90(知沙) リベロゼッケン
一瞬、サイドラインに立っているのが誰なのかわからなかった。もちろん志帆ちゃんに決まっているんだけれど、私は志帆ちゃんがリベロゼッケンをつけているところも、髪を結んでいるところも、見たことがなかった。二年間一緒にいて一度もだ。
「今川さん、ちょっと」
志帆ちゃんは今川颯さんに声を掛けた。今回、志帆ちゃんは西垣芹亜さんと交替する予定でいたので、これは状況を見ての一時的な交替だろう。呼ばれた今川さんはイレギュラーな事態にちょっと驚いたようだったけれど、すぐに飲み込んで志帆ちゃんのところに向かった。
サイドライン上で手を合わせ、速やかに且つ静かに交替が行われる。志帆ちゃんIN、今川さんOUTだ。
コートを出た今川さんは、小走りでベンチへやってきて、私の前を通り過ぎて神保沙貴子先生の斜め前に立ち、一礼。神保先生は「楽にしていい」と片手を挙げる。
「サイドアウトを取ったらすぐに戻ってもらう。身体を冷やさないようにな」
「はい」
硬い表情で頷く今川さん。神保先生は少し砕けた調子で訊く。
「県四強はどうだ。勝てそうか?」
今川さんの眉がぴくりと動いた。神保先生の質問が、数日前の一幕を意識してのものだと気付いたからだろう。神保先生が最初に遠征のことを告げたとき、今川さんは――それから露木さんも――言った。
聖レオンハルト女学院、獨和大附属楢木高校、鶴舞女子短期大学附属。その三校に勝つことができれば、県で一番になれるかと。神保先生はそれに「可能性はある」と答えた。ただ、それがどれくらい困難なのかについては、あのとき触れなかった。
「……勝ちます」
拳を握って、今川さんは感情を抑えた声で言った。意見を尋ねられて意思を答えるあたりが、とても彼女らしい。神保先生は笑顔で頷いた。今川さんは一礼して、アップゾーンに走っていく。そのとき、ちょうどサービス許可の笛が鳴った。私は今川さんに代わって入った志帆ちゃんを見つめながら呟く。
「切れますかね?」
「そうだな――」
神保先生は少し考える間を空けてから、言う。
「さっきの試合中、聖レの閉ざされた環境の話をしたな。だから聖レは伝統的に守備重視なのだ、と。星賀はそれを『理にかなっている』と評した。そしてあいつ自身も大概合理的なやつだ」
「えっ?」
いきなり脈絡のつかめない(少なくとも私の頭では)ことを言われて、思わず神保先生に振り返る。直後、
ばしんっ、
と、大人しい髪の色が多い聖レメンバーの中で一人だけぴっかぴかの金髪をしている人のジャンプサーブが放たれて、私は反射的にコートに視線を戻した。サーブは、これまで同様ぎゅるぎゅるとカーブしながらライト側へ。落下点にいるのは志帆ちゃんだ。んぐっ、と私は固唾を呑む。
ばちっ、
と志帆ちゃんはアンダーハンドでボールを捉えた。さっきまでそこにいた今川さんより身体のサイズが三回りくらい小さいから、吹き飛んでしまうんじゃないかと心配になる。でも、もちろん、そうはならなかった。志帆ちゃんは、まるでアースが電流を地面に逃がすみたいに、足腰をうまく使ってサーブの威力を殺してみせた。
ぽーん、
とバスケットのジャンプシュートみたいな高い軌道のカットが、ナナちゃんへ向けて返っていく。
「つまりは、こういうことだ」
神保先生が得意そうに呟く。いやなんのことかさっぱりわからないです! と声を大にして言いたいのだけれど、今ボールから目を離すわけにはいかない。
志帆ちゃんのカットは、ほぼほぼぴったりのAカットだった。それを受けて、既にセッターの定位置についていたナナちゃんはその場でくるりと反転し、ぐわんっ、と腕を振って大きくジャンプする。
