68(彰) トス
「あたしは森脇世奈です。よろしくお願いします」
よろしく、なんて口では言いつつ、世奈はぴりぴりと痛いほどの殺気を放っていた。差し出された手を握り返すのに、わたしは一瞬躊躇った。同世代の相手からは体格と態度が相俟って初対面で怖がられることの多いわたしだが、世奈は微塵も怯んでいなかった。それは単純に、あの頃はあいつのほうが背が高かったから、という理由かもしれない。いずれにせよ、普段は相手を威圧してしまうわたしが、逆に威圧されているという状況は、とても新鮮に感じられた。
小学五年生の新人戦で対戦して以降、世奈とは顔見知りになった。機会があれば少し話すこともあった。対戦すれば、わたしたちはキャプテン同士だったので、握手と挨拶を交わした。世奈はいつも敵意を撒き散らしていて、正直に言うと、小学生の頃、わたしはあいつが苦手だった。
中学生になり、世奈一家が元宮市に引っ越してきて、わたしたちは獨楢の仲間同士となった。
気難しいヤツだなという最初の印象が大きく覆ることはなかったけれど、味方になった世奈は以前よりもよく笑顔を見せるようになった。内と外の線引きがはっきりしている性格なのだろう。元宮VBC上がりのわたしたちの輪に、世奈はすぐ馴染んだ。
わたしたちが入部した当時、獨楢中にセッターは四人いた。三年生の美川明朝先輩、二年生の下沢舞先輩、そして夕里と世奈。このうち、舞先輩は夕里と世奈の入部をきっかけにアタッカーに転向した。だから、夏の中学総体を終えたあと、セッターは夕里と世奈の二人だけになった。
レギュラーの座を勝ち取ったのは、夕里のほうだった。順当に、と言えるだろう。夕里は小学時代、五年生で一つ上の代と一緒に全国を経験し、六年生のときには万能選手として県MVPに輝いた。世奈との差は歴然としていた。
世奈は、しかし、ふてくされたり挫けたりするようなことはなかった。元より、夕里という同世代最高のセッターと競うことになるのを承知の上で、世奈は獨楢を受験したのだ。当然、何も考えていなかったわけでもない。夕里に対抗するために世奈が編み出した武器――それがツーアタックだった。
「彰、ちょっと」
何か秘密の話をするような、それでいて荒っぽく突き放すような、独特の口調。耳触りのいい、外国語にも聞こえるような発音の「チョット」。これは、自分の練習に付き合ってほしいときの世奈の決まり文句だった。
練習前や練習後、長めの休憩中といった僅かな時間に、世奈はスパイクの打ち込みをした。セッターである世奈は、普段のスパイク練習でトス役に回ることが多い。その分を補うための「チョット」だ。わたしはそれに、世奈曰く「一番体力が余っていそう」、という理由で頻繁に付き合わされた。
「あたしが夕里に勝てる要素があるとすれば、身長くらいしかないわ。攻撃力で、あたしにしかない付加価値を追求するの。ま、セッターとしては邪道かもしれないけれど」
いつかの練習のとき、世奈はそう言った。口元には苦笑を浮かべていたけれど、目はどこまでも真剣だった。夕里と同じ土俵で挑戦を続けている世奈の姿は、当時まだ世奈より背が低かったわたしには、とても眩しく映った。
あの頃、わたしは少し焦っていた。夕里はバレーを始めてから急激に変わっていった。獨楢で唯一バレーを始める前の夕里を知っているわたしは、その変化にうまく合わせることができないでいた。理由は色々あるけれど、一番は、立場が逆転してしまったこと。バレーを始める前はわたしの後ろに隠れることの多かった夕里が、バレーを始めてからは一人でどんどん先へ行くようになったのだ。中学に入ってからは、それがより顕著になった。わたしはその背中を追うだけで精一杯で、ともすると自尊心を保つことも難しかった。
