顔を伏せた。ふわふわとした栗色のボブカットが、表情を隠す。
「――頑張る以外のやり方なんて……できません。私は頑張らなきゃいけないんです……」
「万智……わたしは何も――」
そう言って立沢さんは、岩村さんの震える肩に触れようとする。しかし、直前で躊躇うように手が止まった。ここで彼女を慰めるべきか、慰めるとしてなんと声をかけたらいいのか、あるいは断固として自身の意見に従わせるべきなのか、でなければ折衷案を示すか――数ある対応のうちどれを選択すべきか迷っているのだ。そしてその迷いは、長引けば長引くだけ、取り返しがつかなくなる。
こんなとき――こんな、当事者である生徒たちだけでは解決が難しい局面に突き当たったときこそ、私の出番ではないのか――全体を客観できる立場にいる、大人であり先生である、私の――。
「っ…………」
口を開きかける。こじれた空気を解きほぐす適切な言葉は、果たして、出てこなかった。出てくるわけがなかった。
私は岩村さんを、私よりずっとしっかりした立派な子だと思っていた。
私は立沢さんを、私よりずっと冷静で頭の切れる子だと思っていた。
彼女たちが、こんなにも脆い存在だなんて、考えもしなかった。
そんなはずがないのに。
彼女たちはまだ高校生――色々なことが初めてで、躓くことにも壁にぶつかることにも慣れていない――私より十歳も若い女の子なんだ。
私は何を甘えていたのだろう。バレーは素人だからと言い訳をして、彼女たちなら大丈夫、私は見ているだけでいいなんて……大人の私にしかできないことは、探せばいくらでもあったはずなのに。
何をしてきたんだ、何をしているんだ、何とかしなければ――悔恨と歯がゆさと焦燥にじりじりと胸が焼かれていく。誰も何も言えないまま刻々と時間が過ぎていく。でも……言わなきゃ。私が、この子たちの顧問である私が、何か――。
「まっちー先輩でいきましょう!!!!」
ぱあんっ!
と目の前で花火が弾けたのかと思った。それくらい大きくて明るい声に、みんなが一斉に振り返った。視線を受け止めた彼女は――宇奈月実花さんは、夜を昼にしてしまえるくらいの笑顔で、言った。
「まっちー先輩でいきましょう!! くるみー先輩、私からもお願いします!! まっちー先輩でいきましょう!!」
「実、花――」
「ただし、です!! これは、まっちー先輩にお願いなんですが!!」
「実花、ちゃん……? ええっと、なぁに……?」
「そんなに頑張らないでください!!」
「へ……?」
岩村さんの顔が驚きに固まる。他のみんなも同様だ。そんな中、宇奈月さんは素なのか演技なのか「おっと失礼!」と口元に手を当てて、またにこにこ顔で言った。
「言葉が足りませんでした!! つまりアレです!! まっちー先輩――そんなに『一人で』頑張らないでくださいっ!!」
はっ、と岩村さんの時が止まる。つぶらな目をますますまん丸にして、何かの憑き物がそこから出ていくみたいに、ぽかんと口を開けたままで。
「なんといっても相手はななぴく先輩ですからっ!! まっちー先輩も一人では大変のはずです!! だからここは、みんなで一緒に頑張りましょう!! ねっ、いいよね、ひかりん!?」
「――是非もなし、です」
突然同意を求められた三園さんは、一瞬驚いてみせたものの、すぐに取り澄まして頷いた。そして輪の中へ一歩進み出て、厳かに周りを見回す。
「これだけの点差がある以上――全員で腹を括りましょう。小田原先輩の腕に穴が開くまで、全弾、岩村先輩の砲腕でぶちかますのです。そうと決まっていれば、私ももっと思いきったブロックフォローができるというもの。皆さんはいかがですか?」
三園さんがそう問いかけたのをきっかけに、それまで黙っていたメンバーが連鎖的に思いを口にしていく。
「自分も、賛成っス!! 譲れない戦い!! ぶつかる意地と意地!! そういうのちょー燃えるっス!!」
「わ、私もっ! 微力ながらお手伝いします……!」
「あたしもです! ここを一つ回していただければ、何点差だって逆転してやりますからっ!」
「そうだそうだ、万智ちゃん! 胡桃の言うことなんて聞くことないよ! ねっ、静!」
