85(芹亜) 本物
何かが今までとは違うな、という気がしたのは、鶯谷あやめさんというかっこいい人が「せー」と綺麗な声を上げたとき。
おっ?
と思わず足を止めて、向こうのベンチを見た。
ああ、うん……やっぱり、そうだ。
整列して、握手して、互いに最初のポジションにつく頃には、私はそれをはっきりと感じていた。
これは、本物だ、と。
例えば、山を登るとき。車が通れるくらいに道がしっかり整備されていて、たくさんのお土産屋さんがある辺りは、まだ全然そんな感じがしないのだけれど、上のほう、あるいは奥のほうに行くにつれて、だんだんと人工の気配が薄れていって、しばらく無心で足を進めていくうちに、ふと、それに気付くことがある。
真剣、という言葉が近いだろうか。木刀や竹刀や模造刀に対しての、本物の刀。
その切っ先に触れたような、冷たい感覚。
それは、写真で見た、あの〝女王〟の目と同じ。
ふわっ、
と一瞬、身体が浮くような錯覚がして、確信は深まった。
さっきまでも十分それに近いところにいたと思うのだけれど、ここに至って、私たちは明確に『踏み越えた』みたいだ。
ぴぃ――、とプレー開始の笛が鳴る。
私はコートの真ん中で構えていた。左隣には露木さん。右隣には瀬戸さん。後ろには栄さんと今川さん。ネット際の左端に小田原さん。
相手のサーバーは、私と同じくらいの背の、長い金髪を一つ結びにした人。随分線から離れたところ、体育館の壁に近いところに立っている。なんだかどこかで見たような気がする……と思っていたら、金髪の人はボールを高々と前方に放った。
わっ、ジャンプサーブ!
入部試験で三坂総合高校の在原止水さんが打っていたのと同じサーブ。ただし、フォームの癖が在原さんとは違う。金髪の人のジャンプサーブは、思わず首を傾けて見たくなるような、斜めった感じのものだった。
ばしんっ!
快音を響かせ、ボールは左から右へと巻くように回転しながら私の顔に向かってきた。見蕩れている場合じゃなかった。レシーブしなくちゃ。
「「西垣(さん)っ!!」」
周りの全員から心配そうな声がかかる。同時に私は両手を上げてオーバーハンドの構えを取る。と、運が良かったことに、ボールは吸い込まれるようにぴたりと私の手の中に収まった。しかし、
ばぢっ、
と、強烈な回転の掛かったボールは、暴れ馬のように私の手を逃れ、勢いよく跳ね上がった。指に思いっきり力を込めていたのに、抑え切れなかった。
「ナイスカットや、西垣さん!」
栄さんの明るい声につられて、振り返る。ボールは私の真上やや後ろくらいにあった。セッターの小田原さんのところへ飛ばなかったのだから、普通の意味の「ナイスカット」ではないけれど、たぶん、栄さんがトスをする分には問題ない、ということなのだろう。
「露木さん、レフト行くで!」
栄さんはそう言って、とーん、と柔らかく高いトスをレフトへ送る。私は放物線を描くボールの動きに合わせてまた相手側に向き直る。ネット際で小田原さんがブロックフォローに入っているのが見えた。私もそれに倣って腰を落とし、二人で露木さんを囲むような位置に構える。そこへ、
ぎゅん、
と露木さんが踏み込んできて、力強く跳び上がった。するすると落ちてくるボール。上体を反らして反動をつけた露木さんが、ひゅ、と腕を振り下ろす。その手の平がボールをしっかりと捉えた――直後、
にゅう、
とネットの白帯から二本の腕がカタツムリの角みたいに生えてきた。そして、
ぱんっ!
と打ったボールがそのままの速度で真下に跳ね返された。さらにバウンドしたボールが、ぢっ、と私の左耳を掠める。しかし、私はそれを避けなかった。瞬きさえしなかった。なぜならば、私の目は、そこにそびえ立つ『壁』に釘付けになっていたからだ。
ふぁ、
と小さな溜息が漏れた。頭の中に、試合前に聞いた『県内最高』という言葉が浮かび上がる。その言葉は目の前の人を形容するのに実にぴったりだと思った。
八等身のバランスよく鍛えられた体躯。目や鼻や口などのパーツは小ぶりで慎ましげ。髪は耳が見えるくらいの軽やかなショートカットで、色は青味がかった黒。その背筋はぴんと真上に伸びていて、周りを見下ろすことに慣れたようにきりっと顎が引かれている。
私よりも、沢木さんよりも、小田原さんよりも、誰よりも、高い景色を見ている人。
名前は、奥沢蘭さん、だったと思う。確か。三年生。
奥沢さんは、ちらりと目だけで主審の腕が自軍を示しているのを確認すると、無言のままで味方のほうに振り返った。喜びを露にすることなく、力を誇示することもなく、他のメンバーに混ざってコートを丸く走りながらお決まりの「せーれっは!」の掛け声を上げる。
ぽけっ、とその姿をじっと見つめていると、後ろから栄さんに肩を叩かれた。振り返って周りを見ると、みんなもうサーブカットの位置についていた。
私はまだ少しひりひりする指先を擦りつつ、真ん中の自分の位置に戻り、構える。さっきはサーバーの金髪の人に注目していたから意識していなかったけれど、改めて見てみると、当たり前だけど、ネット際に直立する奥沢さんはかなり存在感があった。何百年も人々の営みを見守ってきた古代の巨大建造物を思わせる、静謐で、それでいてどこか暖かみのある存在感だ。
唇を真一文字に引き結んで、油断なくこちらのコートに目を走らせている奥沢さん。じっと見ていると、ほどなく、目が合った。
私は、思わず、ふわっ、と笑みを返した。