置き去りにされている、といつも感じていた。思うようにプレーできないときや、先輩たちとの力の差を目の当たりにしたとき、そんな先輩たちの中で堂々と立ち回っている夕里を見たとき、わたしはひどく動揺した。ばかりか、そうやって動揺する自分の精神的な幼さも許せなくて、さらに心乱れもした。
世奈との練習は、わたしの荒れる気持ちを和めてくれた。先を行く夕里を追い掛けるヤツがわたしに以外にもいる。そいつはわたしよりもさらに切実な立場にありながら、腐らずに頑張っている。そのことが嬉しくもあり、いい意味で悔しくもあって、わたしも負けていられない、と思えた。
新人戦が終わって、レギュラー争いが落ち着くと、世奈と練習する時間はさらに増えた。軍場ゆふる先輩や町川縫乃がそこに加わることもあった。けれど、相変わらず、世奈が真っ先に「ちょっと」と声を掛けるのは、決まってわたしだった。
やがて季節が移り、わたしたちはチームの中心になった。世奈の努力はツーセッターという形で実を結び、わたしは主将を任された。ずっと気にしていた身長も中二の秋にようやく世奈に並び、三年生の夏には天那を抜いてチームで一番になった。
夏の中学総体が終わり、部活動としては一区切りがついた。でも、バレーボール選手としてのわたしにはまだ大きな目標が一つ残っていた。それが、冬の都道府県対抗。わたしを含めた獨楢の主力は、例年通り県選抜のメンバーに選ばれた。
初めて参加する、高校の第二体育館で行われる練習会。そこで、わたしは自分に確かな力がついているのを感じた。身長が伸び、経験と技術が身につき、小学生のときに見上げていた先輩たちと同じ目線でプレーができるようになっていた。夕里が一足先に見ていた景色を、ようやく目にしている。やっと夕里の背中に手が届くところまできた。あとは結果を出すだけだ。と、わたしは大会へ向けて意気込んだ。
そして、年末に開催された大会で、わたしは夏以上の成果を上げることができた。特に初日のグループ予選では随分と稼いだ。二日目の決勝トーナメントでも、一回戦は上々の結果を出せた。わたしのエースとしての真価が問われたのは、次の二回戦だった。
決勝トーナメントの二回戦。すなわち、全国ベスト8を賭けた試合。去年も一昨年も、うちの県が超えられなかった壁だ。しかし、監督を含めて、わたしたちは「今年は行ける」という手応えを感じていた。夕里が基盤となってチームを支え、わたしと世奈が派手に決める(実際、わたしの次に点を取っていたのはセッターの世奈だった)という必勝パターンは、夏よりさらに強固なものになっていた。何よりエースのわたしの調子がよく、それに伴ってチーム全体の調子も上がっていた。
満を持しての挑戦だった。
試合は、しかし、出端を挫かれる形で始まった。相手のブロッカーが最初からライト(こちらから見るとレフト)に寄るという、明らかにわたしを警戒するシフトを敷いてきた。もちろん、それならそれでセンターやライトを中心に攻撃を組み立てればいい。常に三枚攻撃というのがツーセッターの最大の利点なのだから。
だが、スターティングローテでセッターだった世奈は、初球、敢えてわたしにトスを上げた。相手のプレッシャーに負けてわたしの調子を落とすようなことをしたくなかったのだろう。総合力に大きな差はなく、いずれ競り合いになるのはわかっている。形勢不明の序盤でエースでの勝負を避ければ、のちのちの展開に影響するかもしれない。ならばいっそ相手の思惑に乗って、正面からそれを打ち破り、一気に試合を決める――世奈らしい選択だったと思う。
試合は相手のサーブから始まった。相手のブロッカーはコートポジションの段階で既にわたしの側に寄っていた。あからさまな牽制。サーブが放たれ、プレイヤーポジションに移動しても、対わたしシフトはそのままだった。サーブカットがふわりと上がる。幸先のいいAカット。そこから、世奈は迷わずわたしにトスを送った。
――だんっ!!