ひゅるる、とゆるやかにネットの上へと落ちてくるボール。そのボールに対して、ネットの両サイドから二人の選手が跳び上がった。こちら側はナナちゃん、あちら側は県内最高さんだ。
怪獣大決戦とでも言うべき大迫力の空中戦――交錯は、数瞬だった。ナナちゃんが先にボールを右手で捉え、直後、県内最高さんが両手でそれを押さえに掛かる。するとナナちゃんはボールを押し込む力を緩め、手首を捻ってライト側へボールを受け流した。ぢっ、という乾いた摩擦音がして、ボールは私たち側コートの、ライト線上ぎりぎりのところへ落ちる。
ラインジャッジの旗は、果たして、上がった。ボール・アウト。つまり、こちらの得点だ。
ぴぃ、
と笛が鳴って、主審の腕が私たちの側に伸びる。スコア、1―5。待望の一点目。……のはずなんだけれど、いくら待っても喜びの声が上がらない。あまりに鮮やかな手際だったからか、みんなぽかんと口を開けて固まっている。
そんな妙な静けさの漂う中、志帆ちゃんとナナちゃんだけが自然体でいて、すたすたと互いに歩み寄ると、ぱちんっ、と腰の高さで手を合わせた。
「すまない、少し近かったか?」
「いえ、ちょうどよかったです」
短い言葉を交わして、ナナちゃんは定位置につき、志帆ちゃんはこちらへ戻ってくる。アップゾーンの今川さんが慌ててサイドラインに向かい、二人は交替。今川さんIN、志帆ちゃんOUT。ローテが一つ回って、サーバーは西垣さん。
やがて、前衛に上がった栄さんの「ナイッサー」という明るい声をきっかけに、またコートに声が満ち始める。それをBGMにベンチへとやってくる志帆ちゃん。神保先生は悪戯っぽい笑みで迎えた。
「やるじゃないか」
「外から五度も見ましたからね」
微笑を浮かべ、志帆ちゃんは如才なく応じる。一見するといつも通りだ。でも、すぐにそうでないと気付く。うっすらとだけれど、全身に緊張した空気を纏っている。その集中を乱さないよう、私は「すごい!」とか「さすが!」とか褒めちぎりたいのをぐっと堪え、「おかえり」と言うに留めた。志帆ちゃんは「ただいま」と柔らかい笑みを返し、それから、振り返って相手コートのほうを見据えた。
「……出てきたな」
志帆ちゃんが独り言のように呟く。私もそちらへ目を向ける。出てきた、とはつまり、ジャンプサーブを打っていた金髪の人に代わってコートに入った彼女のことを言っているのだろう。一人だけ他のメンバーと明らかに異なる格好をしていて、一際目立つ選手。もちろん、その「異なる格好」とは、包帯や眼帯や外套のことではない。
「県内筆頭の守備力を誇る聖レオンハルト女学院の――彼女風に言えば〝近衛師団長〟だったか」
前後に大きく『L』と書かれた薄黄色のリベロゼッケン。下に着ている黒地のTシャツやハーフパンツと相俟って、黄揚羽を思わせる。
「さすがに風格がある」
志帆ちゃんは至極真面目にそう評した。一つ下の女の子に対する形容としては大袈裟に聞こえるけれど、真実その通りだった。実際、彼女の登場で、聖レ全体の空気がより一層引き締まったように思う。その様は、まさに堅牢無比だ。
鶯谷あやめさん――ナナちゃん曰く、県内最強のリベロ。
そのプレーをできるだけ近くで見たいからなのか、志帆ちゃんはアップゾーンに戻らず、私の隣に回ってきてパイプ椅子に腰掛けた。
試合のほうは、ちょうど西垣さんがサーブを打つところだった。ゆったりとしたモーションのフローター。ぱしんっ、と打ち出されたボールは、不思議な力で吸い寄せられるように、当の鶯谷さんの守備範囲へと飛んでいった。




