130(万智) 合宿前夜
今日は学校も部活もお休みだったので、朝から家中のお掃除をしたり洗濯物をしたりお布団を干したりと、家事がはかどった。おかげで夕食と明日の準備を終えてからは極楽だった。ぴかぴかのお風呂でゆったりして、柔軟剤の匂いのするパジャマに袖を通して、あとはふかふかの布団で寝るだけ――まさに幸せフルコース。
そんな、合宿前夜。
お風呂のあと、自室で髪を乾かし、軽くストレッチをしていたところに胡桃さんから「まだ起きてる?」とメッセージが来て「起きてますよー」と返信、そこから静ちゃんも交えてちょこちょこっと雑談をして最後には「おやすみなさい」、時計を見ると十時過ぎで、ちょっと早いけど、私はもう床につくことにした。
あっ、でもその前に、少しだけやることが……。
私は自室から出て、すぐ隣の光の漏れる襖の前に立つ。お父さんの部屋だ。中からはテレビの音。週末のこの時間ならたぶん洋画を見ているのだろう。
「お父さーん? 入って大丈夫?」
CMに入ってテレビの音が大きくなったのを見計らって、尋ねる。いいぞ、どうした、と淡白な声が返ってきた。私は襖を開けて、中に入る。お父さんはちゃぶ台の前に胡坐をかいて、週に一度の晩酌を楽しんでいた。ちゃぶ台の上には二合瓶とお猪口(肴は無しで、お酒だけちびちび呑むのだ)。振り返った顔は、お風呂上がりみたいに真っ赤だった。でも、目を見る限り、深酔いはしていない。お父さんは少し呑んだだけで真っ赤になる体質なのだ。
私はちゃぶ台の傍に膝をついて、空いていたお猪口にお酒を注ぐ。お父さんは、ありがとう、と一口だけ呑んでから、また、どうした、と聞いた。
「夕食の時も話したけど、私、明日から三泊四日で合宿だからね。その間、ご飯とか、お風呂とか、お掃除とか、本当に大丈夫かなって」
「なんだそのことか。心配は要らんと何度も言っただろう。心配性なヤツだな」
お父さんは呆れたように苦笑した。もう一週間前から口を酸っぱくして言ってるから、さすがに耳にタコなのだろう。でも、お父さんだって、私の高校受験のときに受験票はあるか筆記用具は揃えたかって一週間前から言い続けていた。心配性なのはお互い様だ。
「とりあえず、明日の朝御飯と昼御飯の用意はしておくから。夜からは自分でなんとかしてね。あと、火の元だけは本当に気をつけてよ」
「わかってるわかってる」
きゃんきゃん吠えてじゃれてくる子犬をあやすように、お父さんは私の頭に手を置いた。
「お父さんは大人なんだから、なんだって最低限はできる。それより、お前はお前のことに集中しなさい」
お酒が入っていていつもより体温が高いお父さんの手。その手が、まだ少し湿っている私の髪を、さらさらと撫でつける。
「部活……たくさん一年生が入ってきたんだろう。ようやく大会に出られるんだ。後輩に負けないよう頑張れよ」
「……ありがとう」
そうしてしばらく私は撫でられるがままでいた。しかし、テレビから爆音が響いたところで、おっ、とお父さんの興味が映画に戻り、手も離れてしまった。ちょっと物足りないけれど、仕方がない。お父さんの週に一度の楽しみを邪魔しても悪いので、私は席を立った。
「万智」
襖に手をかけたところで、呼び止められる。振り返ると、お父さんは穏やかな笑みを浮かべて、ハイタッチの代わりみたいにひょいとお猪口を持ち上げた。
「合宿、楽しんでこい」
「うんっ!」
私は拳を胸の前に掲げてみせ、それからその手をパーにして、おやすみなさい、と言ってお父さんの部屋を出た。私はそこから、少し迷って、居間へ向かった。
居間に入ると、まずはキッチンに寄って、シンクの上のオレンジ灯を点け、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップの三分の一だけ飲む。そして、キッチンの明かりを残したまま、居間の奥にある仏間へ。
襖を開けると、少し冷たい空気が流れ出てくる。それから、奥ゆかしくて、どこか懐かしい匂いも。
私は襖の影にひっそりと鎮座する仏壇の前に正座する。夜なのでお線香はあげず、鈴も鳴らさない。そっと一礼して、心の中で呼び掛ける。
――お母さん、まだ起きてますか?
もちろん返事はない。でも、お母さんはいつでも万智のことを見守ってるってお父さんが言っていたから、今だって起きていて、聞いているだろう。
私は、仏壇の真ん中にいるお母さんの影に、今度は心の中じゃなく、実際に小声で話し掛ける。
「こんばんは、お母さん。夜遅くにびっくりしたかな。万智です」
少しの間、耳を澄ませる。外の車の音、冷蔵庫の音、お父さんの部屋のテレビの音。
「明日から、万智は部活の合宿でちょっとお家を離れます。私が入学する前に城上女で教えてた先生が練習を見てくれるんです。静ちゃんがいい先生って言ってました。あと、練習中はすごく厳しいって。私は今の城上女の主将なので……前と比べられるかもって思うと、ちょっと緊張します。でも、頑張ってこようと思います」
話の切れ目。また耳を澄ませる。外の風の音。時計の針の音。お父さんがお手洗いに立つ音。
「私がいない間、お母さんは、お父さんと二人っきりですね。いつも私ばっかりお母さんを独り占めしてるので、たまには夫婦でゆっくりしてください。あっ、でも、あんまりお父さんを甘やかさないでくださいね。だらしなくしてたら叱ってあげてください。……まあ、ちょっとお酒が増えるくらいなら、いいけど。お父さんも、お母さんのお酌は嬉しいと思うし」
耳を澄ませる。外を歩く誰かの声。私の呼吸の音。お水を飲みに居間に歩いてきたお父さんが、キッチンの明かりで私がお母さんと話していることに気づいて、そっと引き返していく足音。
「じゃあ、今日は遅いのでこれくらいで。また明日の朝に。おやすみなさい……お母さん」
私は始めと同じように一礼して、さっと立ち上がる。目を閉じて、耳を澄ませる。お母さんの声は聞こえない。もし聞こえたとしても、私はお母さんの声を覚えてないから、そうだとわからない。
でも、私を取り囲む色々な音の中にそれは紛れているってお父さんが言っていたから、寂しくはない。
私は仏間を出て、キッチンの電気を消し、お手洗いに寄ってからもう一度お父さんに襖越しに「おやすみなさい」と言って、自室に戻った。目覚ましをセットして、ふかふかの布団にもぐり込む。
明日からはいよいよゴールデン合宿! 張り切っていくぞぉー!
登場人物の平均身長:164.8cm