と激しい打音が響き、果たして、ボールが落ちたのはわたしたちのコートだった。今思い返しても全身が炎に焼かれるような悔しさを覚える。わたしはあろうことかシャットアウトされたのだ。わたしはわたしを選んでくれた世奈の期待に応えることができなかった。わたし自身としても、チームとしても、最悪の立ち上がりだった。
結果、わたしたちは第一セットを落とした。22―25と、スコアの上では一方的なやられ方ではなかったが、わたしの主観では完敗といってよかった。もしこのチームに夕里がいなかったら、第一セットはもっと大差がついていたし、ここでわたしたちの負けは確定していただろう。
「みんな、慌てたらあかんで。大丈夫……二セット目は、ウチがなんとかする」
わたしと世奈が夏以上の活躍を見せる中、ここまでサポートに徹してきた夕里が、ついに表立って動くときがきた。〝不沈の黄昏〟――その真価は、斜陽に際して発揮される。夕里はこれまでに何度もわたしたちを窮地から救ってきた。それは、わたしたちのもう一つの必勝パターンだった。
第二セットは、まず夕里の攻撃から始まった。これは世奈の判断ではなく、夕里の指示だ。普段、世奈と夕里はそれぞれの判断で采配を決めているが、夕里が「なんとかする」と宣言した場合はそれが夕里に一本化される。どこにトスを上げるのか、どういうコンビの組み立てにするのか、全てを夕里が決める。これは世奈も同意の上で、こういうときのために、二人の間には二人にしかわからない符牒まである。
夕里の選んだ戦術は、執拗なマークを受けるわたしの負担を減らし、相手のブロックが手薄なセンター線を中心に攻めるという、この場における正攻法だった。それに応じて相手も戦術を変えてきたが、その手の読み合いで夕里が負けるわけがない。わたしたちは序盤から一貫して試合を優位に進め、気付けば25―17であっさりと第二セットを取り返していた。そのうち何点かはわたしが決めたものだが、驚くべきことにこのセットのわたしのアタック決定率は七割を超えていた。わたしにトスが上がるときは決まって、まるで霧が晴れたみたいに、相手のブロックが散っていたのだ。
わたしは、栄夕里という怪物の力の一端を、改めて肌で感じた。それは世奈や、他のメンバーも同様だったと思う。
そうして、勝負は第三セットにもつれ込んだ。相手はもう特殊なシフトをやめ、基本に忠実な戦い方を選んできた。互いに相手の動きに慣れ、かつ疲れが見え始める最終セットでは、下手な小細工はかえって自分たちのペースを乱すことに繋がるからだ。あとは、実力と気力の真っ向勝負。強いほうが勝ち、勝ったほうが強い。
試合は一進一退の攻防が続いた。こちらの指揮は、また夕里と世奈の二系統に戻っていた。だからだろう、トスは徐々にエースであるわたしに集まるようになり、当然、二セット目ほど楽には決められなくなった。
そして迎えた、23―23。
サーブは相手から。わたしのコートポジションは、FR。前衛でいられる最後の位置だ。ここで失点すれば、たとえ直後に取り返しても、24―24のデュースに突入して、その時にわたしは後衛で攻撃に参加できない。きっと苦しい展開になる。
ここで……確実に決めたい。
わたし以外の前衛は、レフトに世奈、センターに由紀。セッターは夕里で、わたしの真後ろに控えて相手がサーブを打つのをじっと待っている。
「夕――」
わたしにトスを上げてくれ、と言おうとして、笛の音に阻まれた。サーブ権を取った勢いそのままに試合を決めたい相手は、間を置かずにサーブを打つ。夕里がネット際へ飛び出す。サーブは世奈へ。世奈はオーバーハンドでそれを弾き返す。しかし、汗でスリップし、ボールが十分に飛ばない。世奈は一瞬悔しそうな表情を見せるが、すぐに切り替えて叫んだ。
「あたしが決めるわ――夕里ッ!」
レフト寄りの短いCカット。しかも夕里はわたしのいるライト側からネット際へと上がったから、一歩出遅れれば追いつかない可能性すらある際どいボールだ。普通のセッターならアンダーハンドで掬い上げてレフトオープン一択だろう。しかし、わたしたちは夕里が普通ではないことを知っている。
夕里なら、あそこからオーバーハンドで逆サイドのわたしまで持って来れる。わたしは確信していた。
「っと――」
果たして、夕里は世奈のカットを見るや否や、ネット際の定位置から瞬時に落下点へと駆け出し、膝をついてボールの下へ滑り込んだ。やはりオーバーハンドで捉えるつもりだ。夕里はまだレフトオープン以外の選択肢を残している。一方で、相手のミドルブロッカーは既に世奈に狙いを定めてそちらに寄っていた。夕里ならそれも視界に入っているはずだ。
「夕里……!! わたしに寄越せ!!」
わたしは夕里の背中に向かって大声で吼えた。確実にその耳に届くように。わたしは大きく助走距離を取って、いつでも、どんなトスが来ても全力で打てるよう全身に力を溜める。そして、夕里の繊細な指先がボールに触れ、
しゅ、
と上がったトスに、
「――――!?」
敵も味方も誰もが一瞬声を失った。その行く先は、世奈でもわたしでもなくて、速攻のタイミングでセンターに踏み込んでいた、由紀だった。
ぱしんっ――!
