96(ゆふる) 医務室
医務室は、元々は教員の休憩室だったのを、第二体育館の主な使用者であるバレーボール部に便利なように改装した部屋だ。ベッドが一つと、ベンチが一つ。あとは大きめの戸棚とラックが壁際にあり、そこに薬品やテーピングその他もろもろが収まっている。
部屋の広さは教官室や更衣室と大体同じくらいで、一度に十何人も入れるほどスペースに余裕はない。なので、今のところ、部屋にいるのは件の明正学園のダブルエースと、監督とキャプテンとマネージャー、それから私の計六人だった。私がこの場にいるのは、医務室の勝手がわかっているのと、状況報告係も兼ねて、村木先生に派遣されたからである。
また、部屋の外では、夕里を含めた残りの明正学園メンバーと、彰と世奈と羽田野天理が待機していた。
ダブルエースは、今はベンチに座っている。意識のほうは運ばれている間にはっきりしたらしく、監督の問診にも普通に受け答えしていた。監督は合わせて触診も行い、それを終えると、ふうっと安堵の溜息をついた。
「ひとまず……目立った怪我はないようだな」
それを聞いて、キャプテンとマネージャーがほっと胸を撫で下ろす。ただ、ダブルエースの顔色は暗いままだ。
「だが、万が一ということもある。それに二人ともかなり疲れているようだから、今日はもうこれまでだ。身体を拭いて着替えたら、少し横になりなさい」
「わ、私、着替え持ってきます!」
だっ、とマネージャーが部屋を飛び出す。開いた扉から、無事なのを聞きつけた夕里たちがなだれ込んできそうになるが、私はそれを、無言で首を振って止めた。心配なのはわかる。が、今は少しだけ待ってやれ。
ぴしっ、
と引き戸が閉じて、しばし、医務室の中に沈黙が訪れる。そして、
ぽたっ、
と透明な液体がダブルエースの伏せた顔から床に落ちた。
「……まだ……動けます……」
そう言ったのは、黒髪のほうだ。赤茶髪のほうも負けじと震える声を出す。
「試合の、続きを……やらせてください」
もちろん、明正学園の監督は許可しなかった。
「ダメだ。安静にしていなさい」
「「っ……このままじゃ終われません!!」」
「こら、急に動くと――」
がたっ、
と立ち上がる二人。監督は驚きながらもそれを押さえようとするが、遅かった。直立の姿勢になろうとした二人の足が、ぴんっ、と地面から真っ直ぐに伸びた、次の瞬間、
「「っ……!?」」
びきんっ、
と電流が走ったように二人の顔が強張った。足が攣ったのだろう。踏ん張りがきかず、よろよろと逆再生のように腰からベンチに落ちていく。
「ほら、今川、伸ばすからな。少し痛むかもしれんが、力を抜けよ。星賀、露木のほうを頼む」
「はい」
淡々と処置をする監督とキャプテン。攣った足の筋肉を伸ばされている間、ダブルエースは額に脂汗を掻きながら、痛みと痛み以外の理由で、くしゃくしゃに顔を歪めていた。監督はそんな二人を上目に見て、諭すように言う。
「……自分の身体のことなんだから、無理はお前たちのほうがよくわかっているはずだぞ。怪我をしたら元も子もない。悔しいと思うのならば、なおさら今は大人しくしていなさい」
「「で、でも……!!」」
二人はそう反論しかける。しかし、攣った足を治してもらいながら吐き出す言葉に、一体どれほどの説得力があろうか。監督とキャプテンはそれ以上何も言わず、ただ黙って二人の治療に集中する。
「「……でも……っ!」」
でも――。
その精一杯の気持ちだけが、静かな医務室に響いて、私たちの耳以外のどこにも届かず、消えていった。二人の表情や肩から徐々に力が抜けていき、それに反比例するように、ぽたぽたと、零れる涙の量は増していく。
「「…………っ」」
……でも。
唇の動きだけでそう呟いたのが、最後だった。それきり二人は完全に沈黙し、されるがままになる。
やがて攣った足が治まって、監督は自前のテーピングを二人の足に巻き始めた。私は念のため、何か入り用のものがないか尋ねる。監督は「大丈夫。ありがとう、軍場さん」といつの間に知ったのか私の名前入りで気さくに応え、さらに部屋を見回しながら「ここはよく整理整頓されているね。きっと部員さんがしっかり掃除をしているんだろう」とお褒めの言葉まで下さった。挨拶したときは強面な印象だったが、どうやらこの監督、村木先生みたいな朴念仁とは真逆のタイプのようだ。私はちょっと感動するとともに、無意識に握っていた拳から力を抜いた。
そうしているうちに、着替えを取りに出ていた小柄(私ほどではないが)なマネージャーが帰ってくる。テーピングの処置が終わり、着替えた二人をベッドに寝かせるところまで見届けて、私は一足先に部屋を失礼した。
廊下で待っていた面々に「終わった。心配ない」と告げ、ぺこぺこ頭を下げる夕里に見送られて、私は彰と世奈を引き連れて体育館に戻る。すたすた歩きながら、私は右の手首をジャージの袖の上から擦り、ぽつりと呟く。
「にしても……さっき使ったとき、部屋の中を軽く掃除しておいてよかった」
「「えっ?」」
「なんでもない」
先の試合で彰をぶん殴ったときに右手首を軽く捻挫したことは、もちろん、二人には話さなかった。




