64(彰) そういうの
何が起こったのかわからなかった。
世奈がキャッチボールの反則を犯し、それをきっかけに久保由紀とのメンバーチェンジが行われようとしている――それは、見ればわかる。
わからないのは、どうして世奈がここへ来て突然戦意を喪失したのかということ。試合が進むにつれ調子が落ちていることには気付いていた。けれど、こんな風にぱったりと、脱け殻のようになってしまうほど追い詰められていたなんて……。
「世奈、なんで――」
すれ違い様、わたしはそう言いかけて、声を失った。俯く世奈の肩が震えていたからだ。声をかけることはおろか、目を合わせるだけでも崩れ落ちそうなほどに、世奈は弱っていた。
「『なんで』……な。なんでなんやろな、ほんまに」
怒気のこもった小さな呟きが、アイスピックのようにわたしの耳に突き立った。弾かれたように振り返ると、夕里が冷ややかな目でわたしを睨んでいた。しかし、その表情は怒っているというより、悲しみを堪えているように見えた。
「……なあ、彰。セッターにとって一番辛いことって、なんやと思う?」
「それは……」
世奈の不調の原因と、夕里の問い掛け――それらの意味を整理しようとして、直後、由紀に肩を叩かれた。
「とりあえず、試合……キャプテン」
由紀はわたしに周りを見るよう視線で促した。みんな、わたし以上に何がなんだかわからないといった様子で、困惑していた。わたしはこれ以上の動揺を与えないように表情を消して、わかりきった指示を出す。
「サーブカットから、一本。やることは変わらない。ポジションはそのまま……で、いいんだな、由紀?」
「そう……私は、この場だけの仮役。迷惑かけると思うけど……」
「それぞれ、やれることをやっていこう。繋いでくれれば、最後にはわたしがなんとかする」
わたしの言葉に力がないことには、みんな気付いていた。気付いたからこそ、みんなしっかりと頷いてくれた。ひとまず総崩れはせずに済みそうだ。ようやく混乱の極みから抜け出し、わたしたちはコートポジションにつく。途中、わたしは由紀に確認の声を掛けた。
「由紀、ローテはS3。あと、わたしも鹿子も、セミでいいから」
由紀は「セミでいいも何もセミ以外上げられないし……」とでも言いたげに肩を竦めた。そして、軽く手を挙げ、ただ「了解」とだけ言った。
やがて、笛が鳴り、試合が再開する。相手のサーブはFRの狭川輝美へ。多少動きは固かったが、結果はAカット。ほっとしたように由紀がセットアップ。ジャンプトスはしない。地に足つけて狙いを定め、わたしにセミオープンを上げた。
由紀は全般的に器用な選手だ。ボールは程よい速さで程よい高さに上がっていた。しかし――わたしは踏み込みながら違和感を覚えずにはいられなかった――やはり、どれだけ精度が良くとも、トスと丁寧なオーバーハンドパスは、まったくの別物だ。
「っ……!」
当然ながら、わたしの行く先には三枚ブロックが既に待ち構えていた。だが、エースとして、キャプテンとして、ここでむざむざシャットアウトされるわけにはいかない。意地でも通す――!
「だああっ!!」
がづ、
とボールは壁を抜けた。勢いは削がれたが、相手のレシーバーのいないコートの真ん中へ落ちていく。
「届くぞ! 取ってこい、瀬戸さん!」
「わんっ――じゃなくて、うっす!」
明正学園のキャプテン――朝の挨拶のときに『星賀志帆。逆さにしても、ホシカシホ』と冗談めかして名乗っていた――の的確な指示で、ボサっとした髪のライトがボールに喰らいつく。
その伸ばした右手はぎりぎりボールの下に滑り込んだ。ライト――瀬戸は、さらにそこから、インパクトの瞬間に腕を強引に振ることで、ボールをかなり高くまで打ち上げた。間に合っただけで良しとしなかったそのファインプレーが、明正学園の追い風となる。
「ナイスレシーブや、瀬戸さん!」
ボールはセッターの定位置のほぼ真上にぴたりと上がっていた。夕里は階段を駆け上がるような足取りで落下点に入り、跳ぶ。左腕の振りが大きい。ツーが来る、とわたしは反射的にブロックに跳んだ。しかし、夕里は――わたしの動きを見て咄嗟にそうしたのか、初めからそのつもりだったのか――伸ばした左腕を引き戻して、右手でボールに触れた。ちょん、と手首のスナップだけで上げられたトスに、今川颯がクイックで合わせる。ボールはわたしの頭の上を風を切って抜け、ぱしゅ、とクロスのレシーバーの間に決まった。
夕里とわたしはほぼ同時に着地し、ネットを挟んで向き合う形になる。わたしを見上げる夕里の表情は無に近い。思わずわたしは怯みそうになる。いつからだったか、夕里は感情が荒れれば荒れるほど表情を消すようになった。今だって、虚ろな顔をしているようでいて、瞳だけは激情に煌々と燃えている。
「セッターにとって一番辛いことはな……アタッカーに信じてもらえへんことや」
ほとんど口を動かさないで、夕里は言った。
「……わたしが世奈を信頼していないと言いたいのか?」
心外だった。苛立ちを隠さずにわたしは言い返す。夕里は僅かに眉を寄せ、わたしから目を逸らした。
「……そやない。そやないけど……あのな、彰」
夕里は俯いて、『そこ』が痛むみたいに、胸の真ん中に手を当てた。
「ウチはもう彰の敵なんやって。せやから……なんも気にせんと、はっきり言うたってええんやで。彰の思っとる本当のことを」
「本当のことも何も……わたしはおまえに隠し事なんてしていない。はっきりしないのはおまえのほうだろ、夕里」
「やから、ウチは別になんでもない言うて――」
「なんでもないわけないだろ……っ! おまえは転校したときもそうだ!! なんでわたしに一言も相談してくれない!?」
「っ……うっさいうっさいッ!! 相談することなんてなんもなかった!! 今やってなんもない!! それだけのことや!!」
夕里は下を向いたまま、声を荒らげる。
「大体その……っ!! 彰のそうやってウチに構うの!! そういうのはもうええって言うたやんかッ!!」
叩き付けるようにそう叫んで、夕里は踵を返してわたしの前から去っていく。呆然と立ち尽くしていると、由紀に腕を掴まれて「試合中」と囁かれた。わたしはどうにか足を動かしてレセプションの位置につく。思考を切り替えなければ――そう思うけれど、不可能だった。
『大丈夫やって言ってるやろ! そういうのはもうええんやって!』
言われた。確かに、夕里から突然転校することを告げられたとき、口論になって、その中でそう言われた。内容は今とほぼ同じだった。
『とにかく、ウチは大丈夫やから。もう構わんといて』
でも……夕里、おまえ、わかっているのか……?
『構うな』と、そう言ったあの時のおまえが――今のおまえもだ――一体どんな顔をしていたのか、ちゃんとわかっているのか?
――ぴぃ。
夕暮れの中を巣へと帰っていく鳥の鳴き声のように、どこか遠くで、笛が鳴るのが聞こえた。