膝をついた体勢から背後のクイッカーに合わせるという神業に、相手のブロッカーはぴくりとも動けなかった。まったくのノーマークの状態から、由紀は軽やかに腕を振ってボールを真下に叩く。
決まった、と誰もが思った。
だが、ブロッカーという壁を排除してもなお、そこには、全国ベスト8という壁が残っていた。
「っらあああッ!!」
高々と、ボールが宙を舞った。山勘で走り込んできた相手のリベロの腕が幸運にもボールを捉えたのだ。執念のファインプレーに相手チームが湧き上がる。レフトのアタッカーがトスを呼び、セッターがそれに応えてセミを上げる。こちらもそれに合わせて由紀と世奈がブロックの構えを取っているが、攻勢を一瞬でひっくり返されたことで全員の表情に焦りの色が浮かんでいる。
それは、ちょうど、わたしがいきなりシャットを喰らったときの空気と同じ。
でも、もう試合は終盤も終盤なのだ。ここで崩れるわけにはいかない。ここでみんなの支えになれないで、何がエースで、何がキャプテンだ……ッ!!
「一本拾うぞ!! 足動かしていけ!!」
わたしは腹の底から叫ぶ。直後、
ばぢん――っ!!
相手のスパイクはクロスへ抜ける。縫乃とわたしの間くらい。守備の得意な縫乃なら届くか? 任せてスパイクに備える? 否、何よりもまず確実にレシーブだろ――!
だんっ!!
考えた結果というより、考えている間に勝手に身体が動いた感じだった。わたしはボールだけを見て飛び込んだ。どん、と縫乃を突き飛ばす衝撃が肩に走る。少し後が怖いが、構わず両腕を突き出す。ボールが当たる感触。上がった……っ! しかし、少し力を入れ過ぎた。たぶんライトへ乱れたカットになったはずだ。
わたしは受け身もそこそこに上体を起こし、顔を上げた。見ると、ボールはやはりライト側へ大きく飛んでいた。落下点はアタックラインとサイドラインが交差する辺り。今すぐ体勢を立て直せれば、オープントスなら、ぎりぎり間に合う。
「レフトだ……!! わたしが決める!!」
うつ伏せの状態から跳ね起きながら、わたしはトスを呼ぶ。そのとき、ボールの落下点に、世奈と夕里の二人が同時に入っていくのが見えた。
ツーセッターでは基本的に後衛のセッターがトス役に回る。今なら夕里だ。しかし、ラリー中にレシーブが乱れた場合、ボールの軌道や落下点によっては前衛の世奈がトス役になることがある。
今はどっちか――かなり微妙なところだった。セオリーに従えば夕里がトス役に回るべき場面なのだが、世奈が既にセットアップのモーションに入っているし、恐らく世奈のほうがワンテンポ先に落下点に入る。しかし、夕里としては世奈のライトセミも選択肢に入れたいはずだから、世奈を攻撃へと駆り立てるため、押し出してでも自分がセットアップしようとするだろう。
僅かでも判断を誤れば、最悪、自滅して終わる。
「っ…………!!」
冗談じゃない――! わたしは奥歯を噛んだ。そんなこと、わたしがさせない! ここでわたしが決めて試合に勝つ! 勝たなければならない! そのためにわたしは今まで練習をしてきたんだから……!!
「わたしが決める――!!」
強くなりたかった。わたしとは違う形の強さでチームを導く夕里と並び立つために。
「だからわたしにトスを寄越せ……っ!!」
強くなることができた。わたしとどこか似た強さでチームを引っ張る世奈に支えられて。
「――――――!!」
レフトへと駆けながら、わたしは、その名を叫んだ。