「い、いや、私は胡桃を否定するつもりはないけど……」
宇奈月さんの切った口火は、いくつもの誘爆を引き起こし、最後に市川さんへ辿り着いた。岩村さんと立沢さんのやり取りを、岩村さんのすぐ後ろ――一番近くで、一番辛そうに見ていて、けど何も言えないでいた、市川さんに。
「……私は、万智が、納得できるようにやるのが……万智がやりたいようにやるのが、いいと思う」
「静、ちゃん……」
振り返った岩村さんの肩に、市川さんは手を置いた。そして岩村さんを立沢さんに向き直らせ、自分もその隣に立って、市川さんは細い目をしっかりと開き、立沢さんをまっすぐに見つめる。
「胡桃、私からもお願いする。万智の思うように、やらせてやってくれないかな」
立沢さんは少し怒っているように頬を膨らませて市川さんを睨みつけた。そして次に、岩村さんを見た。幼い頃から枕元に置いているお気に入りの人形を見つめるような、優しい微笑を浮かべて。
「……本当に、万智は、我儘なんだから」
「……はい、私、すっごく我儘なんです」
そう言って二人は笑い合う。そして、立沢さんは表情を引き締めて、言った。
「わたしはあくまでマネージャー。コートの中で最終的にどうするかは、キャプテンである万智の判断に任せるし、それを信じる」
「はいっ、ありがとぉございます!! 胡桃さん!!」
「ただし、我儘を言うからには、最後までしっかりね」
「もちろんでぇす!!」
岩村さんはそう言って頭を下げると、輪の中心に手を出した。みんなが意図を理解し、そこに手を重ねていく。岩村さんはそのたびに、一人一人と目を合わせていく。
「実花ちゃん、ひかりちゃん、梨衣菜ちゃん、透ちゃん、音々ちゃん、由紀恵さん――静ちゃんも」
岩村さんは少しはにかむように微笑して、それから決意に目を輝かせて言う。
「みんな……私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう。私、頑張るからねっ!!」
それを聞いて、みんなが頷く。しかし、最後に手を乗せた立沢さんは、首を振って、たしなめるように言った。
「……そうじゃないでしょ、万智」
「おっと――これは失礼しましたぁ!」
岩村さんは大きく息を吸い込んで、叫ぶ。
「みんなああ頑張ろおおぉー!!」
「「おおおおっ!!」」
「城上女子バレーボール部ぅー――!!」
「「ぶいっ!!!!」」
わあっ、とみんなの手が天井に向けられ、メンバーはコートに戻っていく。高めた勢いそのままに、全身に気迫を漲らせて。そんな彼女たちの後ろ姿を眺めているうちに、私の胸にも熱いものが込み上げてくる。そして私はほとんど無意識に、声を張り上げていた。
「みんな……っ!! ふぁ、ファイトおおー!!」
いやいやもっと気の利いた台詞があったよね私っ! と思わず頭を抱えそうになったけれど、岩村さんがぺこっと礼をしてくれて、後ろ向きな気持ちは全部吹き飛んだ。私は眼鏡を外して、ぐしぐしと目元を拭い、また眼鏡を掛ける。
コートに立つ生徒たちが、以前よりも大きく見えた。それは彼女たちが成長したからなのか、あるいは、私が彼女たちに近づけたからなのか――どちらでもあってほしい、と私は思う。
「……山野辺先生、座られないんですか?」
ベンチの立沢さんが不思議そうに訊いてくる。私はコートを見たまま答えた。
「もうちょっとだけ、このまま……」
サイドラインから三歩分くらい離れたところに、私は佇む。これ以上はたぶんプレーの邪魔になるし、それに、どれだけ近づきたくても、選手ではない私はコートの中へは入れない。
「――――きですよ」
「えっ?」
振り返る。立沢さんはノートで口元を隠して、小さく呟いた。
「わたしが選手を辞めたことに未練を覚えるのは、例えば、こういうときです」
立沢さんはどこか満足そうに、でもちょっぴり寂しそうに、目を細めてみせる。私は「うん……そうだね」と深く頷く。共感と、意外とシャイな彼女が、自らその素顔を見せてくれたことへの感謝を込めて。
ぴぃ、と試合再開の笛が鳴ったのは、その直後のことだった。




